1.上昇 ~また、ある男~(2)
第一部の4と5を別の角度から。
この作品がフィクションということをご理解くださると助かります。
グルジアは、その国土の面積の割には、極めて多くの民族が混在している地域である。スターリン、オルジョニキーゼ、ベリヤは、そのなかで育ったのである。前述の通り、ベリヤもまた少数民族ミングレル人である。「ロシア」はグルジア人という少数民族を圧迫し、「グルジア」もまた国内の少数民族を圧迫するのである‥‥。スターリンは見てきた通り己をロシア人化してソビエト連邦全土を支配しようと努め、オルジョニキーゼはグルジア人のままアゼルバイジャンのバクーで「ザカフカース」を支配しようと努め、彼らよりずっと若いミングレル人ベリヤはグルジアを支配しようと努めるのである‥‥。この年、一九二三年の春、早速アブハジア地域において反乱が起こっている。
別の角度から見てみよう。「ザカフカース」として統合され――てソビエト連邦に併合され――た、グルジア、アゼルバイジャン、アルメニアの三国だが、これらは歴史、民族、文化とも、大きく異なっている。グルジアについては後述する。
東はカスピ海に面するアゼルバイジャンは、北はロシア、北西はグルジア、西はアルメニア、南はイランと面する。アゼルバイジャン人は、西暦を用いるならば、紀元が始まる前後に存在していたカフカス・アルバニア王国を祖とする。南のイラン系国家――勢力――の統治下にある時期が長く、彼らと同じゾロアスター教(拝火教、マズダー教)の信徒が多かった。七世紀にアラブの支配下に入るが、イスラム教への改宗は、長い時間をかけた緩やかなものであったようである。セルジューク朝からオグズ・テュルク系遊牧民(テュルクメン)がこの地方に現れ、後のジョチ・ウルス系の政権の圧迫を受ける時代にかけて、テュルク化およびイスラム化が進んだ。いわゆるサファヴィー朝は、一七世紀、この地域に拠って興った。これをアゼルバイジャン人王朝と規定できるかどうかは、議論の分かれるところである。とにかくこの王朝により、カスピ海南西岸地域一帯のテュルクメン系の間でシーア派への改宗が進み、「アゼルバイジャン人(アゼリー人)」と呼ばれる民族が形成されるのである。イラン方面との民族的な共通性から、地名も「アゼルバイジャン」という呼称が定着していった。一八二八年のイラン・ロシア戦争により、アラス川北岸地域はロシアに併合される。帝国の大ロシア主義のもとで、彼らの「民族」としての意識が高まってゆき、そして十月革命を迎えていた。
アルメニアは黒海とカスピ海の間にあり、西にトルコ、北にグルジア、東にアゼルバイジャンと面する。アルメニア人は、自分たちをハイ――複数形ハイク――と呼び、また「国」のことをハヤスタンと呼ぶ。紀元前六世紀頃からすでに国際的な商業活動の盛んな地域であり、紀元前一世紀、大アルメニア王国として繁栄した。しかし、これはローマ帝国の時代であり、ローマ、パルティア、サーサーン朝ペルシアの圧迫を受けることになる。キリスト教化は早く、西暦三〇一年、世界で初めてキリスト教を国教としている。サーサーン朝ペルシアの支配を経て後にはアラブの侵攻を受けるが、九世紀半ばにはバグラト朝の誕生により、独立を回復した。しかし、その後のセルジューク朝やモンゴル・ティムール諸勢力による侵攻を受け国土が荒廃、一〇世紀には多くのアルメニア人が大量離散を余儀なくされる悲劇に見舞われた。時はくだり、一六三六年にはオスマン帝国とサファヴィー朝に分割統治されることになる。一八二八年、このペルシア領の地域が今度はロシア領として併合される。一九世紀後半、オスマン帝国下にいたアルメニア人の民族意識も高まり、同地のトルコ人民族主義者との対立が激化し、多くのアルメニア人が虐殺される悲劇に遭った。殺戮を逃れるには、同地のアルメニア人は、そこでもまた支配を受けることがわかっていても、ロシア領側に行くしかなかった。欧米に移住――できる者に限られたが――した者も少なくない。
そしてこの地域にはまた、彼ら以外の民族も多く居住するのである。言語によって分類するならば、グルジア人と同じカフカース諸語系、アゼルバイジャン人と同じテュルク諸語系、アルメニア人と同じインド・ヨーロッパ語族系に大きく三分類できる。ベリヤが属するミングレル人(メグレル人)は、カフカース諸語系である。他、チェチェン人、イングーシ人、アヴァール人、レズギン人、カバルダ人、チェルケス人、アディゲ人、アブハズ人等がこれに属する。テュルク諸語系にはアゼルバイジャン人の他、クムイク人、ノガイ人、カラチャイ人、バルカル人等が居住している。インド・ヨーロッパ語族系としては、アルメニア人の他にイラン語派のオセット人等が居住する。この他に同地域には、正教徒系としてロシア人、古代ギリシア時代に由来するポントス人(ギリシア人)、ユダヤ教徒系としてユダヤ人(ロシア経由のユダヤ人=いわゆるユダヤ人)、グルジーム(土着のユダヤ人)、また別のペルシア系統の山岳ユダヤ人、イスラム教徒系としてメスヘティア・トルコ人、ラズ人、ヘムシン人等が居住している。
この地域は、カフカース山脈を軸に全体的に地形が山がちであり、山間に様々な民族集団が複雑に入り組み、豊かで多様な文化を花開かせ、日々の暮らしを営んでいるのである。――この惑星上において、「民族」という観点からすると、もっとも多様な地域ではないかとすら言われる。
一九二四年一月二一日、偉大なる同志ウラジーミル・レーニンが死んだ。モスクワ中央の党員は、上から下までこぞって葬儀に参加した。オルジョニキーゼ、キーロフ、ミコヤン‥‥彼らだけではない、グルジアにおける反対派たち――ムディヴァーニ、オラヘラシヴィリといった党員も、葬儀のためモスクワへ向かった。前述の通り、葬儀は二七日に執り行なわれ、一般人を含む葬儀に参加できない人々のための告別式も、一週間にわたって行なわれた。しかし、並び立つ革命の英雄であり、故人の盟友であったはずの同志レフ・トロツキーの姿は、見られなかった。これにより、トロツキーへの疑念が形作られたことも、前述の通りである。では、彼は何処にいたのか? 彼は病気を患っており、医師の薦めで温暖なカフカースへと転地療養に向かったのだ。スターリンがこれを最大限に利用したことは、言うまでもない。党の会議で、彼を非難する演説を行なった。ベリヤもカフカースに残っていた。見も知らない「偉大なる同志」の葬儀に参列するよりも、スターリンの耳に――後になっても――よい報告が入るであろう道を選んだのである。
オルジョニキーゼやその部下、また反対派の面々も不在のカフカースは妙に静かであり、彼の心を落ち着かせもした。それにしても、権力とは素晴らしいものだ。人の死など道端のゴミと同じくらい溢れているこのご時世に、死んだというだけで国中が打ちひしがれたようになり、死に顔を見るために人々が山と群がるのだから。ラヴレンチー・ベリヤは、グルジアで療養中のトロツキーから目を離すことはなかった。自分で直接彼を尾行してみせ、滞在先でしばらく動かないと見るや、部下に見張らせた。連絡は、必ず定期的に入れさせた。定時連絡がなければ、免職も有り得るとすら言った。これはグルジアに限らないが、秘密警察員たちは、特権をかさにたるんでいた。まだ二十代なかばのラヴレンチー・ベリヤの厳命は、彼らに気合を入れさせた。スターリンが故人の手にあった旗を掲げて、われわれはボリシェヴィキの忠実な息子となってこの指導者の遺志を継ごう、と演説したと聞き、ベリヤは自分の判断は間違っていなかったと思った。
スターリンがレーニンの「遺志を継ぐ」つもりなど毛頭ないことは、ベリヤだけでなくオルジョニキーゼも承知していた。少なくともグルジア問題に関しては。――オルジョニキーゼは「グルジア問題」などすでに存在しないと言い張ったが、ベリヤはそれに、(馬鹿馬鹿しい‥‥)と思いながらも調子を合わせる一方で、警戒を怠らなかった。グルジアの人々は、赤軍による虐殺と暴行を忘れていなかった。レーニンの死後、同盟のもとスターリンが力を得つつあると聞くと、彼らの不満と怒りは高まっていった。一時は、また途中まではボリシェヴィキを支持していた労働者のなかにも、彼らの反対側に味方する機運が高まった。帝政ロシアの元グルジア軍将官ヴァリコ・ヂュゲリ将軍という人物の指導下、民族地下活動委員会が蜂起を計画していた。西グルジアはこのヂュゲリ将軍が指揮、東グルジアはその部下のチョロカシヴィリ大佐という人物が指揮することになった。部隊はおもに白衛軍の将校たちで構成されており、武器は黒海経由でトルコからバトゥミやスフミの港へと密輸されたものだった。彼らは、八月二五日午前六時に一斉蜂起と定めたが、ベリヤの「活躍」により二三日にはこの最高司令官ヂュゲリ将軍が逮捕された。彼らは、予定を一日早め、八月二四日未明、チョロカシヴィリ大佐の指揮のもと、決起した。
ラヴレンチー・ベリヤ配下の秘密警察――のヂュゲリ将軍への拷問――により、すでに情報は得ていた赤軍であったが、一日早いこの蜂起には対応できなかった。部隊と、彼らに賛同した労働者たちの手によって、赤軍兵舎が焼き討ちにされた。チアトゥーラ炭鉱のひとつがやはりダイナマイトで爆破され、屈強な炭鉱夫たちによって赤軍兵士たちは追い散らされた。消防士、農民、学生‥‥反乱軍はたちまち増大し、ボリシェヴィキ政権を圧倒し、グルジア各地を解放した。しかし、愛国心に勝る彼らも、次第に増派され体制を立て直してきた物量に勝る赤軍に、押し返され始めた。戦闘開始から十日目となると、もはや勝敗は明らかであった。迫撃砲や野砲、機関銃を有する赤軍部隊によって、彼らの連携は寸断され、多くの人間が捕虜となった。強運の持ち主は、バトゥミから船でトルコへ逃げた。蜂起は三週間でほぼ鎮圧され、収容所は負傷した捕虜で満杯になった。
ラヴレンチー・ベリヤは、どうすればよいかを心得ていた。彼らはグルジアの独立を唱えたが、正規の戦争での捕虜ではないのだ。先のヴァリコ・ヂュゲリは、前トビリシ市長であったバーニャ・チキシヴィリ、憲法制定議会議員であったノア・ホメリキという二名の指導者とともに銃殺刑に処せられ、グルジア共産党の機関紙「ザリャー・ヴォストーカ」は、そのことだけを報じた。その裏では、ベリヤの指揮のもと、捕虜の処刑が五十人、百人単位で毎日のように行なわれた。彼らは、形だけの裁判にもかけられず、殺害された。遺体を焼くペースがこの殺害のペースに追いつかないので、深夜、鍵をかけたトラックで荒地に移送され、銃殺され、そこに埋められた。身を隠した反乱参加者の摘発――未成年もである――も続き、恐怖の夜が、数ヶ月にわたってグルジア全土を覆うのである‥‥。
隣人が、また職場の同僚が、逮捕され、その後の行方がわからなくなる。「人間が簡単に消えてゆく」社会になっていた。人々は、何が起きているか薄々承知していたが、自分や家族の命を守るためには黙っているしかなかった。若き秘密警察員ラヴレンチー・ベリヤの功績は、ここでも大であった。彼はこの時期、実におよそ一万人もの人々を処刑せしめた。ラヴレンチー・ベリヤは赤旗勲章を受章、また「仮借なきボリシェヴィキ」という異名とともに、秘密警察内でその存在が知られることになった。
一九二五年春ごろには、グルジアにおける殺戮はいちおうの終息を見せた。トビリシの煉瓦工や石屋は新しい仕事にてんてこ舞いすることになった。秘密警察のグルジア支部長代理――実質的にはすでに支部長であった――ラヴレンチー・ベリヤの監督のもと、トビリシ郊外に新しい住宅地が建設されることになったのである。ベリヤは、個人的には建築家の夢を達成する目的で、政治的にはグルジアの人々に暗い記憶を忘れてもらうため、この事業に着手したのである。トビリシ郊外のヴァケ地域と呼ばれる場所がその新住宅地に決まり、大量の遺体が掘り返され、夏には水道と電気がある近代的なアパートメントが並ぶことになった。トビリシへ繋がる幅の広い新道が作られ、スターリン通りと名づけられた。
この年、レフ・トロツキーは再びグルジアで病気の療養をし、その際はベリヤは多忙にも関わらず、やはり自ら彼を尾行し、部下を張りつかせた。そして、このようなこまめな点数稼ぎを、必ず中央政界のスターリンの耳に入るようにさせた。
ラヴレンチー・ベリヤはこの時期、グルジアの教育改革にも取り組んだ。小中学校の生徒はピオネールに、大学生はコムソモールに、それぞれ加盟させるよう指導せよとの通達(指導要綱)が、グルジアの各学校に送られた。特に農村部において、新しい小中学校が、いくつか建設された。すべての学校において、ソビエト支配のイデオロギーとその意義が教えられなければならないことになり、小中学校に子どもを通わせることは――違反すればその両親に処罰が伴う――義務教育とされた。
ベリヤはまた、スフミの自分の母校である平屋で木造の校舎の学校も訪れ、「こんなオンボロ、とっととぶち壊せ」と命じた。
「三階建ての近代的校舎を建てさせろ。図面は俺が書く」
元の校舎があった通りは、ベリヤ通りと改称された。トビリシには党員とコムソモールのための大学二校が、バトゥミとスフミにも大学五、六校が新設された。グルジア全土で教育は無料となったが、教師は党員となることが義務づけられた。
トビリシ市は工事され、「清潔な」近代都市へ変貌しつつあった。バトゥミ、スフミも清潔にされ、近郊地域も沼地に排水溝が設けられるなど、整備が進んだ。これらは、グルジアの人々に、ふたつのメッセージを与えた。ひとつは、グルジアは新しく生まれ変わりつつあるのだということ。例えばこのバトゥミ近郊の沼地は、毎年、大量のやぶ蚊を発生させ、マラリアや黄熱病を発生させていたのである。ふたつめは、あの若き指導者はこれらの恩恵の代わりに新体制への忠誠を求めており、過去の「騒動」は忘れなければならない、ということである‥‥。
一九二六年七月二〇日、ジェルジンスキーが死去し、GPUあらためOGPUの新議長の座には、ヴャチェスラフ・メンジンスキーが座った。この年、ラヴレンチー・ベリヤは正式にOGPUのグルジア支部長となり、またグルジアのOGPU議長(長官)にもなった。メンジンスキーへの交代劇は、ベリヤにとっても試練であった。この新議長は、モスクワから各地のOGPU支部へ使節団を送ったのである。当然、グルジアにも派遣されてきた。議長交代に伴う儀礼的な訪問であるとされていたが、その実、使節団のメンバーはこのメンジンスキー肝いりの――大きな権限を持たされた――部下であり、これは一種の査察なのであった。
われらがラヴレンチー・ベリヤは辛くもこの点を見抜き、彼らとすれ違うようにトビリシ駅からすぐさまモスクワへと向かった。そして、スターリンと初めて正式に会見し、この「使節団」をトビリシ駅近くの宿舎からまっすぐモスクワに召還させてもらったのである。彼もモスクワで移動し続けたため難しかったが、極力部下たちから報告を入れさせた。厳しい面持ちの「使節団」のメンバーは、食事には手をつけたが、酒は決して口にしなかったという‥‥。
(――グルジアに来て、グルジアワインを飲まぬとは!)
ベリヤは唸った。だがこれが、メンジンスキーなる新議長のやり方なのだった。グルジアはワインの発祥地であり、世界最古のワイン文化を誇る。「甘口ワインの真珠」ことフヴァンチカラはセミスイートの赤ワインで、歴代ツァーリも愛飲したものだ。ツクリアラというスパークリングワインもある。フヴァンチカラのツクリアラは、殊に珍重されている。旧くは古代エジプトのクレオパトラに愛されたこのグルジアワインはまた、現代においても(スターリン、ベリヤらグルジア出身者のみならず)共産党幹部や、国外でも例えば英国のあのイギリスのウィンストン・チャーチル――この人物は、再び政治の世界に身を投じていた――等に飲まれていた。
ベリヤの地位は保たれた。青年が大人になる過程では、苦さを覚えなければならない。われらがラヴレンチー・ベリヤも、この苦さを味わうことになる。写真もろくに見たこともないヴャチェスラフ・メンジンスキー(しかも貴族出身だというではないか!)という男に憎しみを覚える一方で、そのさり気ない――貴族的と言えば言えなくもない――手口には、感心せざるを得なかったのである。
(世の中ってのは、広いもんだ‥‥)
学ぶべきことが多いことを、われらがラヴレンチー・ベリヤは痛感せざるを得なかった。このモスクワ滞在中に、ベリヤはいくつかの出会いを持った。ヴラーシクのボディー・チェックを経て、ポスクレブイショフに導かれて通されたスターリンの執務室には、様々な人間がいた。多くは若かった。
彼以上に肥えた、ゲオルギー・マレンコフという赤軍の政治委員は、話をしてみて、なかなか有能そうだと思った。ラヴレンチー・ベリヤは、湿った手を伸ばし、このマレンコフと握手をかわした。聞けばベリヤよりも若く、まだ二四歳だという。一介の護衛要員というわけでもなく、その年齢でスターリンの執務室に出入りできるのは、やはり何かスターリンに特別に気に入られる点が――有能さか媚の売り方がうまいのか――あるのだろうと推察できた。
「で、あの人が――」
若い者同士、何となく気が合う感じをマレンコフも覚えたのだろう、そのマレンコフがベリヤに紹介したのは、身長が一五〇センチあるかないかという、しかも痩せて陰気そうな、ニコライ・エジョフという小男だった。
「彼もたまたま来たんだ」
ベリヤより少し年上の三一歳で、どこぞの地方委員会の書記ということであった。
「どうも‥‥」
エジョフという男が遠慮しいしい手を差し出したので、仕方なくベリヤも手を伸ばし握手した。彼のその手は、その短躯にしては思いのほか大きく、力強かった――向こうは向こうで、(妙に汗ばんでるな‥‥)と思ったかもしれない――。隅のほうでにやにや笑っているだけの――としかベリヤには見えなかった――この男が、スターリンの執務室に出入りできるのは、なおさら理由がわからなかった。
(ははあ‥‥)
ベリヤが退出後に考え出したのは、執務室の誰かが男色家で、あの小男はその相手役なのではないか、という下衆な想像であった。マレンコフの、「彼もたまたま」は、よく考えれば意味深長であった。自分の訪問も見抜かれていたようであったし、また、エジョフもメンジンスキーの査察に関してスターリンのもとを訪れたのかもしれない――ということは、残念ながらグルジアに帰ってからしか気がつけなかった。このモスクワ滞在中にベリヤはまた、OGPUの対外局長であるミハイル・トリリッセルという男と――これは仕事で――会っている。
頑張っていたのは彼だけではない。中央政界の政治局においては、ジェルジンスキー(彼も局員候補であった)死亡のわすか三日後に――グリゴリー・ジノヴィエフの解任とともに――新しい局員候補のリストに、ラーザリ・カガノーヴィチの他、スターリン派のいわば「カフカース版トロイカ」の三名、すなわちセルゲイ・キーロフ、グリゴリー・オルジョニキーゼ、そしてアナスタス・ミコヤン――この三人組の名前が載った。セルゲイ・キーロフはジノヴィエフの拠点であったレニングラードの第一書記に任命されて「改革」――ジノヴィエフ派の追放に、アナスタス・ミコヤンは外国貿易・国内商業人民委員(大臣)に就任し、貿易と国内商業の組織化に力を入れていった。一九二六年末の時点で、グリゴリー・オルジョニキーゼとセルゲイ・キーロフはともに四〇歳、アナスタス・ミコヤンは三一歳、そしてラヴレンチー・ベリヤは二七歳であった。
給仕としてスターリンに宣言した通り、彼は「グルジアじゅうに鍬を入れ」、「雑草を根絶」することに努めた。その甲斐あってか、スターリンからの評価も高く、またグルジアにおいては、事実上グルジアの人々の生殺与奪圏を握る立場にあった。キーロフ、オルジョニキーゼ、ミコヤンを、カフカースの三巨頭とは呼びにくくなっていた。まだ二十代のラヴレンチー・ベリヤの存在感が、グルジアで、またカフカースで増し、(そう呼ぶなら)「四巨頭」と言うべきにまでなっていたのである。
グルジアでは、特に都市部の外観は生まれ変わったようになっていったが、夜間にはこのような光景が垣間見られた。GPUの装甲車と武装した小隊がパトロールし、時に目当ての住居を囲み、踏み込むと、五人、十人、といった単位で逮捕した人々を、何処かへと連れ去るのだ‥‥。
バーン!
閂が外れていることを確かめると、幾筋かの懐中電灯の光のなか、ラヴレンチー・ベリヤは革靴で小屋の木戸を力強く蹴り開けた。
「出て来い反対派め! おとなしく投降するんだ!」
ベリヤは、手にした拳銃を、小屋のなかへ向けて叫んだ。
「逃げ道はないぞ。いまなら情状酌量の余地がある――‥‥」
できるだけ声に迫力を持たすよう努め、嘘八百を並べ立ててみたが、いずれにせよ意味はなかった。ナガンM1895の銃口は、その大きめの小屋の暗がりを、むなしく睨むだけだった。一九二八年のことである‥‥。
ターゲットがいると目された小屋は、すでにもぬけの空であった。情報自体は間違っていなかった。小屋はたしかにアジトで、壁には何かを剥がした跡があった。すぐに数冊の帳面が見つかり、ベリヤは同行のGPU隊員たちにすぐさま、それら証拠品の押収と、付近の捜索とを命じた。
(チッ――。迅いな‥‥!)
夜鳥が鳴くなか、隊員たちの懐中電灯が、森の梢の間をちらちらと動いている‥‥。ガシュ‥‥! ラヴレンチー・ベリヤは、紙巻煙草に火をつけた。マッチではなく、着火装置でだった。GPU隊員が珍しそうに見ているのを感じて、ベリヤは得意になり、とりあえずはいい気持ちになった‥‥。
ライター。アメリカはロンソン社が発表したばかりの、点火機能と消火機能を持つ世界初の全自動式で、「バンジョー」というモデルだった。逮捕した反対派の家に大事そうに置かれていたもので、イギリスの情報機関経由でそこに来たものらしかった。押収してきたGPU隊員は、最初、何の装置だかわからかなかったそうだ――その隊員が理解して掠め取ろうとしたのを、隊長が目ざとく見つけ、こうしてベリヤの手に入ったというわけだった。グルジアはいざ知らず、「ザカフカース」、いや全ソビエト連邦でも、外国人以外でこれを持ち歩いている者は、百人もいないだろう。十人もいないかもしれない。それほど珍しい物で、新しい物好きのベリヤを満足させるに充分な代物だった。
彼にはもうひとつ、手に入れたいと願っている、欧米の製品があった。やはりアメリカ合衆国はコルト社製の、自動式拳銃M1911。通称「コルト・ガバメント」。すでに一九一一年にアメリカの軍隊で制式拳銃として採用されていたもので、装弾数こそ七発と同じであったが、弾丸の破壊力といい、リボルバー式のナガンM1895よりかなり高性能であった。その威力を申し分なく示すアメリカ軍兵士たちの「手砲」という愛称は、この男の想像力をかきたてていた。昨年からは改良されたA1という最新型の生産が開始されたようだ、という情報も入手していた。ラヴレンチー・ベリヤは常に、十全とは言えぬ現在のOGPUの情報網からでも、可能な限り新しい――最新の情報をチェックする。
(しかし、これよりも手に入れにくい上に――)
拳銃はライターと違いGPUの装備品であり、彼の立場といえど、おいそれと自分の趣味を通せるわけではなかった。まして彼は、それを観賞用としてダーチャの居間に飾っておくつもりなどない。実際に自分で――人間を――撃つために携帯しておきたかった。弾薬や部品も、頻繁に入手せねばならなくなる。かなり大変だ。
それでも彼はグルジアのOGPU議長なのだから、無理にやれば不可能事ではないかもしれない。しかし――彼はグルジアの秘密警察組織ではトップであったが、全国に、また秘密警察以外に、警戒しておかねばならぬ相手は多くいた。その最大の相手はヨシフ・スターリンであろう。その男の異常なまでの猜疑心の強さは――ボリシェヴィキ語訳「常に警戒を怠らない革命精神の現れ」は――遠方のベリヤにも伝わってきていた。部下たちの密告、あるいは悪意のない噂話から、彼や指導部の耳に入り、「外国かぶれ」として糾弾されることも、ありえないことではない。特に最近、また首都のほうが騒がしい。事実かどうかはともかく、「外国の手先、スパイ」などという用語は、ベリヤの耳にも入ってきていた。この場合の「外国」とは、おもにイギリス、またフランスとドイツ、そしてアメリカを指す。いわゆる欧米諸国だ。大きく東に目を転じて、日本を警戒する声もあった。そして、事実かどうかは、この国では人間を逮捕する際、あまり重要視される要素ではない。――危ない橋は、渡らぬほうが身のためであった。
(奴らの技術は進んでいる――表立っては言えないがな‥‥。それは認めねばなるまい‥‥)
今夜の捕り物は、規模こそ大きくはないものの、普段とは違う、重要なものだった。だからこうして、少数の信頼できる優秀な部下を選りすぐり、自ら陣頭指揮に立ったのだ。
ターゲットは、「ロザマリーヤ」という女。ウクライナ人であり、また推定五十歳近くと、けっこうな年齢であるということも珍しかった。オフラーナを含めて判明した逮捕歴はなく、写真の類は入手できなかったが、エスエル左派のメンバーであることから、年季の入った活動家である可能性があった。
ウクライナ人、エスエル左派――そう、今回のターゲットは、いつものグルジアまたカフカースの反対派ではなかった。この女は少なくとも十年はカフカースに住んでいて、グルジアの反対派と接触していた。バクーでも活動していた形跡があるから、下手をしたら彼とすれちがっていたかもしれない‥‥。さらに――驚くべき情報も入手していた。過去、グルジアで療養していたトロツキーと接触しようとしたふしがあるのだった。幸いなことに、グルジアの反対派とは接触しているものの、うまくはいかなかったようだった。政治的な意見の違いに起因するものなのか、理由はわからなかったが――。
とにかく、現指導部に反対する勢力を糾合しようという動きならば、大変なことになる。逆に言えば、ベリヤにとってはまたとない出世のチャンスだった。一網打尽に出来れば指導部――スターリンの覚えもめでたくなり、全国の秘密警察のみならず中央政界にも自分の名が轟くであろうからだが――。
(どんな女だ、一体‥‥)
ベリヤは歯噛みした。「ロザマリーヤ」は変名であろうが(「ロザ」「ローザ」はウクライナ語で「薔薇」。――ドイツの「ローザ・ルクセンブルグ」を意識しているのかもしれない)、それでもベリヤはその名を頭に刻み込んだ。「コヴァーリ」、「コヴァレーンコ」‥‥女は、姓のほうは複数を使用していた。「コヴァリチューク」、「コヴァリューク」‥‥。――「ラドムイスリスキー」というのも使っていた。ユダヤ人のジノヴィエフの本名じゃねえか。目立ってもかまわないというのか、なめやがって――。「キエフスカヤ」などと自署した手紙も押収していた。また、彼はあまり知識を持っていなかったが、この女はかつてバクー大会において、ミールサイト・スルタンガリエフとも接触を試みた可能性があるという‥‥。
(節操のない女だ。エスエルがどんな組織かは知らないが――)
自分のことは棚に上げて、ラヴレンチー・ベリヤはひとりごちた。情報では、組織の中核にいたことはなく、はずれ者らしかった。
(――それで上に行けるわけがない‥‥)
自分のような者ばかりでないということは、彼には生理的に理解できない部分だった‥‥。――オフラーナと戦ってきたエスエル左派の古参メンバーのなかにはつわものがいることを、ベリヤは知っていた。はずれ者とはいえ、年齢から言えばマリア・スピリドーノヴァよりも上。お互い見知っている可能性もある。とにかく、トロツキーと接触を試みるとは、ただ者ではない。レフ・トロツキーは追い込まれても、エスエルとは――右派はもちろん左派とも――共闘しようとはしなかった。その年齢ならば、よく知っているはずだった。それが、危険を冒してまで、何故――? 単に無謀なだけならよいが、何らかの接点があったとしたら‥‥。
付近の捜索に出していた隊員たちが、成果なく戻ってきた。
(情報が、洩れているのか――?)
梢が、風でざわざわと揺れた。ラヴレンチー・ベリヤは、自分の知らないところで何か大きなものが動いているような不快感を覚えた。今夜の件は、失敗に備え、知らせるのは可能な限り少数に絞っておいた。それは幸いだったが‥‥。煙草は、いつになく不味かった。
この捜索の失敗の話は、うまい具合に広まらずに済んだ。完全に隠したりすれば怪しまれるからそうはしなかったが、警戒はしておく必要があった。敵は、どこにいるかわからない。モスクワのヨシフ・スターリン個人への権力集中は、着実に進んでいた‥‥。
むろん、彼女を含む反対派の動向には、これまで以上に目を光らせることにした――そんな折、トビリシ郊外にまた新たに数戸の新住宅が建築されたのだが、その入居予定者名簿を見ていたラヴレンチー・ベリヤは、ある名前を発見したのだった。入居は公務員が優先されていたのだが、そこに、郵便局員の夫を持ち、本人は教員――代用教員を務めていた経歴も持つという、次のような若い新婚女性の名前があった。「ノンナ・チコヴァーニ」。格別珍しい名前ではないが、問題はその旧姓だった。「タカシヴィリ」――。ベリヤは念のために提出させておいた身上書で、彼女の身元を確認した。間違いなく、あの「ノンヌーシュカ」だった。現在はトビリシ市の、やはり郵便局に勤務とあった。ベリヤは不意に、久しぶりに彼女に会いに行こうか、という思いに捉われた‥‥‥‥。
「おまえみたいな奴が教員とは、世も末だな」
入居当日の夜に新居を訪れたベリヤは、ここでも自分のことは棚に上げたのであった。彼女の夫は、GPU隊員たちを見ると目を丸くして、彼らの頼み通り、夜の一二時までは消えてくれた。ベリヤは後から姿を現わした。黙らせることは簡単だ。黙らなかったら逮捕することも。しかし、無駄にことを大きくする必要もない――。自分が陣頭指揮をとった件の襲撃の失敗以降、ラヴレンチー・ベリヤはより慎重な振る舞いを学びつつあった。見張りのGPU隊員たちには特別にライターを貸してやり、同時に他言無用を命じた。
「昔の話ですよぅ。それより、バトゥミでは大変だったんですから」
まだ生活感のない一戸建ての新居で、ノンナ――ノンナ・チコヴァーニは口を尖らせた。相変わらずの甘ったるい口調。こいつの精神年齢は成長していないようだ‥‥とまたまた自分のことは棚に上げるラヴレンチー・ベリヤであった(――以後、特に指摘しない)。バトゥミでの話は端折らせた。
「あの頃、大変でなかった奴のほうが珍しいってもんだ」
「‥‥‥‥」
ノンナはむくれたが、話を長くすることはやめてくれた。――家族とトビリシに来て、父親のつてで短い間代用教員を務めていた。しかしその職を失い(例の「教育改革」のためであった)現在は身上書通り、郵便局勤めをしているということであった。郵便局員といっても、配達はしない内勤で、保健係などをしているが、それは退屈でつまらない‥‥しかし、今度、全国の郵政事業で発刊予定の局内雑誌を任されていると、目を輝かせたのだった。そして、その雑誌のトビリシ市代表取材記者に選ばれ、昨年秋にモスクワへの取材旅行に同行したのをきっかけに、現在の夫と親しくなった、と。
「新婚旅行に先に行ったようなものです」
とりあえず、ノンナの機嫌は直ったようだった。そう言いながら彼女はベリヤに、彼女と彼女のいまの夫、ほか数名のピオネールの若者が映っている写真を見せたのだった。
「海軍志望の生徒たちです。かっこよかったなぁー。‥‥一番よかったのが、彼‥‥ミハイル・ソコライエフ君! きりっとしてて、優しくて――」
思い出しているのか、ひとりの笑顔の若者を指さしてうっとりしている相変わらずの「ノンヌーシュカ」に、ベリヤは呆れた声を出した。
「何しに行ってるんだ。取材旅行だろ」
「だぁってぇー。騒がしくて、行けないところばっかりだし、つまんないんだもん」
その時期のモスクワは、トロツキーと彼の支持者への措置で緊迫していたことは、前述の通りである‥‥。
「あ~あ、せっかくの旅行だったのに、つまんなかったなぁー。取材はこのピオネールが一番ましで、あとは工場とか、集会とか、軍の基地とか、そんなのばっかりなんだもん‥‥」
元気だけが取り柄に見えたそばかすの少女の「すごーい」に代わるこれからの口癖は、この「つまんない」になりそうであった。ベリヤは早くもうんざりしてきた。俺はなぜ、進歩しない、こんな女に会いに来る気になったのだろう‥‥。
「旅行なんて、また行きゃいいだろう」
「――‥‥! 簡単に行けるわけないじゃないですか。あたしの生涯最大の旅行だったかもしれないんですよ‥‥。戻ってきた翌日から、またつまんない局勤めに逆戻り‥‥」
現在の彼女とベリヤとの間には、すでに埋められないほどの境遇の開きがあった。昔は彼女が中流、ベリヤは学生とはいえ貧困層であったが、いまは完全に逆転していた。
「あたしの人生なんてさ‥‥」
ノンナはなおも愚痴をこぼしていたが、ベリヤは相手にしなかった。よし、この女とは、今度こそもう会うのをやめよう。うんざり? そんな暇があったら行動だ――。‥‥考え込むラヴレンチー・ベリヤは、やや注意力散漫になっていた。
「あ、でも、中国人‥‥の人たちは面白かったな。ながーい龍を持ち上げて‥‥踊ってた」
踊り‥‥? ベリヤには、「ノンヌーシュカ」お得意の、どうでもいい話に聞こえていた。こちらは一国の治安を担当する身なのだ。
(物見遊山の話など‥‥)
――その時期、モスクワの孫逸仙大学の中国共産党学生グループが、反スターリンのデモを呼びかけていたトロツキーへの数少ない応答者として行動していた。彼らはノンナが言う通り、街頭で長くうねる張り子の龍を頭上に持ち上げ、レフ・トロツキーを支持する旨の声明文を空中にばらまき、口々にスターリン批判を叫んでいたのだった――たちまちGPU隊員たちがそこに押し寄せ、逮捕されてしまっていたが。
ノンナのほうは、自分の人生の端々にも面白いこととの出会いがあるらしい、という考えに至ったようで、「そうだ‥‥」と思い出したように部屋の隅へ行き、大きなバッグを何やらごそごそと探り始めた。やがて彼女ががさがさと取り出してきたのは、大きな平たい紙包み。三重にされた紙のなかから出てきた物は、額縁に入れた絵だった。
「おまえ、何を入れてんだよ、そこに」
と呆れつつ、ベリヤは差し出された絵を見ることになった。描かれていたのは――印象派というやつだろうか、それが人の顔だということはわかったが、ラヴレンチー・ベリヤの審美眼にはさっぱり訴求するものがなかった。
「あたしですよ、それ」
「どうしたんだよ、これは」
ラヴレンチー・ベリヤは、その絵を上下さかさまにしてやりたい衝動に駆られていた。つまらん静物画よりはましな気もするが、しかし美は乱調にありとはいえ、なんというか、もっと精緻に描けないものだろうか。これでは絵の具を塗ったくっただけだ‥‥。
「描いてもらったんです」
「絵描きの物乞いにでもか? ただでも俺はいらんな、こんなの」
ベリヤは、バクーの街で見かけた老婆を思い出していた。あの老女の姿は、彼が戦争から戻ったときには、もうなかった‥‥。
「違いますよぅ、もう‥‥。旅行の途中、列車で一緒になった面白いおばさんに、描いてもらったんですよぅ。――ずっとこうして、出会った人や風景を描いてるんだって。むかし好きだった男の人を、写真を見て描いたりしてるって言ってた」
ノンナは口を尖らせつつも、戸惑った表情を浮かべていたが、ラヴレンチー・ベリヤの両眼は額縁の絵に注がれていた。両耳はノンナの話に傾けられていたか、何の話だか気づくことはなかった。幸いなことに‥‥。
「ぐちゃぐちゃじゃないか」
「印象派って言ってくださいよ。それに、列車のなかですよ――あ、そうだ。もうひとつ‥‥」
ノンナは、また何事か思い出したようだった。
「赤軍の『基地』‥‥モスクワぐんかんく司令部、だったかな‥‥で、軍人さんたちの仕事も取材したんだけど――」
「ほう‥‥」
ラヴレンチー・ベリヤは〈警察官〉である。アンテナは常に張りめぐらせておく必要がある。
「そのときに、なんか小さい――ほんの小さい――女の子が泣いてて、ハンケチで涙を拭いてあげたんです。家族と一緒に来たんですって。それで、その子と広い中庭で遊んでたら、やっぱりまだ小さいその子のお姉さんが出てきて、お礼を言われて、変な木のおもちゃを貰ったんです。貰っていいのかなって迷ってたんですが、三人で遊んでいるうちに、その子たちのお母さんが出てきて、『うちの主人ったら、女の子にもこんなおもちゃを与えるんですのよ。いいから、貰ってください』って。それで、貰ってきたんです。――持って来ましたよ。ええと‥‥」
と、また大きなバッグをごそごそと探り始めた。
(軍人‥‥。妻が――子連れで来ていたということは、それなりの立場の者か‥‥)
ベリヤはノンナに、名前は聞いたのかと尋ねた。彼女は、聞いていないと答えた。自分の名前も言っていない、と。
(それでは意味がない‥‥)
つまらなそうに鼻を鳴らしたラヴレンチー・ベリヤだったが、ふとあることに気がついて、目の色を変えた。
「――おい! まさかおまえ、さっきの女に‥‥」
「え?」
「‥‥列車の女とやら――。そいつに、俺のことを言わなかったろうな‥‥!」
彼女も、グルジアで暮らす者として、何も知らないわけではなかった。秘密警察を取り仕切るのが、誰なのか。そしてその人物が、どういうことをやっているのか――。彼女のなかでも、スフミ時代は、もう遠い思い出のなかであった。父親はあるときから、極力スフミの知人とは会わないようになった。それでノンナも、その人たちから遠ざかっていたのだが‥‥。しかし、「話」はそんな彼女のところへも伝わってきていた。一九二三年春、アブハジアで反乱が起こった少し後、スフミの、以前は大きな洋服生地店を営んでいたスヴィモニ・イェルコモシヴィリという主人が、「チェキスト」たちに連れて行かれたこと。その夫人マロ・イェルコモシヴィリが会いに行ったが、彼女は心臓が弱く、顔を腫らして帰ってきて、そして亡くなったこと。そしてスヴィモニ・イェルコモシヴィリも獄死したこと――これらのことは、マロ夫人が亡くなる前に彼女を見舞った人々に伝えたこと――。
ラヴレンチー・ベリヤに詰め寄られて肩をつかまれ、ノンナ・チコヴァーニは恐怖の色を浮かべていた。目には早くも涙が浮かんでいる。
「い、言いませんよ‥‥」
こいつをどうするか。ラヴレンチー・ベリヤは考えあぐねた。あのイェルコモシヴィリ同様、処分するのは簡単だ――。
(‥‥が、まあしかし、将来俺が出世したとき、なんというのかな――伝記が書かれることもあるだろう‥‥。そのとき、伝記作家には少しは情報源も必要になってくる‥‥。あの「凄く偉くなって下さい」の場面は、始まりとして悪くない――)
――ラヴレンチー・ベリヤは女に、許可なしに今後一切、夫にも他の者にも、自分のことは話さない旨を誓わせた。
「さよなら‥‥。あたしの憧れ、ベリヤ先輩‥‥」
若きグルジアOGPU議長は、その代わり、約束を守れば、然るべきところから、毎月決まった額の金を送ってやるとも言い、女のもとから去ったのだった。守らなければ、本当にもう二度とおまえは俺と――他の誰とも‥‥夫にも家族にも――会えなくなると脅しつけて。
「ごめん。ほんとは言っちゃった」
もうその必要はなかったが、女は小声でひとりごちた。――列車のなかで聞いて、絵描きだという女性の態度は急変したのだった。それまでの楽しそうな表情が嘘のような、見たこともない恐怖と警戒の表情‥‥。ラヴレンチー・ベリヤの悪名はよく知られていたが、その態度は、世間知らずの彼女も聞いたことのある「反対派」と目される人々――実際にそうであるかはともかく――のそれと推察できた。
「もう会いたくないよ‥‥」
ひとりきりになったノンナ・チコヴァーニは、頭を振った。振り払わねばならない思い出が多すぎる。しかし、これから生きるためには、そうしなくてはならない。バクーで渡したハンケチのことの聞きそびれに気づいたが、いまさら確かめる気にはならなかった。たとえそうしたくても、彼女のほうから連絡は取れないのだ。世の中は、男と女で不公平。
でもとりあえず、少女時代の美しい思い出とひきかえに、心強い味方も手に入る見通しになった。これが世の中というもの。
「お金は貰いますけど」
ラヴレンチー・ベリヤはまた、思わぬチャンスで得点を稼いでみせる。スターリンの仇敵、レフ・トロツキーに関する好ましくない情報が、秘密警察筋から流れてきていた。トロツキーが追放先のアルマ・アタで、隠れ家を用意して活動を始め、再び支持者を集めつつあるという‥‥。中央委員会は、トロツキーの国外追放を決定した。
(どんな大物だか知らないが、いっそのこと、ひと思いに――)
われらがラヴレンチー・ベリヤは、ひとりごちる。
(殺っちまえばいいのに‥‥)
事故死、という手段があるだろう。ジェルジンスキーは、またフルンゼは、なぜ死んだのか――? 真相はわからなかったが、ベリヤには察しがついた。われらがラヴレンチー・ベリヤは、警察官でもあるのだ――もっとも、これは何も彼でなくても、少なからぬ人間が同様の察しをつけていたが。彼は歯がゆさを覚えながらも、ここに再び好機の到来を見た。無論OGPU自体も動き、ゲンリフ・ヤゴーダの指示のもと、トロツキーを包囲したが、決定打を加えたのはベリヤ指揮下のチームだったのである。彼らはトロツキーの隠れ家を急襲し、彼を逮捕した。そしてラヴレンチー・ベリヤは、グルジアへ彼を連れて来させそこから、すぐ隣国のトルコ共和国へと追放したのであった。警備が厳重だったことは、言うまでもない。
――「ロザマリーヤ」は、あの後まったく尻尾をつかめず、今回も網にかからなかった。すでに外国か他の共和国へ脱出したのだろうか‥‥。全国のGPU職員がマヌケでなければよいのだが、残念ながらそれは望み薄だった。
(モスクワで指揮できれば――‥‥)
ベリヤは思う。秘密警察組織は、もっともっと能力の向上をはからねばならない。組織の整理――言うなればペレストロイカ(=再構築)が必須だ。現状は無駄が多すぎる。非効率極まりない‥‥。
――オスマン帝国は大戦の敗北により解体されていたが、トルコ人たちは戦勝国の占領に対し、ムスタファ・ケマルという人物の指導のもとアンカラに結集し抵抗、オスマン王家のカリフを追放し、独立政権の樹立に成功していた。グルジアやロシアと縁の深い同国は、一九二四年、イスラム世界初の世俗主義国家となっていた。西欧諸国は――特にあの大英帝国などは――この新興国家を、社会主義国であるソビエト連邦に対抗させようと、またぞろ画策していた。
(とにかく、これでまた‥‥)
自分の名前があの男の頭に刻まれることだろう――。一九二九年一月のことである。
(女だ‥‥)
ラヴレンチー・ベリヤは、意識が明瞭になってゆくのを感じた。
(これだ。この感じだ。しっくり来る。これが、本当の俺だ‥‥)
彼には、もうひとつ励んでいることがあった。バイロフ刑務所時代からの、女性に対する陵辱である。この時期は主に取り調べの最中に行なっていたようだが、すでに乗用車で街を流し、気に入った女性を誘拐し、強姦に及んでいたとする説もある。ラヴレンチー・ベリヤは、スターリンの目にも、単なる同郷の若僧ではなく、敏腕の秘密警察員として映るようになっていった。ヨシフ・スターリンは、切れ者の部下のこの趣味の噂を聞くと、腹を抱えて笑った。
――という噂を耳にしたベリヤは腹を立てたが、まさかスターリンのデマを飛ばすわけにはいかない。代わりにベリヤは、あのニコライ・エジョフは男色家だ――という悪意の噂を流すことで、腹いせとした。
この年、農業集団化政策がこのグルジアにも襲いかかった。農民の不満と怒りはここでも高まり、抵抗と闘争が行なわれていた。共産党政権に対する懐疑、絶望、義憤‥‥の熱が、再び高まってくるのを、ラヴレンチー・ベリヤも感じていた。逮捕は続けられていた。
――ラヴレンチー・ベリヤによるグルジアの整備は、ゴリのはずれにあるスターリンの生家にも及んでいた。もとは小屋と表現すべき、貧家であった。ここで「ベソ」ことヴィサリオン・イワノヴィチ・ジュガシヴィリ、すなわちスターリンの父親は靴やサンダルを直す「店」を開いていたのである。農奴の家系であったヴィサリオン・ジュガシヴィリはしかし、少しは腕があったため、それなりに繁盛はしたようである。しかしまた、彼は酒に溺れ、「ケケ」また「エカテリーナ」こと、やはり農奴であった伴侶ケテワン・ゲオルギエヴナ・ゲラーゼと息子ヨシフに暴力を振るようになった。ヨシフには、父親「ベソ」は靴職人に、母親「ケケ」は聖職者に、それぞれなってもらいたかったのであるが、ヨシフがどちらにもならなかったことは、見てきた通りである――そのほうが、少なくとも殺される人間、自由を奪われる人間は、少なくて済んだのであるが。
建築家ラヴレンチー・ベリヤの辣腕がここでも振るわれ、ここは偉大なる同志スターリンの生家博物館となった。ベリヤはこの貧家を大理石ですっぽり覆い、手配して集めさせた様々な「記念品」で飾り立てた。また父親はとっくの昔に亡くなっていたが、この母親「ケケ」は七一歳で、まだ生きていた。スターリンは母親にトビリシに移り住むよう説得し、この母は最初は渋ってはいたものの同意し、ボリシェヴィキによって没収されベリヤによって手配された、カフカースの宮殿に住んでいた。しかし母「ケケ」は――ベリヤを含む多くのボリシェヴィキ高級幹部が豪奢な暮らしをしたのに対し――この宮殿内で、鉄製の寝台がひとつあるきりの小さな部屋しか使おうとはしなかった。われらがラヴレンチー・ベリヤも、自分の母親をトビリシの豪邸に招いていたが、この母親はそれを拒否し続けていた。
「おまえのことだ。見えるようだよ。どうせ、ろくでもないことで手に入れたんだろ?」
「‥‥‥‥‥‥」
母は偉大である。
そして一九二九年の夏、「ケケ」より先に、このベリヤの母が亡くなった。ベリヤは帰郷し、葬式を済ませた――特に豪華なものではなかったようである。この帰郷の際、ラヴレンチー・ベリヤは、縁戚関係の面倒を見てやらねばならなくなった。彼の妹の夫、つまり彼の義弟が、ベリヤのお陰で取り立てられていい暮らしが出来ているというのに、勘違いして増長し、案の定トラブル――裁判沙汰になっていたのである。ラヴレンチー・ベリヤは裁判に介入してこの義弟を救ってやり、その上、このしょうもない義弟を保養地ソチに近いガグリ地区の所長にしてやった。これは相当の地位である。なぜならそこは、スターリン、オルジョニキーゼ、キーロフ、ミコヤン‥‥名だたるお歴々のダーチャがある場所なのである。彼はまた、自分の異父兄をスフミ石油組織の長官に、末弟を保養所商業機関の所長にしてやっている。
この帰郷からこの義弟の裁判やら何やらの過程で、ベリヤはまたバクーに立ち寄った――なお、ラヴレンチー・ベリヤの家族構成や人物像に関しては、異説もある――「立ち寄った」といっても、いまの彼はすでにカフカースのトップ・クラスの実力者のうちのひとりに数えられる身分である。移動と滞在には、豪華な専用列車が用いられた。駅舎から少し離れた引き込み線にいたこの列車を、逮捕された兄について口利きをしてもらおうと、彼のもとをある一六歳くらいの美少女が訪れた。ラヴレンチー・ベリヤは、この少女を強姦した。
自分の権力を利用し、彼はすでに何度もこのような行為に及んでいた。そして彼は、自分もそろそろ身を固める必要があると感じてもいた。ノンナとのこともあり、また、家族や親戚の世話をしているうちに‥‥。ボリシェヴィキ組織でも、セルゴ・オルジョニキーゼにセルゲイ・キーロフ、若手のアナスタス・ミコヤンも、すでに結婚済みであった。女たらしのアヴェリ・エヌキーゼは独身を通していたが、彼のような、いつまでも若いつもりの遊び人はまた、ベリヤが軽く見るタイプの人間であった。また最近、「国内の安定化に伴って」党が党員の風紀について、やかましく言い出していた。そういうムードがあった(この国の人口の八割を占める農民にとっては「安定化」など遠い世界の話であり、せいぜい「党内の安定化に伴って」と言うべきなのだが――先のボリシェヴィキ語訳に見られる、彼ら独特の表現である)。
風紀の乱れは、女性への暴行を繰り返していたベリヤだけではない。トビリシでは四年前、ある有力な党員が一流ホテルに部下を集めてパーティーを催し、乱痴気騒ぎの挙句に拳銃を乱射、女性職員ひとりを射殺してしまうという事件が起こっていた。べリヤ自身、それをもみ消してやるのにひと苦労したのだ――もちろん、高い貸しのつもりであった――騒ぎを起こした党員は、エヌキーゼ、ムディヴァーニ、フィリップ・マハラーゼ、そしてオルジョニキーゼの共通の友人であった。
ベリヤは、自分の列車で強姦した犠牲者を娶ることにした。この花嫁の名は、ニーナといった。――彼女とベリヤとのなれそめについては、これも異説がある‥‥。
この年の一〇月、資本主義諸国を大激震が襲った。二四日、アメリカ・ニューヨークはウォール街で株価が大暴落、これが諸国に波及し、世界大恐慌が始まったのだ。ソビエト連邦は、資本主義諸国に比すれば閉鎖的な経済をとっていたため、被害は少なかった(ソビエト人民の生活水準は帝国主義列強のそれに較べて、元々極端に低かった。農村では強制移住が続いていた)。ソビエト政府は、社会主義経済の優位性を喧伝した。資本主義諸国では労働運動が盛り上がりを見せたが、それは必ずしもソビエト連邦への追い風とならなかった。反共産主義の右翼勢力もまた各国で興隆するという点もあったし、また、スターリンの一国社会主義路線があった。社会主義運動のリーダーは、ソビエト連邦ただ一国であらねばならないのだ‥‥。資本主義諸国、殊に帝国主義列強は、国内の労働運動を弾圧し、ソビエト連邦をますます敵視した。ヨシフ・スターリンは、逆にこの状況を利用した。――ソビエト連邦は、血に飢えた狼どもに包囲されているのだから、より一層団結せねばならない‥‥。この場合の団結とは、スターリンへの忠誠を意味していた。
黒海沿岸、ソチ‥‥。月光に照らされ、その少女はベッドですやすやと眠っていた。木の葉の影が、その幼く愛くるしい顔の上で、ちらちらと踊っている。その影のなかに、小さな小さな人影が、すうっと混じった。小さな背中からは、小さな羽が生えていた‥‥。
「本当なら‥‥」
フェアリーはこぼした。
「こういう子を、こういう晩にそっと起こして、おとぎ話をしてあげるのが、ぼくらの種族の役目のはずなんだけどな」
しかし、ゾーヤは今回、彼にその仕事を与えていない。
幼い少女は、本人の意志とは関わりなく、ただの少女ではなかった。ヨシフ・スターリンの愛娘、スヴェトラーナであった。
「なんで、変なおじさんたちばっかり‥‥」
妖精も、二〇世紀を生きねばならないのだ。フェアリーは嘆きながら、スヴェトラーナの窓辺を飛び去っていった。明日はあの男――かつて向学心に燃えていた少年の成れの果て――がこのダーチャにやって来る。ラヴレンチー・パーヴロヴィチ・ベリヤが。
スターリンは、他の多くの党有力者と同じく、夏になると一家でダーチャに赴き、夏を過ごした。彼の夏のダーチャはソチにある。その機会を利用しない手はなかった。ベリヤは何度もスターリンのダーチャに足を運んでは、彼の家族とも仲良くしようと努めた。ベリヤは、できる限り礼儀正しく、紳士的に振る舞おうと努めた。しかし、スターリン一家は前述のように酷く惨憺としており、またベリヤの悪名はすでに知られ始めており、ヨシフ・スターリンの妻が彼を非常に嫌ったため、彼のこの努力は功を奏さなかった。
「‥‥‥‥‥‥」
汚いものでも見るかのようなナジェージダの目つきに、ベリヤははらわたが煮えくりかえるような怒りを抱いたが、まさかスターリンの妻に手を出すわけにもいかない。しかたなくベリヤは、幼い娘スヴェトラーナの歓心を買う作戦に出た。出世主義者は、目的のためなら何だってするのである――「愉快なおじさん」を演じることだって‥‥。ラヴレンチー・ベリヤは、幼い彼女にプレゼントを贈り、大きなボールで一緒に遊んでやったりした。スターリンに許可をもらい、膝に乗せてやって写真を撮らせたりもした――「同志スターリンの家族とも親しい、グルジアの若き同志」というわけである。しかし、まだ幼いこの娘も、一家の不穏な空気、自分の周囲の世界の異様さを敏感に感じとっており、取ってつけたように愛想のいいこの男にやはり不穏な匂いを嗅ぎつけ、カメラマンがそれこそ泣きそうになりながら注文しても、この若き同志の膝の上では、気難しい顔を崩すことはなかった。
ラヴレンチー・ベリヤは三十代を迎えていた。ヨシフ・スターリンが盛大な祝賀会で満五〇歳を迎えた次の春、ラヴレンチー・ベリヤは三一歳になった。時代は、一九三〇年代に突入していた。農業集団化と、それに対する抵抗は、激しさを増していた。加えてグルジアには、あの大弾圧があった。忘れようとする人々はそのように努めたが、少数の勇気ある者たちはそれをよしとせず、グルジアの支配者――とりわけ逮捕や処刑によって、まるで人々の心に酸のように恐怖を広げるOGPU議長――秘密警察長官ラヴレンチー・ベリヤ――と闘おうとした。
ベリヤが、ヴラジカフカースという北カフカースの街への出張の帰途の、軍用道路ヴォエンナ=グルジンスキー街道の峠であった。走ってきた三台のピカピカのビュイック――アメリカ製の大型高級車――を、銃弾の雨が襲った。一台目は、手榴弾の爆発をまともに食らって、派手に空中に舞い上がった。襲撃者――反対派は、この車列にラヴレンチー・ベリヤがいるという、確かな情報を得ていたのである。千載一遇のチャンスであった。しかし、二台目と三台目は、仲間の一台目を見捨て、銃撃のなかを一目散に逃げ去ってしまった‥‥。
彼ら反対派が炎上する一台目から発見できたのは、赤軍の元将校とGPU隊員三人の遺体だけであった。ベリヤは怒りよりも恐怖で全身を震わせながら、自分の車をトビリシへ猛スピードで走りこませた。数時間後、ラヴレンチー・ベリヤはモスクワへ向けてこの事件を勇ましく報告した。二台目と三台目に乗っていたGPU隊員たちはそろって勲章を受け、ベリヤもまた二個目の赤旗勲章を受章するに至った。
メンジンスキーは、ChON(特殊使命部隊)を再建し、またVOKhR(内務警察部隊)を創設した。彼はOGPUを、単なる残忍な秘密警察から、国家内の独立領に仕立て上げようとしていた。ラヴレンチー・ベリヤは、前回の不意打ちの憎しみを忘れてはいなかったが、遠くからそのやり方に感心し、賛嘆していてもいた。メンジンスキーというひとりの人間に対してではない。その方法論に関してである。野卑な暴力集団から、収容所という生産組織を持つ洗練された管理組織へと――。内戦が終わり、党内対立の時期も過ぎつつある以上、組織とは、そのように発展すべきなのだ。
ベリヤは、いますぐにでもOGPUの階段を駆け昇りたかった。だが現在は、当のメンジンスキーがトップであるわけだし、同じように思っているのが自分だけではないことを、彼はよく承知していた。
(時計屋の息子が、針を逆回しにしてやがる‥‥)
彼は忌々しげに、彼にとり古臭い暴力集団の象徴のような人物の顔を思い浮かべた。権威と権力をかさに着ることしか能のない――。
(ヤゴーダ――。奴にもいろいろ言いたいことはあるだろうが、だ。何よりもまず、あの髭が気に喰わん‥‥。見てて苛々してくる。――なんだ、あのちょびっ‥‥とした髭は――。どうせ生やすなら、もっと立派に生やせよ‥‥)
ヤゴーダのような連中がOGPU内には大勢いることを、ベリヤは承知していた。あのような奴が上にいる限り、当面はOGPU方面と併せて、政治家としての道を探るべきではないだろうか‥‥古い世代の党員たちの「政治家」という呼称を避けたがる風習はベリヤにはわからなかったし、そんなこだわりなど鼻にもかけなかった。一九三一年一一月、ソビエト連邦共産党中央委員会は、ラヴレンチー・ベリヤをグルジア共産党書記長のポストに任命した。
オルジョニキーゼは、このポストに、自分の手下であるカルトヴェシヴィリという男をつけたがった。しかし、スターリンはベリヤを選んだ。スターリンとオルジョニキーゼ、オルジョニキーゼとベリヤの間に、はっきりと溝が出来つつあった。
ラヴレンチー・ベリヤはこの昇任への返礼のため、モスクワへと赴いた。スターリンのズバロヴォのダーチャで、私的に引見することを許された。彼は最大限の礼を述べるとともに、ある手続きについて話した。党においては、この立場となっても、機会あるごとに書類に重要な年月日を記入せねばならず、ベリヤにはそれがコンプレックスに、苦痛にさえなりつつあった。党にとって重要な年とは、生年月日ではなく、他ならぬ入党年月日であった。
「一九二〇年、となります」
ラヴレンチー・ベリヤは、頼みごとをほのめかした。党員にとっては、この入党年月日が重要であった。一番尊敬されるのは、十月革命前、一九一七年一一月(ユリウス暦一〇月)以前からの入党者である。ボリシェヴィキが勝利できるか未確定の時期に、すでに党に忠誠を誓っていた――とされる――からだ。次がこの一九一七年一一月以降から、ボリシェヴィキの勝利がほぼ確定した一九一九年、遅くて一九二〇年初頭くらいの入党者であった。これ以後の者は、一九二四年の大量入党者やそれ以降の者と、同列に見られていた。こういった事情は、スターリンもよく知っていた。ラヴレンチー・ベリヤが、ボリシェヴィキのメンバーとして十月革命の直前から活動していたことは事実であるが――常に裏切る算段をしていたことも事実である――正式な入党は一九二〇年なのであった。これは痛恨事として、現在のラヴレンチー・ベリヤにのしかかっていた。グルジア共産党書記長となり、書類に記入する機会はさらに増すと思われた。
「なるほど‥‥」
ヨシフ・スターリンは、ゆっくりと頷いた。このときばかりは、ベリヤも神妙な心持ちになった。彼は、拝むように手を合わせた。
「一九一七年、でいいだろう」
スターリンは、責任を取ってくれはしないものの、ベリヤがそう書くのは、見逃してくれるようだった。
「ありがとうございますっ」
ベリヤは、深々と頭を下げた。こうして、われらがラヴレンチー・ベリヤは、一九一七年、十月革命前からの熱心なボリシェヴィキ党員となったのである。
これは、ひとつの暗示であった。われらがラヴレンチー・ベリヤはまた、有頂天になり我を忘れることはなく、なぜこのポストに自分が選ばれたのか、グルジアへの帰途から、慎重に考えていた。これまでの働きもある。散々スターリンに媚を売ったこともあるだろう。自分の有能さが買われもしたであろう。
(だが――)
ベリヤには、それだけではないように思えた。あのスターリンは、何かをしたがっている。彼にとってそれは、オルジョニキーゼとの間に溝が生じても構わないことのようだった。カルトヴェシヴィリは古参党員、いわゆるオールド・ボリシェヴィキである。すなわち、歴史をよく知る者であった‥‥。スターリンは、物をただで他人に与えるような男では、決してない。自分は、十月革命前からの熱心な党員になることが出来た。ならば、スターリンはどうか? ヨシフ・スターリンも党員である以上、同様の書類に記入することはあるだろう。しかし彼は(名前こそ「スターリン」ではないが)一九一七年のはるか以前、少なくとも社会民主労働党時代からの長い党歴を持っている。だから知己も数多いのだ。年月日の記入に、苦痛を覚えることはないだろう。それを変えてくれ、とはベリヤに求めはしまい。では、何だろうか――。
帝政期より「どん底」等の作品で知られ、ボリシェヴィキ誕生直後から組織に加わっていたマクシム・ゴーリキーという大作家が、スターリンの要請によりイタリアからこの国に帰国していた。モスクワにゴーリキー通りが誕生し(改名)、生地ニージニー・ノヴゴロド市は「ゴーリキー市」と改名された。そのイタリアでは、ベニート・ムッソリーニ率いるファシスト党が一九二二年以来政権の座に就き、国家と党の一体化を推し進め、強力な統制経済によって経済の危機を乗り越えようとしていた。このファシスト党政権は、労働運動、左翼運動を弾圧、また自党以外のすべての政党を解散させ、言論の自由も制限し一党独裁体制を確立していた。そのイタリアからの帰国は、ソビエト政府によって格好の宣伝材料になるわけである。――この作家はまた、膨大な犠牲者を出しつつあった白海・バルト海運河建設を賛美した。
秘密警察組織で活動を続ける過程で、出世の階段を上がる過程で、ラヴレンチー・ベリヤはある奇妙な点に気がついていった。歴史に関することである。オルジョニキーゼやキーロフが苦笑を、ミコヤンが妙な表情を浮かべて語るボリシェヴィキの歴史に、おかしな点があったのだ。ベリヤは暇に任せて、ありとあらゆる書物や資料の類を集めていた。秘密警察員ゆえの特権である――彼は安全圏にいたのだ。そのなかには、ボリシェヴィキの党史や、前世紀末からのロシア社会民主労働党時代のもの、ここグルジアの地の共産主義運動の歴史もあった。それらと、彼らが話す「歴史」とは、食い違う点があるのである。端的に言って、紙に印刷された「歴史」の上では、彼らの口述の「歴史」より、同志スターリンの役割が大きくない――というより、非常に小さいのである。
(ははあ‥‥)
われらがラヴレンチー・ベリヤが事態を飲み込むのに、そう長い時間はかからなかった。遠くモスクワにいる巨大な同志の願望が、見えたのだ。それはつまり、歴史の書きかえなのである。あの男が望む歴史は、組織のうちで自分が長い間単なる数百人のうちのひとり――ちんぴら活動家に過ぎなかった本当の歴史とは、異なるものなのだ。
(ならば――)
人によっては、自分の入党年月日と引き換えに暗示されもしたこの仕事を、重荷に感じることであろう。だが、まだ若いわれらがラヴレンチー・ベリヤは、チャレンジを試みる。調書の作成なら嫌というほどこなしてきたが、著作と呼べるものはまだ記したことはない。古参の党員たちの著作を見ては、自分もそういうことをやってみたいものだ、という欲は持っていたが、いままでは肝心のテーマが見つからなかった。その記念すべき第一号作品のテーマを、彼は発見したのである。あの男が望むような「歴史」を書いてやろう。それは自分の能力の向上にもなるし、そして何よりもあの男への最大の贈り物になるだろう‥‥われらがラヴレンチー・ベリヤは、執筆を開始した。
この頃になるとベリヤは、オルジョニキーゼを軽く見るようになっていた。自分の出世に彼はもう必要ない、というより――彼はまだカルトヴェシヴィリを推していた――すでに邪魔にさえなってきていた。また、オルジョニキーゼの人間性もあった。彼は理髪師出身で、その開放的な性格も相まって、インテリゲンツィヤへの憎悪においては並々ならぬものをたびたび見せた。スターリンもインテリゲンツィヤ嫌いであったが、オルジョニキーゼのような短絡的な憎悪や暴力を見せない分、ベリヤにはやはりましに見えた。ベリヤはかつて――というよりキャリアの途中まで、建築家を目指し猛勉強した学生であった。この点を見逃してはならない。彼はある意味、半分はインテリゲンツィヤであると言えた。だから、オルジョニキーゼの彼らへの憎悪は半分しか理解できず、それを素直に現す彼を、表面では同調するふりをしながら、心中では冷笑するようになっていったのである。ただ、逆を言えば、彼もまた本物のインテリゲンツィヤとは言えなかった。彼のオルジョニキーゼへの軽蔑は、これは彼自身気がついていなかったが、近親憎悪であった。
インテリゲンツィヤ――インテリ――とは、帝政ロシアの近代化と歩調を合わせるかのように増殖してきた知識階級のことであり、用語として諸外国へも伝播していた。階級――それはときにくっきりとした輪郭を伴い、顕現するのである。帝政ロシアにおいて、その階級の人間は、教養がない上に経済的にも貧しい人々を(経済的に貧しいが故に進学できない者も大勢いることを知りながら)はっきりと小馬鹿にする風潮があった。その悪しき伝統は、このソビエト連邦にも引き継がれていたのである。オルジョニキーゼの憎悪も、故なきものではないのである‥‥。
しかしこの時期のベリヤは、処女作執筆のためもあり、インテリゲンツィヤっぽく振舞おうともした。党内のそのような人々に対し、話を聞く態度を取り、知識を吸収しようと努めた。向上心は、この男の――唯一のものかもしれない――長所である‥‥。
その日、われらがラヴレンチー・ベリヤは、ある党員に、できる限り気さくに声をかけた。この人物の共著「共産主義のABC」は、すでにロシア語では一八版を重ね、二〇もの外国語に翻訳されていた。同書は、この時代、カール・マルクスの著作と並び立つほどの共産主義宣伝の標準的な本となり、世界中どこでも、社会主義・共産主義運動に人々が引き込まれた場所では、この人物の名が知られるようになっていた――。
「同志ブハーリン、よろしいでしょうか」
「君は‥‥コーバの友達だったな‥‥。――確か、ラグレンチー‥‥いや、ラグレンチニ――‥‥」
「ラヴレンチー・ベリヤです。ベリヤ、で結構です、同志」
ベリヤは作り笑いを浮かべ、秀才の誉れ高いこの偉大な同志を見返した。
(名前ぐらい――!)
だが、ここで怒り出しては、わざわざ話しかけた意味がない。
「いや、すまんすまん。どうもグルジア人の名前を覚えるのは苦手だ‥‥」
「――構いませんよ‥‥」
われらがラヴレンチー・ベリヤは、訂正しなかった。
「われわれは皆、同志――ボリシェヴィキなのですから」
聡明なニコライ・ブハーリンも、目の前の若い男の皮肉には気がつけなかった。
このとき、われらがラヴレンチー・ベリヤは、試したい気持ちに駆られていたのだ。ブハーリンは優れたボリシェヴィキ理論家であるとともに、その多才でも知られていた。実際、ボリシェヴィキ政治指導者のなかで卓越した理論家であるとともに、現代の非マルクス主義の諸理論――これは過去、現在を問わない――にも最もよく通じている人物であった。彼の非凡さは、レーニン、トロツキー、また他のボリシェヴィキのメンバーと異なり、この点にあった。彼の知的好奇心に裏打ちされた幅広い教養には、マルクス主義を閉じた体系とはしないだけの豊かさがあった。
「――十年前、モンゴルで発見されたアンドリューサルクスは知っているかね‥‥。陸生では史上最大の肉食獣だ。体長は四メートル弱ほどもあったと推定されている‥‥。言っておくが、恐竜ではないぞ。われわれ人類と同じ哺乳類、真獣類だ‥‥」
「さあ‥‥?」
「‥‥その恐竜だが、彼らのうち少なくとも一部のものは、恒温性だったのではないかと、私は推測している。恒温性、わかるかね‥‥? ひらたく言えば、温血動物ということだ。何故かというと、小型の翼竜‥‥言っておくが、翼竜は恐竜ではないぞ。それぐらいは、当然わきまえておるだろうね(ニコライ・ブハーリンは、これぐらい判っていてくれないとこちらが困る、という表情を見せた)‥‥これに毛の跡が――」
「――‥‥‥‥?」
ブハーリンは、次には、ベリヤが聞いたことがないアレクサンドル・ベリャーエフなる作家の話を始めた。ベリヤは、ロシアおよびマルクス主義の一般的教養を身につける努力もしていたが、その名前も聞いたことがなかった。また当のブハーリン自身もその作家をそれほど評価しているわけではなさそうだったから、ラヴレンチー・ベリヤには四方山話としか思えず、彼は少々強引に話題を変えることにした。
「――未来の人間社会は、どのようになっているでしょうか」
ニコライ・ブハーリンは、この問いを聞き、吟味するように一度目を閉じた後、ゆっくりと答えた。
「‥‥私にも興味あるテーマだが、問いとして、少し大雑把にすぎる‥‥」
「失礼しました。では、時期を絞りましょうか。たとえば、百年後?」
「二一世紀か‥‥」
ニコライ・ブハーリンの目は、その世界を本当に見通そうとでもいうように、遠くを見ていた。
「‥‥まず、科学技術分野に限らせてもらうなら、人類の宇宙空間への進出は間違いないだろう‥‥。ロケット技術の進歩には、目覚しいものがある‥‥。――願わくば、わが国が一番乗りを果たしたいものだ‥‥」
ソビエト連邦はすでに、コンスタンチン・ツィオルコフスキーというロケット科学者を擁していた。この人物は、科学アカデミーでロケット研究を進め、多段式ロケットの理論を完成させていた。また「宇宙ステーション」なるものまで、考案していた。一八五七年生まれであり、すでに高齢であった。少なくとも、この人物を現在の地位――科学アカデミー正会員――に就かせたことは、ロシア革命の肯定的な点であろう。彼は帝政ロシア下では全く不遇――というより、その存在すらほとんど知られていなかった。一九〇三年という早い時期に、液体水素と液体酸素を燃料とする流線型ロケットの設計図を発表している。ロケットを多段式とすること、ノズルの冷却方法、方向舵、(宇宙空間での)生命維持システム、気密ハッチ、そして宇宙服‥‥。
「なるほど、しかし――私も素人ですが、百年経ったとて、そう簡単にいくものでしょうか? 私が知る限りでも、宇宙旅行は大変そうですが‥‥。呼吸の問題は技術的解決を見るとして――大気圏からの脱出には、膨大なエネルギー――推力が必要とされます。ロケットで、その推力が得られると‥‥?」
「そうだな。たしかに難しい‥‥が、ロケット以外に有り得るとも思えない。ライト兄弟が飛行機を発明する直前までは、動力飛行は今後百年は無理だろうと大っぴらに言われていたのだ。それが、いまはどうだ。あの、ツポレフの――。科学技術というものは、何かを契機として、飛躍的に進歩するものなのだ」
折しも、ANT‐20という、全長は三〇メートルを、翼巾は六〇メートルを超える、世界でも類例を見ない巨人機の製作が、アンドレイ・ツポレフ(トゥーポレフ)という人物が率いるTsKB(中央設計局)のもと、開始されていた。ニコライ・ブハーリンはそれを言っていた。
「契機、なるほど‥‥。――航空機の進歩は、あの大戦によるものでしたな? すると、ロケット技術も戦争――それも大戦争によって発展しうるかも、と?」
「――私を好戦主義者に仕立て上げたいのかね‥‥? ‥‥しかし、その問いに誠実に答えるならば、それは有り得るだろう」
「――ほう?」
ラヴレンチー・ベリヤは、いつの間にか、ブハーリンの話に引き込まれていた。
「前大戦は‥‥欧州大戦とも言われた通り、一九世紀の欧州帝国主義間の戦争の延長にすぎない‥‥。しかし――あくまで可能性としての話だぞ、同志よ――。兵器が有人である必然性はない‥‥巨大なロケットに爆弾を搭載し、精密なコントロールを可能にし、大陸間を弾道飛行し、敵国の中枢――例えば軍事拠点――を攻撃するような戦争も有り得るのではないかと思うのだ――今後百年の間には‥‥」
「凄い‥‥話ですな‥‥。想像もつきません――」
「同志、私だってつかないさ」
ニコライ・ブハーリンはそう言って苦笑いを見せたが、その言葉は嘘だった。これは誰にも――どのような立場の誰に言ったとて一笑に付されることはわかっていたから――言わなかったが、ブハーリンの語ったのは、彼の未来像のひとつでもあった。トロツキーなら、あるいはレーニンなら、彼の発言のある部分を捉え、ブハーリンを問いただしたであろう。大陸間、とは何を意味するのか、と。答は決まっているのだから、発言内容につまらぬ制約をつけないことを認めてくれるのならば、ブハーリンは即答したであろう。われわれの住むユーラシア大陸すなわち旧大陸と、新大陸のことである、と。‥‥それは、このソビエト連邦とアメリカ合衆国との対決を意味していた。西欧のイギリス、フランス、ドイツ、イタリア、そして極東の日本など、現在のいわゆる帝国主義諸国、また現在は混乱のなかにあるが広大な国土と地力を有する中国、そしてインド‥‥これらの国々など、ものの数ではない――ということになる。同志、それは無茶というものだ‥‥。誰でも、スターリンでさえ、これを話せば笑うことであろう。現実の状況と、かけ離れすぎている――と。だからブハーリンも、口にすることはなかった。
「同志、よろしいでしょうか。たしかに、科学技術分野はめざましく発展するかもしれません。――しかし、例えば、飛行機はたしかに発明されましたが、それに乗れない人間も存在するように、ロケット技術が発展したとして、全人類が宇宙旅行に行けるわけでもありますまい? もっと、人類――同志とお話していると、私のような者からもこのような言葉が出てきますな――全般、いや一般にとっての未来像というのは、ありますかな」
「‥‥それは、社会主義化がどこまで進んでいるかによるだろう」
冷静な問い返しに、ベリヤは、急に現実に――彼も彼なりに、ブハーリンの描く未来像に思いを馳せていたのだ――引き戻された。
「――仰る通りです‥‥。しかし、例えば自動車の発明は、資本主義の社会でもまた社会主義の社会でも有り得たのではないでしょうか。自動車は、実際に人類の生活を変えました。架空の話ですが――フリードリヒ・エンゲルスが前世紀、大英帝国で革命を起こし社会主義国家を建設していたとしても、恐らく自動車は発明されていたでしょう。そのようなことです」
「‥‥‥‥医療、の発展はあるだろう」
「なるほど。現在、不治とされている病気が治るようになる、と」
「それもある。が、それだけではない‥‥」
「というと?」
「‥‥‥‥RNAという語を、同志はご存知か」
「――さあ‥‥?」
「‥‥DNAは‥‥? ――遺伝学の分野の用語だ」
「遺伝、ですか。――メンデル‥‥?」
われらがラヴレンチー・ベリヤは、彼の精一杯の知識のなかから、前世紀中葉のオーストリアの学者の名を引っぱり出した。遺伝学は、その時代から大きな発展を見ていた。DNAとはデオキシリボ核酸のことで、ヒトを含む地球上のほぼすべての生物において、遺伝情報を担っている物質である。核酸の一種であり、これが主に核のなかで情報の蓄積・保存を行なうのに対し、その情報の一時的な処理を担うRNA(リボ核酸)というものも発見されており、一九二九年、アメリカのフィーバス・レヴィーンという研究者が、DNAの構成糖はデオシキリボースであり、核酸にDNAとRNAの二種類があることを発見していた。この発見は、遺伝学の未来への扉を開ける、重要な鍵であった。一方、一八九一年、ドイツのハンス・ドリーシュという学者が、ウニの卵を二分割後、正常なウニ幼生を発生させることを行なっていた。このドリーシュは、一九〇九年、自著で、この生命現象がもつ全体性を提示した。時の学会からは激しく叩かれたが、いずれにせよ、これはこう呼ばれてゆくことになった。クローン、と‥‥(より正確には、人工的なクローニング、である)。
さて、ニコライ・ブハーリンだが‥‥彼はため息をつき、露骨にがっかりした表情を見せ、肩まで落とした。
「メンデルとは‥‥。――同志、私が一〇歳の頃に習った名だよ‥‥」
これには、われらがラヴレンチー・ベリヤは我慢がならなかった。もっとも、これはベリヤが特に無知なのではない。一般人――何もボリシェヴィキに限らない――の知識は、こんなものだからだ。しかし、馬鹿にされたと感じた彼は怒り出し、大声でニコライ・ブハーリンを汚い言葉で罵ると、その場を立ち去ってしまった。
ラヴレンチー・ベリヤは、後悔することになる。確かに、ニコライ・ブハーリンの語る未来像は、他所ではなかなか聞けないものだった。インテリが人を見下すのはよくあることだ――ベリヤとて、それを知らぬわけではなかった。あいつは、学生への臨時の講義でもしているつもりだったのだ‥‥だったらそれにつきあって、引き出せるものを引き出せばよかったのだ――。われらがラヴレンチー・ベリヤは、珍しく反省した。
さらに、われらがラヴレンチー・ベリヤは、スターリンに呼び出された。ブハーリンがスターリンに連絡し、言伝を残していったのだ。失礼な物言いをしてしまって、申し訳ない、というものだった。ついては、同志がよければ、この間の話のつづきをしようではないか、とも。ベリヤにしてみれば、悪くない話であった。しかし――この男に知られたことが、痛恨であった。これが後悔の、最大の点であった。
「あいつと、何を話したのだ‥‥?」
ヨシフ・スターリンは、油断なく両眼を光らせていた。
(――わかるものかよ‥‥!)
図書館で本を漁り、やっとDNA――デオキシリボ核酸という言葉を仕入れたところだったラヴレンチー・ベリヤは、内心舌打ちしながらも、しかし、正直に話すことにした。政治的な話と勘ぐられても困るのだ。そして、巨人機の開発に加わることにした。
「ANT‐20には、強力な放送設備を備えさせましょう。空中からの放送です。効果は絶大かと‥‥」
ベリヤも大変だが、アンドレイ・ツポレフも大変である‥‥。
――ラヴレンチー・ベリヤは、スターリンが地味な服装を常とすることに、ある勘を働かせていた。少年時代、自分がやはり地味な黒いコートを好んだ心理と、重なるものがあると考えていたのだ。つまり、本当は注目されたくてたまらない自己顕示欲の塊の男なのだと‥‥。この国の作曲家グリエールのバレエ音楽「赤いけしの花」が、何処からか小さく聴こえていた。彼、レインゴリト・グリエールが十月革命前に作曲した交響曲第三番「イリヤー・ムーロミェツ」は、われらがラヴレンチー・ベリヤとて聴いたことがあった。探偵ベリヤは、思いきったおべっかを言った。
「――さらに、拙案があります。あの世界最大の機体を、はばかりながら同志の名を借りまして――『ヨシフ・スターリン』と名づけるのはいかがでしょうか。わが国のみならず、各国への大きな宣伝となることは間違いありません。偉大な巨人の指導のもと、ソビエト連邦に新時代が訪れたと‥‥」
われらがラヴレンチー・ベリヤがとうとうと述べる間、スターリンは鋭い眼を離すことはなかった‥‥。
前述の通り、コンスタンチン・ツィオルコフスキーはすでに高齢であったが、ソビエト連邦は国産初の液体燃料ロケット・エンジンの開発に成功していた。開発者はセルゲイ・コロリョフというウクライナ出身の男で、アンドレイ・ツポレフの指導を受け航空機分野を学び、一九三一年にはジェット推力研究グループの一員となっていた。液体燃料ロケット・エンジンは、この時期ドイツ、アメリカでも研究が進められており、コロリョフのこの成功は、それら先進国に肩を並べるものであった。
さしものラヴレンチー・ベリヤもわからなかったが、あのとき彼の頭を一瞬かすめたのは、あの装甲列車「レーニン」や、これは思い出したくもなかったが、トロツキーの移動軍事人民委員部――「トロツキー列車」なのであった‥‥。
ちなみに、バレエはこの国では帝政期から盛んであり、「ロシアン・バレエ」として独自の発展と芸術的開花を遂げていた。十月革命後もレニングラードのマリインスキー・バレエ団、モスクワではボリショイ劇場を拠点とするボリショイ・バレエ団などが活躍していた。
「知ってるかい?」
ある日、大ニュースを耳にしたヤーコフが、スヴェトラーナに興奮気味にまくしたてたという。
「うちのパーパは、昔はグルジア人だったんだって!」
――という、いわゆるアネクドートがある。脚色があると思われるが、実話を元にしているといわれる。スターリンとグルジアとの関係を端的に示している。
フェアリーが病床のレーニンに告げた通りになった。労働者と農民の祖国、になるはずだったソビエト連邦は、いまや巨大な監獄、史上稀に見る恐怖国家となっていた。共産党は、およそ二〇〇万の党員数を数えるに至っていた‥‥。
2014年7月27日、本文の体裁を整えました。
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このスヴェトラーナさんは、2011年11月22日にお亡くなりになりました。合掌。