表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
フェアリー・テール  作者: 田中 鉄也
第一部 スターリン
10/29

5.追放(1)

本筋に戻ります。

この時期の党内抗争の最終局面。

 第一三回党大会において中央委員会は、一三名の委員、一七名の委員候補を増員する委員会の拡大を決定した。新メンバーは、いずれもスターリン派であった。カール・ラデックは、自分の地位を失った。ラーザリ・カガノーヴィチが、この新しい中央委員会と書記局、そして組織局に加わった。

 トロツキーは病気を患っていたが、恐れに捕われていたトロイカ側は彼に対する執拗な攻撃をやめようとせず、彼の基盤である赤軍から切り崩しにかかった。カーメネフとジノヴィエフは、一九一七年の恥辱を何としても打ち消したい思いに駆られ、必死なのであった。「裏切者」「臆病者」‥‥等々のそしりは、党内のそこかしこから途絶えることなく聞こえてきた‥‥。

 トルキスタン出身の軍人であり、すでに中央委員でもあったミハイル・フルンゼという男が、赤軍内でトロツキーと対立していた。トロイカ側はこれに目をつけ、このフルンゼをトロツキーの代理に据えさせた。また、モスクワ軍管区司令官をトロツキー派の人物からヴォロシーロフに交代させた。

 レフ・トロツキーはこの時期、赤軍のトップというよりは思想家・著述家として振る舞った。――彼の脳裏に焼きついて離れない光景があった。サラトフ県のあの村で行なったあの演説‥‥。軍装に身を包み装甲列車を背にした自分を、まさに喰い入るように見つめていた、貧しい老若男女のあの目、目、目‥‥。プロパガンダ演説は無数にこなしてきたし、もっと印象に残りそうな修羅場も内戦中に多く目にしてきたが、なぜかあの一度が、心のどこかに引っかかっていた。そして、真っ先に立ち上がってくれた、あのひょろひょろした若者。どこにでもいそうな――。いや、昔‥‥。

(あの人に言われた。――マリーヤ・トカーチ‥‥‥‥)

 その夜、デスクに向かう彼は、ずっと若い頃のことを思い起こしていた。

(「人には皆、それぞれの生があるのよ。『どこにでもいる人間』、そんな人間はね、どこにもいないわ。レフ・ダヴィードヴィチ、あなたが革命家になるなら、それを忘れないで――」‥‥。――彼女は、元気だろうか‥‥)

 マリーヤ・トカーチ。絵を描いている、少し変わり者の女性だった。エスエルに入ったと風の噂に聞いていた。真偽は確かめていない。長い間、彼は追われる立場の反体制派、また海外に亡命していてできなかったし、十月革命以後は忙しくできずにいた。

(いまなら、調べさせることは可能だ‥‥)

 そして再び、思考は内戦中の光景のことに戻った。

(――より正確には、光景というより、あのときの己の心理(こころ)なのかもしれん‥‥) 

 これらのことが、彼をしてもう一度自分の内面へと向かわせていた。しかし、ブハーリンが考えていたように「ときにセンチメンタル」になってしまう部分が自分にはあるのだという思いが、彼にはつきまとっていた。それが自分の弱さであるとの思いも‥‥。

 だから、自分でも不可思議なこの「現象」に対して、否定を試みた。未来へ向かって進行中の革命の、(‥‥私は、戦士なのだ――)と、己に言い聞かせるトロツキーである‥‥。政治闘争の真っ只中であることは、自らに現実主義者(リアリスト)としての責任感を倫理的要請として背負わせてしまっており、それは己の「弱さ」を克服せねばという義務感につながっていた‥‥。――自らを、また十月革命を振り返るべきという思いから、(トロツキー)はこの時期、「十月の教訓」という著作を発表し、トロイカの三名をこき下ろした。トロイカ側は無論これに反駁、党内の反トロツキー感情を掘り起こし、これらを「合唱」させた。モスクワにおいては「トロツキーに対する返答」を公示する電光表示さえ出現した。レフ・トロツキーは革命軍事会議議長を辞任した。


 一九二五年一月、トロイカは、ミハイル・フルンゼをトロツキーに代わる陸海軍人民委員・革命軍事会議議長とした。彼は歴戦の軍人であった。ボリシェヴィキ創設当時からの古参党員であり、帝政時代に十年間の流刑生活を送り、ミンスクの赤衛隊を始めとして、内戦においては南方軍としてコルチャーク軍と戦い、東部戦線全体の総司令官としてトルキスタン地方を制圧し、クリミア半島でヴラーンゲリ軍にとどめを加えて追い払い、さらにウクライナにおいてマフノ運動を鎮圧していた。党員としても軍人としても文句のつけようがないこの戦歴と力量を前に、スターリンは新たな不確定要素――つまり不安を抱え込むことになった。ジノヴィエフは、トロツキーを政治局、そして党からさえも除名することを求めたが、スターリンはこのとき、それをとりなしてみせた。自分が「穏健な」調停者だと印象づけるためでもあったが、その一方で、このミハイル・フルンゼの腹もまた、読めなかったからである。コミッサールによる指導も、この根っからの軍人気質の猛者は、形だけしか受け入れなかったのだ。(トロツキー)の敵は味方? それはある一面からの見方にすぎない。味方以外はすべて敵ではないのか‥‥! スターリンはそう思うのだ。第一の敵・トロツキーの力は弱減しつつあり、フルンゼは、強大な軍事力を背景にしていた。

 フルンゼはその年の一〇月、腹部手術の失敗によって死亡した。彼の故郷であるビシュケク、ここはおよそ百年前、コーカンド・ハン国が要塞を建設したことで知られるキルギスタンはアラ・トー山麓の都市であったが、ここが彼を記念し「フルンゼ」と改名された。この死には不可解なところがあった。スターリンの関与が噂された。後釜を継いだのがクリメント・ヴォロシーロフであったから、尚更であった。

 ――この年のうちに、レフ・トロツキーは外務人民委員の地位も解任された。


 ここまで固めてしまえば、スターリンにとって、トロイカは用済みであった。ジノヴィエフの支持基盤はレニングラード、カーメネフのそれはモスクワの党組織であったが、スターリンはそれらを切り崩しにかかった。特にレニングラードの党機関は、未だスターリンの思い通りにならないものだった。スターリンの敵意は、グリゴリー・ジノヴィエフとともに、西欧に面したこの旧首都そのものに向けられた。

 一方、トロイカを破棄するとなれば、政治局内ではさらに多数派工作が必要となる。政争をよそに、政治局員ニコライ・ブハーリンは、その学識により相変わらず知識人層からの支持を得ていた。スターリンはこの夏、ブハーリンに近づいた。彼は、自分の思惟、思索、思想に自信を持つ、本物のインテリゲンツィヤであった。ネップを推進すべきとし、この年ソビエトの農民に対し、「(生活を改善したいならば)富裕に成り給え」とさえ言った。これは党内左派からすれば、資本主義への後退を示唆するものであり、彼らの多くはブハーリンに反対した。

 さて、新たな連合がスターリンに対峙した。ジノヴィエフ、カーメネフも、黙っていたわけではない。彼らはクルプスカヤ、また他の反スターリンの党員たちを巻き込み、第一四回党大会において対決した。国は独裁制の瀬戸際にある。レフ・カーメネフはそう警告した。

「われわれはひとりの指導者(ウォシチ)を生み出すことに反対する。われわれは書記局に政治と組織を兼務させることに反対する‥‥」

 しかし彼らは、イデオロギー的にバラバラであった上に(反スターリンの党員には、ネップ支持派もいた)政治工作の力量において、スターリンに遠く及ばなかった。スターリンの味方とはいえないジェルジンスキーや、ウクライナの党組織を抱き込むことができなかったことも、痛かった。スターリン派の代議員たちの野卑な嘲笑、罵倒が飛び、暴力的に彼らは敗北を余儀なくされた。

 トロツキーに対抗すべく、スターリンの「一国社会主義」論が、ソビエト連邦の指針とされた。マルクス主義をよく学んだ者にとっては、これはかなり奇異な「理論」であった。

「社会主義建設の単位が、一国家だって? 一地域社会主義や一市街社会主義、一家屋社会主義や一部屋社会主義で、何故いけないんだい?」

 カール・ラデックは、いいジョークのネタを仕入れたとばかりに、嘲弄した。

「わかった! 同志スターリンは、一人社会主義、いや、一脳内社会主義をすでに実践しているのだ‥‥!」

 ‥‥この頃、ヨシフ・スターリンは、マルクス主義哲学者のヤン・ステンに、週二回、個人指導を受けていた。マルクスの「資本論」のみならず、ヘーゲルの「精神現象学」が教材として用いられた。マルクスからヘーゲルへの遡行は、西洋思想の勉強としては極めてオーソドックスなものである。これがスターリンの発案なのかどうか、また成果のほうは、不明である‥‥。

 一九二六年、レニングラードの味方を失ったジノヴィエフ、モスクワの味方を失ったカーメネフは、かつて対立したトロツキーとその支持者たちに頼らざるを得なくなった。これに、数は少なかったが、かつての労働者反対派も加わった。「合同反対派」と呼ばれた彼らは、以前にも増してイデオロギー的にはバラバラで、政治力もよい作戦も持ち合わせていなかった。七月なかばの中央委員会の席上において正式にその存在を宣言し、トロツキーにより、自分たちの過去の反目について遺憾の意が表明され、党の党機関からの解放と党内民主儀の復活のために働くことが自分たちの共通目的であるという声明文が朗読された。

 この合同反対派はスターリン派に挑んだが、例によって組織された野次や嘲笑の前に、ジノヴィエフやトロツキーの雄弁は役に立たなかった。またブハーリンの論説と演説が、彼らに対峙した。

 この年の七月二〇日、ジェルジンスキーもこの世を去った。彼はその日、中央委員会で二時間にわたるトロツキーとカーメネフを批判する演説を終えた直後――異説ではスターリンとの論争の直後、つまりこの二名への批判ではないだろう――胸を押さえたのだった。心臓発作による急死、と発表された。スターリンは、生前の彼の業績を(たた)えに讃えた。彼の故郷に近いミンスク近郊の街が「ジェルジンスク」と改名され、白ロシアのポーランド系自治区の首府と定められた。新しいOGPUの議長の座にはヴャチェスラフ・メンジンスキーが据えられ、モスクワの同本部前には(ジェルジンスキー)の銅像が建った。銅像は口を開かない‥‥。

 スターリンの粗暴さは、何も政治の世界に限ってのことではなかった。彼は妻ナジェージダと口論になると、彼女をしばしば――公衆の面前でも――殴った。一九二一年にはワシーリーという男の子を、そしてこの年には待望の女の子――スヴェトラーナという、それは美しい響きの――をもうけていたにも関わらず‥‥。口論の原因は大抵、政治に関することであった。そして、スターリンと前妻との間のひとり息子、ヤーコフ。彼は前年に結婚もしていたが、スターリンはこれを喜ばなかった。ヤーコフの妻があの老婆と同じ名前だった、というのは些細な理由だった。スターリンは元々、この長男の存在自体を疎んじていたのだ。むしろナジェージダのほうが、七歳しか年下でない彼を、ワシーリーやスヴェトラーナと分け隔てなく愛した。そのナジェージダに対してすらスターリンの先のような暴力があったから、周囲はこの一家にどう接したらよいか、わからなかった。

 かつての「大帝」ピョートル一世は、敬虔さだけが取り柄の長男を、日頃から疎んじていた。彼が身につけていないことを承知の上で、ピョートル一世は、製図の技術を公衆の面前で披露することを命じた。このことを苦に、長男は拳銃で自死を試みたが、それは未遂に終わった。ピョートル一世はこの長男を、それまでにも増して軽蔑の目で眺めることになったという‥‥。


 フェアリーは、レフ・トロツキーの前に姿を現していた。トロツキーは驚いたが、フェアリーがゾーヤの名を出すと、とりあえず納得したようだった。

「あんたの手元に、切れるカードは‥‥もうないってさ」

「‥‥‥‥」

 トロツキーは、むっつりと押し黙った。フェアリーは、カード、という言い方が、彼の心に届いていないからではないかと思ったが、違った。カード。それはこの男、レフ・トロツキーが心中でしばしば好んで用いる喩えだった。ゾーヤはそれを見抜いたからこそ、フェアリーに、このような言い方を持って寄越したのだ。トロツキーは、あの老婆の能力に、素直に驚嘆した。

(千里眼の魔女、か‥‥)

 彼の心に最初に湧き起こったのは、人知を超えた、あるいはそのように見える事象に対する好奇心であった。しかし、彼もまた、人間であった。次に湧き起こった、己の心の内を見透かされたことに対する不快の念が、その好奇心を打ち負かしてしまった。亡きレーニンなら、あるいはブハーリンであったなら――この不快の念に、さらにもう一度、最初の、圧倒的な不思議さに対する好奇心を覆い被せる、という芸当ができたかもしれない。トロツキーには、それができなかった。それが、レーニンとはスケールの違い、ブハーリンとは実際家としての能力――こちらはトロツキーのほうが上――の違いであった。

(彼らなら――)

 彼の脳裏に、ふたり――同志であり、また論敵でもある――が浮かんだ。あのふたりならば――。

(どのように考えるだろう‥‥)

と、思いをめぐらせるレフ・トロツキーであった。

 自由な想像、思索のつもりであったが、違った。ブハーリン、そしてレーニンの存在に捕らわれていること自体、自由でもなんでもない。少なくともレーニンは決してこのように考えたりはしないだろう。トロツキーは思考の末、そのことに気がついた。

(レーニン‥‥!)

 自分は所詮あの男を超えられないのか、という腹立たしさが、先の不快の念と結びついた。それはさらに、現状への苛立ちやスターリンとその一派への怒りの念とあわさってモヤモヤと渦を巻き、彼の明晰な頭脳を曇らせしまった。このときトロツキーは、フェアリーの――ゾーヤの――忠告に耳を貸さず、つまみ出すように追い返してしまったのだった。

「ちょ、ちょっと待ってよっ。人の話をよく聞いて――あいつは、スターリンは、あんたが思ってるよりずっと――」

(レフ――‥‥)

 ずっと昔に彼を諭した女性の声が、聞こえたような気がした。マリーヤ‥‥。

(あなたはまた――‥‥。もっとよく見て――)

 しかしトロツキーは、それを心身の疲労のせいにして、妖精と同じく頭から追放したのだった。

「帰ってくれたまえ、お節介な精霊さんよ。そして、あのおばあさんに伝えることだ。――このレフ・ダヴィードヴィチに、おまえさんの力など必要ない――とな」

 レフ・トロツキーは、バタンと窓を閉め、鍵をかけると、部屋を出ていってしまった。力、という言い方自体、ゾーヤの能力を認めた証であったが、フェアリーには、そこまではわからない。まして、トロツキーが怒り出す前に抱えていた葛藤も。

 フェアリーは、しばし閉ざされた窓の前で途方に暮れていたが、やがてよろよろと飛び去って行った。トロツキーにとっては、軽蔑と侮蔑の対象以外の何物でもないスターリンの名など、火に油を注ぐだけであったのだ。

 ――軽蔑はともかく、軽侮していたことが、彼の命取りとなる‥‥。


 ソビエト連邦の都市部には、新しい文化も生まれつつあった。

「わが国にもこんな作家が現れた」

 ある日、カール・ラデックがニコライ・ブハーリンに紐で綴じた紙束を差し出した。「探検世界」という都市部の大衆向けの雑誌の切り抜きを、まとめたものであった。ラデックは、なかば無理やりそれをブハーリンに貸した。

「ベリャーエフ、という」

 ラデックのおすすめは、アレクサンドル・ベリャーエフなる作家の「ドウエル教授の首」という作品だった。

「新しい文学だ」

 ラデックはそうも言った。

 (ソビエト連邦ではなく)フランスを舞台にした、切断した人間の首の生命を科学的な方法で保たせる、という怪奇SF小説であった。たしかに、これまでのロシア‐ソビエト連邦では、見られなかった類の小説であった。

 数日後、ブハーリンはラデックにその紙束を返して、言った。

「通読させてもらった」

 ニコライ・ブハーリンは、長い長いため息をついた。

「このようなものを文学と呼ぶことには、私の感性が耐えられない」

 ラデックは即座に切り返した。

「不健全なものを許容するのが、よい社会のありようというものではないか、同志よ。――何故なら、不健全な文化のなかには、しばしば意義のあるものが見出される」

「文化‥‥? 私は、そんな話はしていない――不健全、だからではない‥‥」

 頭の回転と口数の多さなら、ラデックのほうがブハーリンより上手だった。ラデックはブハーリンをやり込めるつもりだったが、このときブハーリンは、彼の得意とする物事を単純化した議論につきあわず、そのまま行ってしまった。

「‥‥‥‥!」

 カール・ラデックはブハーリンの背中を強く睨みつけ、(ブハーリン)の姿が消えた後も、しばらくその場を動かなかった。

 この時期、アネクドートと呼ばれる(ボリシェヴィキ‐共産党支配に対する)政治的なジョークも「文化」と呼べるほど華ひらいていたが、ラデックは、それを率先してボリシェヴィキ内でも広めるような人物であった。

 美術の分野においては、よりはっきりとした、注目すべき斬新なものが、この時期に華ひらいていた。「ロシア・アヴァンギャルド」と呼ばれるものである。すでに革命と内戦の時期から、ボリシェヴィキのビラやポスターといったプロパガンダ・アートとして出現していたこれら前衛芸術(アヴァンギャルド)は、ネップの時期において、特に陶芸や家具のデザイン、また建築、写真、映画、演劇‥‥等々の分野でも大きく発展し、内外の耳目を集めていた。それらはモダニズム――近代――の超克として、ボリシェヴィキ政権が支持する部分もあり、ソビエト・ロシアの新しい文化として、世界の先端を行っていた。


 ロシアの北の北極圏の海を船で渡り、大西洋側と太平洋側をつなぐ北方航路(セヴモルプーチ)(北東航路、北海航路、北極海航路)は、大きな利益を生むと考えられ、旧くから検討されてはいた。しかし圧倒的な氷海を渡ることを可能とするには、無線通信と動力船(蒸気船)、砕氷技術が必須であり、実用化には時を待たねばならなかった。

 一九世紀中葉に帝政ロシアは、クロンシュタットにおいて史上初の砕氷船を建造した。また、その後、スウェーデンの船によるおよそ二年かけての航海等も行なわれてはいたが、それはこの時代には「冒険」の域を出なかった。二〇世紀に入って少しずつ航海が盛んになってきていたのだが、十月革命によって事実上中断されていた。

 諸外国からの孤立を余儀なくされていたソビエト連邦にとって、この航路は是非とも必要であった。ヨーロッパ・ロシアとソビエト連邦極東地方とを、最短で結べるからである。孤立は海上にも及んでいた。この航路は、他国の領域内を避けて自国の内水を通ることができる、唯一の長距離航路であったのだ。過ぐる一九二〇年に、シベリア鉄道が通るノヴォニコラエフスク市に、北方航路委員会(コムセヴモルプーチ)の本部が設置されていた。これは、同市を赤軍が押さえてすぐのことである。北極海から一千マイル以上離れた内陸部に? ここはオビ川上流域にあたるのだ‥‥。

 今年、同市はノヴォシビルスク(「新しいシベリアの街」)市と改名された。コムセヴモルプーチの主な業務は、北方航路やシベリア河川の港や波止場の施設建設、地理踏査、漁業の管理、トナカイの飼育、毛皮産業の開発であった。

 北極圏においては、別にある闘争が遂行されていた。シベリア最北東部のチュクチ地方の北、東シベリア海とチュクチ海との間のウランゲリ島。一九二一年、別個に国際連盟へ加盟してはいるものの、大英帝国から完全に独立していないカナダの「探検隊」が、同島は大英帝国ならびにカナダの領有であると主張し、この極北の島にその二国旗を掲げるということを行なっていた。彼らはその後も「移住者」グループを送り込んでいた。これに対し、二年前の一九二四年から今年にかけて、ソビエト連邦の砕氷船が同島に到着し、彼らを捕え、追放し、ここにソビエト連邦の鎌と槌と五芒星の赤旗を誇らしく掲げたのだ。


 一九二七年‥‥。革命から十周年にあたる、記念すべき年であった。レニングラードで挙行された記念式典に於いて、勇気ある行動が起こされた。指導者たちの居並ぶ――トロツキーやラデックら「反対派」たちも、まだその席に座ることができた――前を、お馴染みの工場労働者のパレードが通った。しかし、そこで彼らは驚くべき歓呼の叫びをあげたのだった。

「反対派万歳!」

「スターリン、打倒‥‥!」

「トロツキー、万歳っ――!」

 ――抜刀した騎馬警官隊、次にはGPUの歩兵部隊が投入され、やっとのことで熱狂した工場労働者たちを追い払うことができた。この事件は、指導者の面々たちに様々な感慨を与えた。トロツキーは、未だ自分への支持が少なくないことに望みを託した。スターリンが得たのは、脅威は物理的に取り除かなくてはならない、という強い確信であった。

 革命十周年‥‥。その前夜、トロツキーと彼の支持者たちは、モスクワ工業専門学校において全モスクワの反スターリン派を糾合した集会を敢行した。集会は、党中央や党のモスクワ市委員会の公式代表を締め出して開催された。急ごしらえの集会であるにも関わらず、参加者は二千人を超え、大勢の人間が会場に入りきれず戸外に溢れた。トロツキーとカーメネフが壇上に立った。

 党中央は、彼らの集会は力ずくで蹴散らす必要がある、と労働者たちにアピールを出していた。中央委員会直属の若い指導員の命令一下、「労働者義勇軍」なる集団が彼らに襲いかかった。この「労働者」たちは実は擬装したGPU隊員たちであり、巧みに――力ずくで――真の労働者たちを追い出してしまった。若い指導員の名は、ゲオルギー・マレンコフ。彼は同校の卒業生であり、建物の構造や出入口等を知り抜いていた。

 トロツキーはこの後も、機会を捉え、スターリンを批判する演説を行なった。しかし、同じであった。組織されたスターリン派の「労働者」たちが、野次、コップの水、ぶ厚い統計学の本を投げつけるまでして、彼の演説を妨害した。レニングラードでの失態を回復すべく忠勤するGPU隊員たちは、彼の支持者たちに実弾を浴びせ、また逮捕したのだった。

 ソビエト共産党は、この年の一一月、レフ・トロツキーを党から除名した。グリゴリー・ジノヴィエフも同じく除名処分。他にも、およそ八十名の反対派党員が除名された。また、レフ・カーメネフは、政治局員と中央委員の地位を解任された。

 トロツキーの盟友にして有力な支持者でもあったアドリフ・ヨッフェは、また優れた外交官としても知られていたが、この頃、重病に冒されていた。彼は、同志トロツキー除名の報を聞くと、自ら頭を撃ち抜いた。ヨッフェの葬儀には、トロツキーによれば一万人の参加者――すなわち彼の支持者たち――が集まった。しかしこれが、この国の公の舞台における、彼の最後の登場となった。騒然としたこの年のモスクワにおいてはまた、二十人のイギリス人が「スパイ容疑」で逮捕・処刑されてもいる‥‥。

 一二月に開かれた第一五回党大会において彼ら反対派の問題が取り上げられ、レフ・トロツキーを物理的に追放することが決定した。行く先は遠く中央アジア、もう中国との国境にほど近いアルマトイ(アルマトゥ、アルマ・アタ)。スターリンは国外追放までをも狙っており、今回のこのはるか東方の地への放擲は、いわばその第一段階だった。

 アドリフ・ヨッフェの葬儀からひと月も経たない翌一九二八年一月なかば、GPUはレフ・トロツキーを逮捕した。

 彼らは、あらかじめトロツキー側に一六日に逮捕し追放する旨を伝えておいた。たちまち噂は拡がり、一月一六日、彼が乗ることになっていた列車の駅で、トロツキーの支持者や、レーニンの戦友にして十月革命の立役者を見送ろうとする人民たちが、数千人規模のデモを行なった。OGPUから報告を受けた政府側は、これを危険視した。おそらくスターリンの耳にも届いたであろう――逮捕と追放は二日延期すると、トロツキー側に申し渡した。デモ隊は阻止できたと実感し、二日後にもデモを行なう計画を立てた。

 しかし、騙し討ちの作戦が行なわれた。青い制帽のGPUの一隊が翌日、すなわち一月一七日、トロツキー宅を襲ったのである。そのときそこには、トロツキーと妻ナターリア、ふたりの息子、そしてヨッフェの妻ともうひとりの女性しかいなかった。レフ・トロツキーは内側からドアに鍵をかけたが、ドアのうちそと内外でのしばらくの談判の後、ドアは叩き破られた。一台のGPUの車に乗せられたトロツキーと家族は、白昼のモスクワの街を、そうと悟られぬよう護送された。彼らは、巧みに予定とは変えられた「カザン」駅に連れて行かれた。用意されていた列車は特別なもので、周辺では警戒線が張られ交通は遮断されていた。他の旅客の姿が見えなかったことは言うまでもない。GPU関係者以外には、わずかな数の鉄道従業員の姿が見えるだけであった。

「誰だか知っているのか!」

トロツキーの次男セルゲイは、GPU隊員たちと激しくもみあい、殴りかかっては取り押さえられていた。

「あのトロツキーだぞ‥‥!」

 長男リョーヴァは、鉄道従業員たちに大声で呼びかけた。

「同志諸君、見ろ、奴らは同志トロツキーをあんなふうにして連れて行くぞ‥‥!」

 鉄道員たちは目を向けはしたものの、奮起する者はいなかった。

(――誰が、彼らを責められようか‥‥!)

 レフ・トロツキーは強引に列車に乗せられ、デッキの窓からその光景を、唇を噛み締め眺めているしかなかった。

(ヨッフェよ、君が正しかったのか――?)

 トロツキーは、少しの間、気弱な想いに捉われた。しかし彼はそのとき、車や駅舎や青帽たちのはるか頭上に、それを発見したのだった。紫と黄に明滅する小さな物体が、空中に、浮遊していた。

(あいつか――)

 トロツキーはとっさに、息子たちに何かサインを送ろうと試みた。通じるかどうかは別として――しかしいずれにせよ、ふたりの息子は青帽たちに連れ去られてゆくところだった。

 ガタン。列車が動き出した。鉄道員のひとりがのろのろと、何の気もなしにか、あるいはそう装ってか、こちらを見た。うまい具合に、兵士も青帽たちもトロツキーの息子たちの騒ぎや機関車のほうに目を向けていたときだから、後者かもしれない。

(――空を見ろ‥‥)

 レフ・トロツキーは、素早くそう合図した。列車は動いてゆき、その者を含む光景も次第に動いて――遠のいていったが、サインが通じたことは、その者がまた何の気もないように装って空を眺め渡し、大きくめぐらせていた首を――トロツキーに見せようとしている意図は明らかだった――ある一点で止めたことでわかった。ガタタン、ガタン‥‥! 列車は加速してゆく。名も知らぬその鉄道員の姿も、ふたりの息子も、兵士や青帽たちも、遠ざかってゆく。

(私には、足りなかったのだろうか――)

 レフ・トロツキーは、ふと、反省の思いに捉われた。無論、スターリンやその一派に対してではない。あのように何気ない風を装って、他者が切実に訴えようとしているメッセージに気を配る、(謙虚さが‥‥)と。

 己が代弁すべき人民の願い、それがどんなに小さな声だとしても、注意していれば気がつけるはずだ。

(トロツキーよ、おまえはこれまで、傲慢だったのだ‥‥)

 レフ・ダヴィードヴィチは、ガラス窓に映る眼鏡の男に言い聞かせた。

(だから、しくじった‥‥)

 彼の変名の由来は、少々変わっていた。この名は、彼がまだずっと若い時分、オデッサの監獄に入っていた当時の、自分の受け持ちの看守の名であった。

 列車は速度を上げつづけ、カザン駅そのものが、はるか後方に消え去ろうとしていた。

(――そうだ。私は、レフ・トロツキー‥‥)

 男は、内省――ヨシフ・スターリンが苦手な――に入った。幸い、という表現はおかしいかもしれないが、到着までには、時間はたっぷりあるだろう‥‥。

(これで終わったわけではない‥‥。やらねばならないことは、まだ、ある‥‥)

 レフ・ダヴィードヴィチ・トロツキー――そう名乗る男は、眼鏡の奥の()に、深く強い光をともした。

 不意に、青帽が彼の肩を叩いた。

(私に触るな――!)

 以前だったら口にしていたその衝動を、しかしいまの彼は流すにとどめた。そして車内に入り座席につくと、彼は、いまは亡き同志に心のなかで呼びかけたのだった。

(ヨッフェ)よ‥‥私は、これからも闘うだろう‥‥。――君の分までもな‥‥!)

 男は、ひとり瞑目した。


「どうじゃった」

 老婆は、彼女の下僕(しもべ)に尋ねた。十年と少し前、彼女のもとを訪れたふたりの男が見たならば、老婆は、相変わらず老婆であったが、どこか様子が――身につけている物などではなく――違っていることに気がついたであろうか。だが、そのうちのひとりはこの世を去り、そしてもうひとりは、今しがた老婆が聞こうとしていた運命だった。

「連れていかれたよ」

 フェアリーは、悲しそうに告げた。

「思ったほど、抵抗しなかったな」

 フェアリーは小卓の上に舞い降り、その縁に腰かけた。

「革命の英雄ったって、あんなもんなんだね」

 フェアリーの小さな双眸は、悲しみとも疑問とも見える光をたたえていた。

「人の世はな、そんなもんじゃ」

 答える老婆の声は、やはり十年と少し前とは、どこかしら異なっていた。

「あの人は、これからどうなるの?」

「‥‥‥‥‥‥‥‥」

 フェアリーのほうを向かず、大鍋をゆっくりと掻きまわす老婆に、フェアリーはなおも問うた。

「死ぬの? 殺されるの?」

 老婆は、やっと顔を上げた。レーニンとトロツキーは、ここではっきりと、あからさまな異変に気がついただろう。老婆は、わずかだが、若返っていた。肌の艶も、声も――。

「すぐには殺されん」

 老婆は、再び目を伏せて、言った。その答は、いつかはレフ・トロツキーを、ある運命が襲うことを言い現していた。

「――そうさな。あと十年は大丈夫じゃ」

「ぼくにまでそんな言い方しなくてもいいじゃない! 知ってるんでしょ、いつ死ぬか‥‥!」

 フェアリーが抗議した。しかし老婆は、首を横に振った。

「言うことは簡単じゃが‥‥言えん。言えば、おまえの行動に影響を及ぼす」

 フェアリーは、小さな下唇を噛んだ。

「おまえの行動はな、歴史に関わるのじゃ。大きく、な。――その小さな羽のはばたきの、ひとつひとつ、がな」

 老婆が大鍋を掻きまわす音だけが、地下室に響きつづけた。

 ――同党大会でカール・ラデックも除名され、シベリア僻地へ追放された。


このスヴェトラーナさんは、2011年11月22日にお亡くなりになりました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ