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フェアリー・テール  作者: 田中 鉄也
第一部 スターリン
11/29

5.追放(2)

ウクライナ史。

党内基盤の完成。

国産戦車誕生。

 さて、スターリンにとって物理的に取り除かなくてはならない脅威とは、トロツキーひとりに限らなかった。ジノヴィエフ? 彼は前年の第一五回党大会で自己批判をしたことで、この年復党を許されていたが、形ばかりのいわば名誉職に追いやっていた。カーメネフ? 彼はイタリア大使として国外に追いやられた後、昨年やはり党を除名されていた。そして同じく第一五回党大会で自己批判をしていたから、党内にも彼を許そうという空気があり、復党だけはスターリンとしても認めざるを得ない模様であった。無論ある意味では、彼らも未だスターリンの脳内においては脅威であったが‥‥スターリンは国家指導者であらねばならないのだ‥‥個人的な怨恨よりも政治的に優先せねばならないのは、一個人ではなく集団なのだ。

 レニングラード? あのパレードでの出来事といい、確かにあの都市には多くの反抗分子が存在すると思われた。それも党機関の内部に。だが、それは党機関であり、彼らすべてを追放するのは、如何にスターリンといえども現段階では大義名分のつけようがなかった。ウクライナ? 伝統的ともいえるロシア帝国への反抗心を引きずり、確かにあの共和国には多くの反抗分子が存在すると思われた。ひとつの都市どころか、今度はひとつの共和国を相手に‥‥? しかし、スターリンには妙案があった。(事実上の)政治家であるヨシフ・スターリンは、次に農民たちを敵としたのであった。

 一九二八年、宿敵トロツキー追放の同じ一月のうちに、スターリンもシベリアへと旅立っていた。無論、追放ではなく視察旅行である。ノヴォシビルスク、バルナウル、オムスク‥‥彼は三週間をかけて、地方の党幹部たちと討論を繰り返した。穀物の供出が滞っているのは何故か、という課題があったのだ。これらの「討論」においては、正しい意見も出た。すなわち、政府の農産物買い上げの価格が安すぎるのだと‥‥。これら「正直な」党幹部たちには、元々シベリアの出身である人間が多かったようだ。広大な――あまりに広大な――土地が、まだ闊達な雰囲気を彼らに与えていたのだ。正直者たちは、スターリンとの討論が済むと、早ければ建物の出口ですぐに、遅くとも三日以内には逮捕された。価格の上昇を待っているような農民は「投機家」であり、資本主義的であるとされた。

 その「資本主義的」な農民たちから穀物を供出させるという、それまでの地方党組織ではなかなか骨が折れそうなこの任務には、党の一五歳からの青年組織コムソモールあがりの若い党員たちが主にあたった。彼らは、前述のようにレーニンもトロツキーもよく知らず、ただ現指導部――それはいまではスターリンとその一派のみを意味していた――にだけ忠誠を誓う「熱狂的な」青年たちであった。彼らの中心世代は、上の世代から繰り返し繰り返し、嫌になるほど十月革命とその後の勝利の話を聞かされていた。自分たちも栄光の歴史をつくりだしたい――彼らのこの潜在願望に、スターリンは結果的に火をつけてやったのである。彼らは熱狂のままに行動した。武器も持たされていた‥‥。

 この年、ヨシフ・スターリンは、第一次五ヶ年計画なるものを発表した。五ヶ年計画――五年間のうちに、ソビエト連邦経済を大改造する、というものであった。

「わが国は先進諸国より五十年から百年遅れている」

 ヨシフ・スターリンは述べた。

「われわれは十年で追いつかなくてはならない‥‥」

 スターリンとその支持者たちは、ソビエト連邦を遅れた農業国から工業国――それも重工業中心の――へと発展させようとしていた。ドニエプル川にダムを、辺境のシベリアに産業都市を――。重工業への大規模投資の必要性が力説され、大々的なキャンペーンが始められた。工業化の推進に必要な様々なものに、生産目標が定められた。五ヶ年計画には、全土における電力網の整備もあげられていた。

 穀物調達問題を始めとする農村部の諸問題に関しては、「コルホーズ」なる集団農場を建設し農民をそこへ住まわせ、農業生産を行なわせる、という案が示された。ただ示されただけではない、それは実行に移された。ただ実行されただけではない、それは強行されることになった。この農業集団化に対しての農民たちの反抗は大きかった。一九二八年の前半、それもウクライナだけでGPUは百五十件ほどの農民の反乱を鎮圧せねばならなくなった、という事態からも、それは容易に窺い知れよう‥‥。抵抗するのは資本主義に毒され、利益を貪っている富農たちである――これが政府の見解であったが、実際は異なっていた。農民たちは、貧富の差に関わりなく、追われ、殺され、コルホーズに囲い込まれた。この、集団農場を基盤とする農業制度は、何かによく似ていた。ツァーリ体制下にかつてあった――ツァーリ体制下においても一九世紀中葉に廃止された――農奴制に。


 ‥‥スヴャトポルク二世の宮殿に勤めていたネストルという人物によって一一一三年に編纂された「原初年代記」(またの名を「過ぎし年月の物語」)によれば、ノヴゴロドに拠って最初のルーシの国家を建設したといわれるリューリクの親族オレグが八八二年頃、ドニプロ川(ドニエプル川)流域のキエフを占領して国家を建てたのが「ルーシ」の起源だとされている。リューリク、とは古ノルド語の「高名な支配者」に由来する。このリューリク(リューリク一世)は「海の向こうのヴァリャーグ」だったと記されている。ヴァリャーグ――複数形ヴァリャーギ――とは、ノルマン人であるいわゆるスウェーデン・ヴァイキング、またはスウェーデン人そのものを指す。このヴァリャーギは、まだキリスト教化もしておらず、固有の神々を信仰していた。なお、リューリクは半伝説的人物であるが、スタラヤ・ラドガの近くに九世紀の大きな古墳のようなものが存在し、地元の人々はそれをリューリクの墓と呼んでいる。

 オレグは、キエフを都とする「ヴァリャーギからギリシアへの道」――すなわち現代の北欧から地中海への道――を完成させた。彼はリューリクの死にあたり、王国と息子の世話を委ねられていた。この息子イーゴリ(イーゴリ一世)が初代キエフ大公となり、周囲の東スラヴ諸民族に対し挑戦し、支配圏を広げた。

 そしてその後はその妃、プスコフ出身のオリガが、イーゴリとの息子スヴャトスラフの摂政として政治を司り、さらに版図を広げた。彼女の息子スヴャトスラフすなわちスヴャトスラフ一世は、さらに支配圏の拡大を目指し、彼の時代にルーシは大きく勢力を伸ばすことになる。ハザール・カン国、ヴォルガ上流域のヴャチチ族、南西のブルガリア帝国、そして古代からの歴史を持つギリシアを版図とする当時の東地中海の強大国「東ローマ帝国」と、次々と戦いを挑み、版図をさらに押し広げた。母オリガはこの先進帝国のコンスタンディヌポリス(コンスタンティノープル)に赴き、キリスト教の洗礼を受け改宗、ルーシにおける最初期の聖人のひとりとなった。

 スヴャトスラフ一世の死後は、長男のヤロポルク一世、そして彼を追った弟のひとりヴォロディーメル(ヴォロディームィル、ウラジーミル)が領土をさらに拡大させ、この「ルーシ」の最盛期を迎える。

この「ウラジーミル一世」は政治や軍事に力を傾注し、はるか後代のロシア帝国における聖ウラジーミル勲章などに名を残している。またキリスト教を国教化し、「聖公」と呼ばれた。彼はキリスト教――正教会のみならずカトリック教会ほか聖公会、ルーテル教会においても――の聖人となり、彼の時代、この「ルーシ」は、西ヨーロッパまで繋がるキリスト教圏の一員となった。スラヴ語を書きあらわすための文字としてキリル文字がもたらされ、正教文化が定着していった。それは同時に「ヴァリャーギ」時代の終焉でもあった。


 キリスト教圏における一千年代(一一世紀)に入り、ウラジーミル一世は没した。ウラジーミルの長男、スヴャトポルクは大公位の継承を目論み、弟たちを追放・殺害して大公ヤロスラフ一世となった。彼はペチェネグ人勢力やポーランド王国に戦いを挑む一方、スウェーデンやハンガリー王国などと縁戚関係を結ぶなどして(東ローマ皇帝とは、父ウラジーミル一世がすでに結んでいた)キリスト教圏において活発な外交を展開した。また内政においても、法典の整備やキエフの街としての整備に力を入れるなど国力の充実に努め、「賢公」と呼ばれた。

 ヤロスラフは一〇五四年に没し、ルーシは乱れる。彼の子たちは覇権を争い、ペチェネグ人に代わるポロヴェツ族が幾度もルーシを攻撃した。大公(キエフ大公)の権威は低下し、ルーシの諸公は自立傾向を強めた。この乱世において一二世紀初頭に編纂されたのが、先の「原初年代記」である。「過ぎし年月の物語」――ルーシの歴史を編纂することで、混乱の世に平和と安定を願うネストルと、親スカンディナヴィアのスヴャトポルク二世の意志がそこには反映されていた。このスヴャトポルク二世の前の大公、ヤロスラフ一世の子(すなわちウラジーミル一世の孫)フセヴォロド一世の子モノマフが次の大公ウラジーミル二世となり、ポロヴェツ族を討ち払い、彼とその子ムスチスラフ一世の時代、再び「ルーシ」は統一を果たしたのである。

 この「原初年代記」には、ずっと時代がくだった十五世紀に編纂のイパーチー古写本と呼ばれるものがあるのだが、これの「キエフ年代記」のなかの一一八七年の条に、「ウクライナ(ユクライナ)」という地名が初出している。それによれば、キエフ公国、チェルニーヒウ公国、ペレヤースラウ公国の領土の範囲とのことである。キエフ・ルーシ時代後期のうちに、ガリツィア地方、ヴォルィーニ地方、ポリーシャ地方を指す用語として用いられていたようである。

 キエフでは、都市文明が発展し、ある種の民主主義さえ慣行として定着していた。個人間の民事また刑事上のトラブルから「公」の任免に至るまで、鐘を鳴らして広場に市民が集まり討議するという「民会(ヴェーチェ)」というシステムが機能していた。直接民主制のこの「民会」は、満場一致が決まりであった。ために、ときには流血の事態に発展することもあったというが、選挙のときだけ愛想のいい、顔ぶれの決まった政治家に投票するしかない後世の人々のなかには、このシステムを羨望の眼差しで見る者もいるだろう‥‥。

 ムスチスラフ一世の死後、再び諸公の覇権争いが起こった。キエフの街は破壊され、また十字軍遠征よる貿易により南西の地中海世界が発展を見せ、「ヴァリャーギからギリシアへの道」、すなわちドニプロ川流域の交易路は衰退していった。内乱と異民族との幾度もの戦争でキエフ大公国の国土は荒廃し、これを逃れようと人々は北東のノヴゴロドやモスクワなどへと移り住んだ。こうしてルーシは、ノヴゴロド公国、ウラジーミル・スーズダリ大公国、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国などが割拠する分裂の時代に入ったのである。

 最後のキエフ大公は、一三世紀中葉のダヌィーロ・ロマーノヴィチであった。彼はハールィチ・ヴォルィーニ大公国の初代公の長子であり、反対派貴族たちの手によりヴォルィーニ大公国のみの二代公におとしめられたものの、その後彼らを追いハールィチ・ヴォルィーニ大公として君臨した。そして東方のトゥロヴ・ピンスク公国とキエフ公国を領内に加え、キエフ大公となったのである。


 一三世紀中葉、はるか東方より押し寄せたモンゴル帝国の大軍が、ルーシ南部を制圧した。その軍事力は圧倒的であり、キエフ大公国は服属せざるを得なかった。ダヌィーロ・ロマーノヴィチはローマ教皇から王の冠を受けてルーシ世界初の「王」となり、またキリスト教圏すなわちヨーロッパ諸国と教皇らに軍事的な支援を求め、モンゴル政権と戦おうとした。教皇は反モンゴルの新たな「十字軍」の結成を呼びかけたが、ヨーロッパ諸国の王たちはこれに応じなかった。教皇もどこかそれを見越していたところがあった――正教徒は、彼らにとってはキリスト教の同胞ではないようであった‥‥。

 前世紀からすでに「北方十字軍(バルト十字軍)」なるものが、ローマ・カトリック教会公認のもと、バルト海沿岸や北ヨーロッパにおいて「活動」していたが、この世紀に入るとさらに、同じく公認の「ドイツ騎士団(チュートン騎士団)」という騎士修道会が、バルト海沿岸地域で盛んに「活動」していた。彼らカトリック教徒の目的は(彼らから見た)東方地域の殖民地化であり、正教徒との衝突も起きていた。一二四〇年から四二年にかけて、ノヴゴロド公アレクサンドル・ネフスキーにより、このカトリック教徒たち――フォルクンガ朝スウェーデンとドイツ騎士団――の東進は阻まれている。

 ‥‥ルーシの諸侯たちの助力も得られず、ダヌィーロは孤独な戦いを強いられ、やがて戦のなかで病没した。キエフ公国の終焉である。モンゴル政権――ルーシ世界におけるアジアの異民族による支配――タタールの軛が始まった。

 すでに一二二三年、初代チンギス・カン(チンギス・ハーン)の時期に、モンゴル帝国の先遣隊がはるか東方よりルーシの地に現れてはいた。しかしルーシ世界が真の脅威に直面するのは、それから約十五年後、チンギス・カンの孫バトゥ配下の強大な西方遠征軍によってである。リャザン公国、ウラジーミル・スーズダリ大公国、トヴェリ‥‥等の北東ルーシ、キエフ等の南ルーシを攻略、制圧し、一二四〇年ごろまでに、ノヴゴロド共和国(この国は公は戴いていたが、事実上の貴族共和制であったためにこう呼ばれる)を除く、ほとんど全てのルーシの国々が、彼らの足下となってしまったのである。

 都市キエフは、この一二四〇年に、壊滅的と言えるほどの決定的な打撃を受けた。また前述のように、反モンゴル十字軍は、結成されることはなかった。キリスト教世界は「ルーシ」を見捨てたのである。あるいは、強大なモンゴル帝国の軍事力からのちょうどいい防護壁として使うことにしたようであった‥‥。

 モンゴル帝国は、今日で言うところの連邦制のようなものに移行してゆき、完全な異教徒・異民族であるバトゥのジョチ家が統べる国家(ウルス)にノヴゴロドを含む全ルーシが服属を余儀なくされた。このジョチ家の所領=ジョチ・ウルスは、中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの広大な欽察(キプチャク)草原を版図としていたため、キプチャク・ハン国(金帳汗国、欽察汗国)とも呼ばれる。

 ルーシ諸公は税の納入、戦時における従軍を義務化され、また彼らの任免権はハンの手に置かれた。義務を怠れば、懲罰としての軍事制圧が待っていた。ルーシの人々は、彼らはるか東方からの遊牧民を「タタール」と呼んだ。「タタールの軛」とは、このルーシにとっての異教徒支配の暗黒時代を指す呼称として、長く歴史に残ることになる‥‥。前述のノヴゴロド公アレクサンドル・ネフスキーは、この支配体制を逆に利用してウラジーミル大公に任命されることに成功した人物としても知られている。

 時はくだり、一四世紀後半から一五世紀後半、およそ百年をかけて「ルーシ」はタタールの軛を脱し、再びキリスト教圏に戻ってくることができた。さらに時はくだり、一六世紀は一五六九年のルブリン合同により、ルーシ世界の西方において、ひとりの君主がポーランド王とリトアニア大公を兼ねる複合国家、ポーランド・リトアニア共和国が発足した。キエフを含むウクライナの地は、おもに「キエフ県」としてポーランド王国に属することになった。

 この体制下では、ウクライナの貴族の全てが共和国の参政権を持っていた。一部の有力な貴族は、共和国元老院の議員にもなった。ウクライナの有力な、あるいは裕福な者は、ポーランド文化に同化――カトリックやプロテスタント等に改宗していった。一方、農民(農奴)などそうでない者は正教を信仰、キエフ・ルーシ以来の文化を守った。文化的なこの二分に加え、一七世紀なかば、新大陸からの安価な輸入穀物にヨーロッパの市場を取られた共和国の経済の不振により、ウクライナの農民の少なからぬ者は居住地を逃げ出してコサックとなってゆき、ウクライナの分裂は深まっていった。

 すでに一七世紀前半に、彼らコサック(ウクライナ・コサック)は共和国の貴族階級(シュラフタ)と並ぶ大勢力になっていた。彼らは都市キエフを再建し、ウクライナ正教会の保護者になり、信仰の守護者ともなっていた。ウクライナ・コサックは共和国政府に対立し、フメリヌィーツィクィイの乱(ウクライナ民族解放戦争、コサック・ポーランド戦争とも)において共和国政府軍に圧勝し、ウクライナの地にコサックの国家が成立することになった。

 ウクライナ・コサックはロシアのそれとは異なり、階級があった。また、これはロシアのコサックのアタマンと共通するオタマンの他、ラーダと呼ばれる議会によって選出されるヘーチマンという最高職が置かれた。ウクライナ語を公用語とするこの国家は、正式名称は有力コサックの名を取った「ヴィーイシコ・ザポロージケ(ザポロージャのコサック軍)」であるが、ヘーチマン・シュチナ(ヘーチマン国家)、ヘーチマンのウクライナとも呼ばれる。

 共和国政府は翌年、なおもこのコサック国家に対して戦争を仕掛けるが、失敗に終わり、中央ウクライナの支配権を完全に失うことになる。一方、ヘーチマン国家は共和国政府と敵対関係にあったスウェーデン、オスマン帝国、トランシルヴァニア公国、そしてモスクワ大公国改めロシア・ツァーリ国家(モスクワ・ツァーリ国家)と手を結び、国際的に独立国家として承認された。

 しかし、この独立戦争においてロシア・ツァーリ国家の手を借りたため、一六五四年にはこのモスクワのツァーリの国の保護下に入ることになってしまった。独立戦争の指導者にして初代ヘーチマンであるボフダン・フメリヌィーツィクィイは、これを遺憾とし、一六五七年に今度はロシア・ツァーリ国家からの独立を目指し蜂起しようとしたが、その直後に没した。そしてこの国家も、十年後の一六六七年には、ドニプロ川を境にしてロシアと共和国政府(事実上はポーランド)に分割されてしまった。同じ「ルーシ」の歴史を持つ者同士の国家、いわば兄弟国として、対等な連合のもとに共和国政府軍と戦ったウクライナ・コサックは、こうして「ロシア」の手酷い裏切りに遭ったのである。

 一八世紀に入り、ロシアとスウェーデンが対決した大北方戦争において、スウェーデンと同盟しロシアからの独立を目指したヘーチマンもいたが、これはポルタヴァの戦いにおいてピョートル一世のロシア軍に敗れ、独立の夢は潰えた。

 この一八世紀後半、ウクライナ東部と中央部はロシア・ツァーリ国家改めロシア帝国に併合された。西部は、一七七二年のポーランド分割により、今度はハプスブルク君主国の領土となった。東部においては、ロシア貴族が支配権を握った。またウクライナ・コサックは、この直後ロシアで起こったプガチョフの乱に関係したかどでこのロシア帝国の手によって暴力的に解体され、彼らの多くは農民(農奴)に戻った。これに対し、リヴィウなど西部の都市部においては、一定の自治権を得たポーランド人、ポーランド化した裕福なウクライナ貴族、またユダヤ人が、産業や文化を発展させた。しかしこちらでも、農村部においては、ウクライナ人農民は支配された農奴のままであった。

 一九世紀に入りヨーロッパ各地で高まった民族主義の機運により、ウクライナ人の民族運動もまた、盛んになっていった。民族運動ではウクライナ語の整備も進められ、ウクライナ語文法を完成させるなどしていたが、ロシア帝国は、このウクライナ語をロシア語の一方言「小ロシア語」として扱い、独自の言語として公認しないなど、ウクライナに対し露骨な抑圧政策をとった。二〇世紀に入ってから、特に一九一七年以降のウクライナの歴史は、既述の通りである‥‥。


 ‥‥スターリンの第一次五ヶ年計画で示されたもののうち、他に特筆すべきものに、白海・バルト海運河がある。名称の通り、北極海につながる白海と大西洋へとつながるバルト海とを結ぶ運河であり、軍事的な意味も持つとされた。

 ウクライナは、内戦の終結後、西部のハルィチナー地方など一部地域を、ポーランドに奪われていた。また、ルーマニアもウクライナの一部を奪い「大ルーマニア」の夢を達成していた。そのウクライナは、ソビエト連邦内では、すべての産業の中心地であった。ロシアに次いで二番目に重要な共和国であり、「ソビエト連邦の穀倉」と呼ばれていた。

 さて、農業問題に関してだが、スターリン派が打ち出した方針は、明らかにブハーリンを筆頭とする「右派」と呼ばれるグループと、見解を異にしていた。一九二五年のブハーリンの発言を思い返してみると、わかりやすい。

 スターリンは、なおもブハーリンとは盟友である――「自分と彼は〈ヒマラヤ山脈〉である」とスターリンは述べた――ふりをしようとしていたが、トロツキーを始めとする「左派」が片づけられ、ジノヴィエフやカーメネフに代表されるスターリンに敵対的な党実力者、そしてその支持者たちがあらかた片づけられてしまった現在に至ってやっと、ニコライ・ブハーリンは己の立場をやや悟りかけていた。カーメネフが政治局と中央委員会から追われた翌日、ブハーリンはひそかに――少なくとも本人はそのつもりで――彼と会う手配をしていた。そして一九二八年に、彼は実際にモスクワ南西部の中規模都市カルーガへ赴き、「流刑」の身のカーメネフと密会を取り持った。「低劣なチンギス・ハーン」――ブハーリンは席上、スターリンをこう侮蔑的に形容し、強い批判を繰り返した。発言そのものはカーメネフの厚意により洩れなかったが、スターリンの情報網はこの動き自体を見逃しはしなかった。

 ニコライ・ブハーリンは、前述のアレクセイ・ルイコフ、労働組合代表のミハイル・トムスキーとで、いわば「右派版トロイカ」を組み、指導部と対峙した。後のふたりは、ともに社会民主労働党以来のボリシェヴィキの古参である。ミハイル・トムスキーは、自分自身が労働者時代に解雇された経験があり、十月革命後は、長年の活動歴を買われ、一九二〇年には赤色労働組合インターナショナル書記長となった人物である。この前年に中央委員となっており、後には政治局員に選出されている。労働組合問題論争におけるトロツキーとの対立は、前述の通りである――彼は「右派」グループに属することになってここまで来ていた。一方のアレクセイ・ルイコフは、十月革命前からの中央委員である。十月革命の直後こそジノヴィエフやカーメネフと同調し、他の社会主義諸政党との連立政権樹立を要求してレーニン他と対立、中央委員会および政府から去っていたが、後に復帰している。経済と行政のプロとしての手腕が高かった人物であった。政治局員であり、またソビエト連邦成立後は、最高会議国民経済委員会議長ほか、人民委員会議議長代理(副首相)、レーニンの後任として人民委員会議議長(首相)、ロシア連邦共和国首相等、多くの要職を歴任していた。第一四回党大会でカーメネフはソビエト連邦労働防衛会議議長のポストも解任されていたのだが、後釜に座ったのはこのルイコフであった。

 彼らを「右派」と呼ぶのは、特定の観点(パースペクティヴ)に立脚したものである。「ネップ推進派」「穏健派」「漸進派」と呼んでもいいのだが、ここではスターリンの立場に立って(!)「右派」と呼称する(トロツキーや「合同反対派」に与したゲオルギー・ピャタコフという党員などは、彼らを「一五〇パーセントのネップ主義者」と形容した。これは、当時のロシア語の感覚では、かなり程度が強い皮肉の響きがある。ニコライ・ブハーリンは、こう言われて開き直れる性格の持ち主ではなかった)。

 ――とにかく、このグループは、強大なスターリン派を相手に、不慣れな政治闘争を挑んだのであった。しかし、それはトロツキーのそれとはもちろん、急場しのぎの「合同反対派」のそれと較べても、精彩を欠いていた‥‥。


 一方、内戦を乗り切った赤軍は、近代的な軍隊に成長を遂げようとしていた。一九二六年、ヨーロッパから遠く離れたウラルにほど近いカザンに、戦車学校が作られていた。この背景には、一九二二年にドイツと結んだ「ラッパロ条約」、その裏にあったドイツ国防軍との技術協力等の秘密協定があった。赤軍はこのカザンで、ドイツ国防軍とともに軍事研究を行なっていた。特に重視されたものが、戦車戦術研究であり、この一九二八年には、その成果としての実験戦車連隊が誕生していた。また赤軍は、初の国産戦車MS(エムエス)‐1の開発にも成功しており、この年から(テー)‐18として生産が開始されていた。これは欧州大戦時のフランスのあのルノーFT戦車――ルノーFT‐17――をベースに、ライセンス生産のイタリアのフィアット製エンジンとアメリカ製の変速機を搭載した代物だったが、ともかく初の国産戦車の誕生は、赤軍首脳と技術陣に大きな自信を与えた。これら赤軍の近代化を導いたのは、あの内戦の若き英雄、いまでは赤軍の指導者となっていたミハイル・ニコラエヴィチ・トゥハチェフスキーであった。労農赤軍本部(=参謀本部)の長(=参謀長)の座にある彼は、戦車という兵器の先進性を見抜いていた。トロツキーからフルンゼ、そしてヴォロシーロフへ、という赤軍の総指揮をめぐる政治抗争は、先の通りである。しかし、そういった事情とは別に、赤軍の近代化に関するトゥハチェフスキーの要望は、概ね聞き入れられたのである。


 前述のように父親に冷遇されていたスターリンの長男ヤーコフは、この年、拳銃で自死を試み失敗した。

「あいつは銃をまっすぐに撃つこともできんのか」

 ヨシフ・スターリンはこう言って、わが子を嘲笑った。ナジェージダは、度重なる夫の暴力とヤーコフの悲惨な事件に、心を痛めた。一家の住まい――ダーチャは、ズバロヴォという場所にあった。

 ダーチャとは、「田舎の邸宅」の意であり、この場合は住居であるが、別荘としての役割を果たすこともある。ズバロヴォにはまた、他のボリシェヴィキの有力者たちのダーチャもあり、事実上関係者専用の鉄道分岐線があった。

 ナジェージダとの間の息子ワシーリーに対しても、スターリンは冷たかった。この幼い次男を彼は「赤猫(ワシカ・クラースヌイ)」と呼び捨て、モスクワの普通の学校に、警護もつけず路面電車で通わせた。そしてナジェージダは、かつてレーニンの事務員として、また現在の夫の秘書として働いた日々を、振り返らざるを得なくなっていった。彼女がタイプライターのキーを叩いて作成した書類の幾つかは「革命の敵」の死刑執行のリストでもあったからだ。それがどういう「意味」を持つのか――。また彼女は工業大学に通ったのだが、そこで、特にウクライナ出身の学友たちから「話」を聞いてしまっていたのだ。家庭内の、不和というには行き過ぎた陰惨さを味わわされ、一方で自分自身が信じた組織と夫が指導するこの国の実態を徐々に知ることになった彼女は、苦悩を深めていった。

 この一九二八年はまた、宗教に対する弾圧が蒸し返された年でもあった。この年にうちに、残っていた教会はすべて閉鎖され、また多くの(キリスト教の)教会、イスラム教のモスク、ユダヤ教のシナゴーグが破壊された。僧侶や修道士たちは、おもにシベリアの収容所に送られた。一六世紀のツァーリ、イヴァン四世が建立したモスクワの聖ワシリイ大聖堂(堀の生神女庇護大聖堂、ポクロフスキー大聖堂、聖ワシーリー寺院)は、メーデーのパレードの際の交通の流れに配慮するとして、そのほとんどが撤去された。

 一方、この年のなかばまでに、レフ・トロツキーの支持者は逮捕ないし追放され、政治的には事実上無力化された。

 ――前述のスルタンガリエフは、一九二三年の逮捕・失脚後も比較的自由であり、モスクワの国立図書出版所(ゴスイズダート)を始めとする各地の図書出版関係の部局に勤務していたようである。一説では、一九二三年六月頃釈放された彼は、一旦グルジアに追放の後、一九二四年に再逮捕、モスクワに連行され有罪となったが、赦免され、そのまま首都での生活を許可されたという。いずれにせよその彼も、党内抗争が最終局面を迎えようとしていたこの時期――一九二八年一一月に再逮捕された。

 やや時期が前後するが、この年の三月には、ドネツ盆地の工業地帯のシャフトイ炭鉱で、妨害活動を企てたとの嫌疑で、技師や「外国のスパイ」とされた五五名の人々が逮捕されている。彼らは、ほぼ全員が「自白」した。これは、今後のソビエト連邦の未来を予告していた‥‥。


 一九二九年。一月、レフ・トロツキーが、ついに国外――トルコ共和国――へ追放された。四月、ニコライ・ブハーリンは「プラウダ」編集長とコミンテルン議長の地位を、ミハイル・トムスキーは労働組合代表の地位を、それぞれ解任された。「右翼偏向者」――わかりやすいレッテルがトムスキーやルイコフに貼られ、攻撃の的になっていた。夏には、ブハーリンと彼の「腐った自由主義」に対するキャンペーンが、党内で開始された。一一月、ニコライ・ブハーリンは政治局員を解任された。

 ――遅ればせながら、「イズベスチヤ」のその後にも簡単に触れておく。党機関紙である「プラウダ」に対し、「イズベスチヤ」は政府(最高会議と中央執行委員会)の公式紙という位置づけになり、ともに部数を伸ばした。

 農民たちの追放が進められていた。前述のように、農業集団化に対する農民の抵抗は、極めて激しいものだった。――農婦たちは、徴発されようとする家畜の周囲に自分たちの身体で防壁を作り、若い活動家や作業の班員(ブリガード)たちに撃つなら撃てと叫んだ。しかしそういった努力もむなしく、夫や両親、彼女らの子どもたち、また祖父母らと共に、一列車ずつシベリアなどのはるか遠隔地へと運ばれていった。GPU隊員たちは移送にあたり、彼ら彼女らを「水力」という隠語で呼んだ‥‥。

「老人たちは旅の途中で餓死し、生まれたばかりの赤子は路傍に埋められ、どこの原野にも白樺の枝で作った一群の小さな十字架が立っていた」

 政府は――すなわちスターリン麾下の指導部は――赤軍の力を借り、戦車や戦闘機まで投入し、この「政策」を推し進めた。これは事実上、この国の政府による、農村部に対する戦争であった。そして、この国の外、すなわち資本主義諸国においても、大事件が起こっていた。どちらも、進行形であるという共通点を持っていた。一九三〇年代が、間近に控えていた。

「いっそのこと、あれをしたいよ‥‥」

 各地の農村で、強制移住と殺戮を見てきたフェアリーは、ゾーヤのもとへ帰ってきた日の晩、つぶやいたものだった。

「あれ?」

 ゾーヤは、ふさぎ込むフェアリーの声に答えた。

「二十‥‥一年前の、あれさ。ツングースカ川の‥‥」

「おまえがそんなことを言い出すとは、珍しい‥‥」

 大鍋を掻きまわす手を止めることなく、ゾーヤは妖精に答えた。

「あれ、か‥‥」

 ――一九〇八年六月三〇日、ロシア帝国は中央シベリアのエニセイ川支流にあたるポドカメンナヤ・ツングースカ川上流の上空で、突如として大爆発が起こった。強烈なエア・バーストが発生し、半径約三〇キロメートルにわたって森林が炎上し、約二一五〇平方キロメートルの範囲で木々が薙ぎ倒された。一千キロ離れた家の窓ガラスが割れた、という報告もある。爆発によるキノコ雲は、数百キロ離れた地点からも観測できた。「ツングースカ大爆発」と呼ばれるこの事件は、もちろん当時のロシア帝国政府の知るところとなったが、辺境も辺境、ほとんど人が立ち入らぬ奥地のため、何が起きたのか謎のまま放置されていた。彼らに代わった共産党政府もこの事件のことは承知していたが、辺境であることに変わりはなく、また内戦による混乱でそれどころではなかったという事情もあり、この謎の事件はすぐに調査できていなかった。一九二一年に初の現地調査が、科学アカデミー調査団によって行なわれ、一昨年、再び調査が行なわれていた。現在においても同地はまだ、調査団の派遣に「探検」と名がつけられるような奥地であった‥‥第三回の調査団が前年結成され、現地へ向かっていた。謎は完全に解明されたわけではなかったが、「どうやら、巨大な隕石が空中爆発を起こしたようである」という報告が、科学アカデミーならびに政府に対し成されていた。

「彼らは、それで満足のようじゃ‥‥。それでよい‥‥」

 ゾーヤも調査団の報告をフェアリーから仕入れ、そう言っていたのであった。

「あれを、今度はどこでやろうというのじゃ‥‥」

「――あのスターリンおじさんの頭の上さ」

 フェアリーは答えた。

「そうすれば、少しは良くなるさ。誰が書記長? ――だっけ? ――になっても。他の勢力の人たちがかしらになっても」

 フェアリーは勢い込んで義憤を口にしたが、ゾーヤは悲しげに頭を左右にゆっくり振り、手を止めて諭した。

無辜(むこ)の民が、どれだけ死ぬと思うかえ? ――それに、あれは、もう簡単にはできん‥‥。二度同じことをやれば、奴らもおかしいと思い、詳しく調べようとするじゃろう。――待て(ゾーヤは妖精を手で制した)‥‥。仮に奴らの組織がそれによって破れ、メンシェヴィキなりエスエルなり、カデットなり‥‥ヴラーンゲリやツァーリの軍隊なり、あるいはウクライナのマフノのような者たちが政権に就いても、同じことをするじゃろう‥‥」

 フェアリーはしょげ返り、小さな羽は力なくたたまれた。

「彼らだけではない。外国の軍隊が来て政権を取っても、それは同じ‥‥民のためにそれがいいとも思えんし、科学力が優れておるとすれば、もっとまずいことになる‥‥」

「‥‥‥‥」

「――奴らのほうから、わしらの存在に気づかせてはならんのじゃ‥‥」

 フェアリーは沈黙し、ゾーヤもまた黙って大鍋を掻きまわしはじめた。


 この一一月のうちに、ブハーリン始め「右派」グループの面々は、自分たちの見解の誤りを認め、今後は党の「基本路線」のため(特に右翼偏向に対する)党の闘争に加わる、と記された文書に署名させられることになった。またこの頃から、スターリンの神格化が始まった――始められた。

「われらが偉大なる天才的指導者にして教師スターリンの賢明なる指導のもとに――」

 このように題した「論文」等が、当たり前のように跋扈する風潮が定着していった。またヨシフ・スターリンは、特に公の場においては、自分のことを指す際に「私は」と言わず「スターリンは」と発語することが多くなっていった。

 レーニンを奉ることだけは忘れなかった。木造の霊廟は、赤花崗岩の立派なものに造りかえさせた。いわゆるレーニン廟の完成である。レーニンに「復活」されたら一番困るのは、誰あろうスターリンなのだが、そんなことはあるまい、と彼は高をくくっていた。そしてそれは、科学的事実とたまたま合致していた。ウラジーミル・レーニンの遺体は、ガラスの棺のなかで眠りつづけた‥‥。

 一二月。ある祝賀会が、盛大に執り行なわれていた。革命と何の関係があるのかわからない(とは誰も言えないが)同志スターリンの生誕五十周年を寿ぐものであった。下水溝も、ここまでくれば、上水道になりかけていた。社会が、これが唯一の選択肢である――であった――と感じさせるとき、それに異を唱えられる者がどれほどいようか‥‥? ソビエト連邦人民は、下水を飲まされようとしていた。それを笑うことはたやすいが、何が「下水」かを、その時代にその社会内部において見抜ける者が、またどれほどいようか。


  起て 呪いにより烙印を押された飢えたる者と奴隷の全世界よ

  猛るわれらが理性は沸き立っている 

  生死を賭けた闘争を行なう用意はできている

  圧制の全世界をわれらは粉砕する


 ソビエト連邦の国歌「インターナショナル」が流れていた。「ラ・マルセイエーズ」と同じくフランスの革命歌であり、元々のそれはシャンソン風とも言える小粋でポップな響きの歌であったが、ここロシアでは、オーケストラをバックに大勢の男女が高らかに歌い上げる、威厳に満ちた歌になっていた。


  これがわれらの最後にして決定的な闘争

  インターナショナルとともに人間は立ち上がる


 その眼鏡の小太りの男も、他の者たちと同じように、その歌を聴いていた。長い苦闘の時代を肌で知っている古参のボリシェヴィキたちの多くは、感動して聴き入っていた。彼らより若い――モロトフやカガノーヴィチたちの世代も、革命を、あるいはレーニンを、思い浮かべ聴き入っていた。

(「新しい(ノーヴィ・)ツァーリ」か‥‥!)

 スターリンさえも、これまでの日々を思い出さざるを得なかった。自分にとっても長く苦しく、苦い日々であった――だが俺は、いま確かな基盤のもと、栄光のなかにいる‥‥。

 すでにツァリーツィンは、「スターリングラード」と改名されていた。この改名は一応、旧帝政時代における名称を廃止する方針のもとで行なわれており、前述の「フルンゼ」「ジェルジンスク」――どちらも死人になってから命名されたのだが――等も存在した。

 若い世代――特に革命と内戦の後に官僚として、あるいは党員として(軍人として、秘密警察員として)加わった世代――の多くにとっては、この歌は特別な意味を持つものではなかった。上の世代から繰り返し繰り返し教えられる、偉大な革命の天才であったらしいウラジーミル・レーニンはともかく、この歌に思い入れはなかった。さらに下の世代の青年たち――大人になる頃にはソビエト連邦が誕生しており、社会に出るということが即ちソビエト体制に入るということを意味していた――は、言うに及ばない。例外は、各国で(各国語で歌われる)この「インターナショナル」を聴く機会を持つコミンテルンに関わる者たちであったが、彼らは少数派だった。

 眼鏡の小太りの男も、世代としてはモロトフやカガノーヴィチたちよりやや下の一八九九年生まれであったが、感性の点ではこれら下の世代と同じものを共有していた。男にとっては、この「インターナショナル」を聴くと、古参(オールド・)ボリシェヴィキはともかく、モロトフやカガノーヴィチたちの世代の人間までもが何事かを感じ、ときには涙すら浮かべているのが不思議であった。

 ――ときにはあの男(スターリン)さえ‥‥!

 男は、ある意味では、自分はまだまだ未知の世界にいると思った。これから昇り詰めてゆくには、知らねばならぬことが山ほどあると。だがその思いは、男をむしろ奮い立たせた。ボリシェヴィキで活動を始めて、はや十年余――といっても彼の場合、いろいろと事情が込み入っているのだが‥‥。秘密警察内でたちまち頭角を現し、一九二二年にはGPUグルジア支部長代理に、新参者としては異例の若さで抜擢されてもいた。人脈と運、そして本人の努力と才能によって、階段を昇ってきた。

 五年前、グルジアで大きな暴動が起こった。グルジア人たちは、スターリンの裏切りと仕打ちを忘れていなかったのだ。この暴動の鎮圧において、その有能ぶりを見せたのが、この男であった。彼は、一万もの人々を容赦なく処刑してみせ、これがスターリンに評価されたのだ。男もまた、スターリンに近づきたがっていた。かつての社会民主労働党時代に(後の)スターリンがレーニンから嗅ぎつけた匂いを、そのスターリンよりも強烈に、男はスターリンから嗅ぎつけていたのだ。階段の先は、はるか遠い。だが少なくとも、自分はその栄光の階段の、それなりの位置にいる。踏み出してゆけば、いつか必ず昇り詰められるのだ‥‥。男は、しばし目を閉じた。傍から見ればそれは、「インターナショナル」に感動して聴き入っているように見えた。

 眼鏡をかけた、この醒めた小太りの若い男。名を、ラヴレンチー・ベリヤといった。


2013年7月22日、本文中の、こなれていない表現の箇所を一箇所、修正しました。

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今回の作中で引用している歌詞には、著作権は発生していないと私は認識しています。

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