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フェアリー・テール  作者: 田中 鉄也
プロローグ
1/29

~その男~

 旧ソ連(ソビエト連邦)の独裁者スターリン(ヨシフ・スターリン)を主人公に迎え、秘密警察「長官」ベリヤ(ラヴレンチー・ベリヤ)を副主人公に据えた、創作小説です。彼らをはじめとするボリシェヴィキの面々の、個人としての側面に光を当てました。

 歴史を追い、1917年から1953年まで、ロシア革命からいわゆるスターリン時代の終焉までをおもに描きます。ただ、マルクス主義の中身には、ほとんど光を当てません。いわゆる大粛清は、可能な限り描きますが、自信はありません。第二次世界大戦は、いわゆる独ソ戦に焦点を絞ります。赤軍の諸兵器、NKVDほか秘密警察、ロシアとウクライナ、グルジアの歴史、ソビエト連邦の諸相等々も扱います。

 史実を元にしていますが、内容はあくまでもフィクション(創作・虚構)です。いわゆるホラーではなく、残酷な描写はしないつもりですが(描写ではなく、叙述としては、残酷に感じられる事例も書きます)人間の怖さは描くつもりです。作者はロシア革命には思い入れがなく、また、日本人はほとんどといってよいほど登場しません。


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【おもな登場人物】

ヨシフ・スターリン‥‥本編の主人公。

ラヴレンチー・ベリヤ‥‥もうひとりの主人公。


ゾーヤ‥‥謎の老婆。ボリシェヴィキの面々と接触する。

フェアリー‥‥妖精。老婆のしもべ。


ウラジーミル・レーニン‥‥ボリシェヴィキを率いる。

レフ・トロツキー‥‥スターリンのライバル。赤軍を創設。

ニコライ・ブハーリン‥ボリシェヴィキの理論家。

レフ・カーメネフ‥‥ボリシェヴィキの有力者。

グリゴリー・ジノヴィエフ‥‥ボリシェヴィキの有力者。

フェリックス・ジェルジンスキー‥‥レーニンの部下。

ナジェージダ・アリルーエワ‥スターリンの秘書。

ラーザリ・カガノーヴィチ‥‥スターリンの部下。

ヴャチェスラフ・モロトフ‥‥スターリンの部下。

カール・ラデック‥‥ボリシェヴィキのメンバー。

セルゴ・オルジョニキーゼ‥‥スターリンの旧友。

アナスタス・ミコヤン‥‥スターリンの部下。

セルゲイ・キーロフ‥‥スターリンの部下、友人。

ニコライ・エジョフ‥‥スターリンの部下。

ニキータ・フルシチョフ‥‥カガノーヴィチに見出される。


ミハイル・ソコライエフ‥‥ロシア革命を目撃した少年。

イヴァン・コズロフ‥‥ロシア農民。赤軍に入隊。

ノンナ・タカシヴィリ‥‥ベリヤを慕う少女。

ユーリ・ワイネル‥‥コズロフの部下。

アレクセイ・ブニコフ‥‥コズロフの部下。

イヴァン・ノヴォセロフ‥‥ワイネルの部下。


アドルフ・ヒトラー‥‥ドイツ第三帝国総統。

.

 その男は、川辺にひとり佇んでいた。黒い口髭を生やしていた。傍目には、男の視線は川面に注がれているようだったが、その目は、虚ろだった。彼の妻は数年前、ひとり息子を残して、この世を去っていた。男はそれ以来、このような目をすることが多くなったが、周囲の理解と異なり、それは必ずしも伴侶の死を悲しんでのことではなかった。彼は、何かが見えなくなったような思いに捕らわれていたのだ。いや、より正確に言えば、それまでも見えてなどいなかった。そのことに気づかされたのだ。自分は、何処か他の人間と違う――いや、ずっと違っていた‥‥。そんな思いが男の脳裏に棲みつくようになったのだが、男はまた、内省という作業がうまくなかった。これは、自分では気がついていなかったが、母語と違う世界で生きることを選んだためでもあった。


 ここは、ロシア帝国はシベリア、トムスク県ナルイムである。首都サンクトペテルブルクからは、およそ一千六百マイル離れている。ロシア帝国は、地球の陸地面積の七分の一を占める世界最大の国家であり、一八一二年にナポレオンを撃破してからは、最大最強の陸軍国としても恐れられていた。

 古びた荷馬車を、同じようにくたびれた馬が、億劫そうに引いていた。この世に生まれてきて、こんな殺風景な田舎のあぜ道を行き来するだけの毎日。動けなくなるまでこき使われ、やがて死ぬ‥‥。

 男は長靴(ブーツ)を履いていた。男の父親は、靴直しの職人だった。男の家庭はこの父親のためにすさんでおり、男もまたこの父親をひどく嫌っていたが、ブーツを履く習慣だけは、この家庭から得た。母親は男が聖職者になることを望み、男は十代の頃、神学校に通うことになった。しかし、男はそこからも「脱走」した。男は、神を信じ敬う気持ちにはなれなかった。しかし、神学問答――問いとそれに対する回答という形式――だけは面白く感じられたから、自然と身についた。男はまた、この神学校時代に、それ以前の小学校時代から習わされていたロシア語を、ほぼ完璧に習得した。そう、男は、ロシア人ではなかった。


 ロシア帝国は、「帝国」である。その領土はロシアを始め、ウクライナ、ベラルーシ、ポーランド、フィンランド、バルト地方、カフカース地方、シベリア地方、中央アジア一帯、極東の沿海州一帯にまで広がる。その構成民族は――「民族」の定義は難しいが、言語や居住地によって分類するならば――実に百を超えるとされる。これら諸民族は、さらに数百のサブグループに分かれる。極東の太平洋岸に住む人口三百人から五百人ほどのアレウト(アリュート)人から、帝国全域に広がり一億人を超えるロシア人まで、それらは多岐にわたる。ロシア帝国は、多くの民族の土地を征服し、併合し、彼らを同化させようと図り、ロシア人中心の政策が強要されている。大ロシア国家主義は、巨大な「民族の牢獄」を作り出していた。これら諸民族の頂点に立つのが皇帝(ツァーリ)である。西ヨーロッパ諸国のような市民革命は、いまだ成されていなかった。ツァーリは、絶対君主である。

 カフカース地方とは、帝国領南西部にあたる一帯であり、アゼルバイジャン、アルメニア、グルジアという三国の歴史があった。男は、このグルジアの出身だった。ただ、現在の彼にとって重要なことは、自分の出身よりも、自由の身ではないということだった。

 男は一八七八年一二月生まれで、すでに三十代なかばにさしかかっていた。妻の死は男にとり、遠い昔の出来事であった。男は、ある政治活動に参加しており、ために逮捕され、ここナルイムに流刑にされていたのだ。逮捕と流刑は初めての体験ではなく、今回の流刑それ自体は彼にとりそれほど苦痛ではなかった。しかし男は、憂鬱だった。

 男は左腕に麻痺があった。幼い頃、馬車に轢かれたためである――医者にかかる金は、彼の家にはなかった。年とともにこの左腕の状態は悪化し、肘は硬化し動かなくなっていった。また、これとは別に、彼の左足は、第二指と第三指がくっついていた。これらは、子ども時代の彼にコンプレックスを持たせた。貧しいのは彼の家だけではなかったが――カフカース山脈がロシア方面からの寒気団を遮断するため、グルジアの平地は比較的温暖である――彼のような貧しい子どもたちは、素足で遊ぶのである。ブーツを愛用するようになったのも、このことが遠因であった。履いたままベッドに入ることも、しばしばあった。子ども時代のコンプレックスは、勉強に打ち込むことで、どうやら乗り越えた。教区の小学校では、それなりの成績をおさめたようである。家の貧しさ――極貧といえた――にも関わらず神学校に進学できたのは、この小学校時代の成績優秀のために報奨金が出たからであるともいうし、その神学校でも、学業それ自体についてゆくことができたのは、この教区の小学校時代の栄光のためであった。しかしまた天然痘が子ども時代の彼を襲っており、顔に無数の痘痕を残していった。身長もおよそ五フィート四インチ(一六三センチ弱)と低いほうで、これらは思春期以降の彼に、現在に至るまでのコンプレックスを与えていた。これらのコンプレックスは常のものであったが、憂鬱の主たる要因は、未来が見えないためであった。

 男は、先の政治活動のために人生を賭けていた。彼が所属する政治組織は長い間「革命」を起こそうとしていたが、それは捗々(はかばか)しい成果をあげていなかった。男は活動家として、その政治組織にすべてを捧げていた。組織の資金調達のために銀行相手を始めとする強盗、また盗み、ゆすり、ニセ金づくりまでをやっていたが、なかなかうだつが上がらず、組織のほうで特に銀行強盗は禁止されてしまった。だからというわけではないが、男は組織に多いインテリゲンツィヤ――いわゆるインテリ――を嫌い、流刑先では刑事犯との交流を好むようにもなっていた。彼らのほうが、政治犯より気が合うように男には感じられた。しかしそれは、組織内では少数派に属することは、男も知っていた。

 いつまでたってもせいぜい数百人のうちのひとり――ちんぴら活動家扱い、そしてこういった肌の合わなさ‥‥男は、疲れていた。これまでの歳月と、見通しの立たない未来とに。どちらも、粘るように男を閉じ込めていた。流刑を終えたとして、あるいは脱走したとして、何か光明が待っているのだろうか? 自分の世界が、内側へ折りたたまれてゆくような感触を覚えていた。物理的な理由よりも、このような意味で、彼は自由の身ではなかった。男は男なりに、人生というものについて考えてみようとした。しかし男はまた、内省というものがうまくなかった。


 そのとき、男の視界の端に、それが入った。同時に、高い鈴の音のような〈声〉が、耳に入った。

「やあ」

 決して大きくはない――耳をそばだてねば聞こえぬほどの、それはそれは小さな、小さな、小さな音だった。しかし、男には、それが音韻であることが、何故かはわからないが(それほどかすかな音だったのだ)はっきりとわかった。音韻――それは言葉であった。

「へえ、ぼくを見ても十字を切らないな」

 その〈声〉は、そう聞こえた。

「どうやら本物のようだ」

 男の視界に入ったもの、それはゆっくりと明滅していた。濃く深い、それでいて透きとおった紫色と、明け方の白みよりも白く、それでいて卵の黄身よりもはっきりとした黄色とに。それは、小さな人間の形をしていた。厳密には違う‥‥小さな羽が、やはり小さな背中から生えていた。妖精(フェアリー)であった‥‥。


 男はしかし、この世の者ならぬその小妖精の姿をはっきりと見ても――後から思い返せば自分でも不思議なほど――無感動であった。神の使いか悪魔の使いか知らないが、いまの俺を、動かせる者などいない‥‥そんな精神状態であった。これには、妖精も少し困ったようだった。

 妖精――フェアリーは、いつもこのように突然姿を現し、人を驚かせては、その隙に彼の使命――彼を遣わした者からのメッセージを伝えること――を果たしてきたのだ。小さな妖精は、小さな手で小さな頭を掻いた。まごうことなき神秘を目にしても、ちっとも驚かない。これが現代というものだ、超常の世界の住人とて、時代に合わせなくてはならない。味気ない時代だなあ‥‥。紫色の光を発していた妖精だったが、やがて仕方なく、自分のほうから男に問いかけ始めた。まず、本人であるかの確認から。光が、黄色に変わっていった。

「‥‥‥‥」

 男は、相変わらず無口だった。

「ぼくはフェアリーさ。まあ、よろしく」

 妖精は、人間社会風に手を差し延べたが、男はその小さな小さな光る手をちらと見やっただけで、これといったリアクションも起こさなかった。普段のこの男は、もう少し愛想がいい。流刑された先で初対面の仲間たち――特に刑事犯と――と会ったときなどは、もっと親密な態度を見せる。このときの無愛想は、やはり精神状態のせいであった。フェアリーは、やはり仕方なく、自分がある者からの使いであること、それが仕事のようなものであること、そして今日も彼――男にメッセージを伝えに来た旨を、説明しなければならなかった。

「実は、あんたの名前も『コーバ』っていうほうしか聞いていないんだ。変名だろ、それ。本当の名前はなんていうの?」

「ヨシフ、だ。ヨシフ――‥‥」

 男はじろりと小妖精を睨み、どうでもいい、とでもいうように、自分の本名を口にした。謎の小妖精は、男にメッセージを伝えると、別れを告げた。紫と黄の明滅をゆっくりと繰り返しながら、妖精は、飛び去っていった。その明滅も、すぐに小さくなり、空に吸い込まれるように消えた。

 男は、傍らの小石を拾い、目の前の川に投じてみた。ボシャン。小石は無感動な音をたてて水に落ち、水面に波紋を広げていった。おかしなところは何もない。自分は夢を見ていたわけではなさそうだ。しばらくして、男はその場を立ち去った。彼が作業につかねばならない交代の時間が、笛で知らされたのであった。

 ――フェアリーは、高い空中から、その男が片足を軽く引きずるような足取りで遠ざかってゆくのを、じっと見つめていた。彼には、あの風采の上がらない男のどこが重要なのか、わからなかった。切れ者には見えないし、かといって大悪党という雰囲気もない。話し方もぼそぼそとしている。しかし、彼の遣わし手――男には言わなかったが、老婆――によれば、「十数年後、ロシアはこの男を中心に回り始める‥‥」というのであるから、驚きだった。そして、「さらに十数年後には、この男は、この星全体の命運を左右するほどの存在になる。わしらでさえなかなか届かぬ領域じゃ‥‥」というのだから、なおさらだった。フェアリーの知識では、はるか昔、東方に現れ、巨大な帝国を建設したチンギス・カンという人物の名が浮かんだ。その軍団は精強を誇り、このロシアの大地をも蹂躙したという‥‥。あの男が、そのようになるのだろうか。とても信じられなかった。

「単に版図だけの話ではない。おまえも知っておるじゃろう‥‥人間の科学力は、日増しに進んできておる」

 そう語る老婆の目は、どこまでも暗かった。フェアリーは、聞いたばかりの男の名を反芻していた。――ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ‥‥。


 この謎の妖精との邂逅以後、ほどなくして男は、これまでの「コーバ」とは別の、ある変名を多用するようになった。変名の使用は男が属する組織のなかでわりとポピュラーであり、妻との死別後から口頭でぽつぽつと試用してはいたが、いままでは自分でもどこか馴染めず、特に筆名では「コーバ」を使ってきた。だがこれからは、こちらを――。旧い馴染みの名で彼を呼ぶ仲間も多かったが、彼は新しい名にこだわった。

 「スターリン」――。「鋼鉄の人」なる意であった。

2013年8月14日、【おもな登場人物】の体裁を整えました。

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