一通の手紙(1)
それはどこにでもある、日常と呼べる日々からはじまった。
ある八月のこと。
目覚ましの甲高い機械音とともに、鳥の囀りの音が響き渡り、まだ少し眠気が残る体を呼び覚ます。
上体を起こし、未だ現実と夢の境目の区別ができないまま、覚束ない足どりで自分の部屋を出ようとする。
この数秒の間だけは、自分の意志とは無関係にいつもの慣例染みた行動を起こさせる。
洗面台へと向かい、ささっと洗顔を済まし、ラックに掛けてあるタオルを取ってその濡れた顔の水滴をふき取る。
母親の栄子は勿論寝ている。今日はゴミの日だというのに。
玄関に脱ぎ捨てられた靴を整理してから、大きなゴミ袋を携えて数メートルと、ほど近いゴミステーションへと捨てに行く。
微かに脈拍が上がった状態でポストをついでに確認する。
「朝刊、朝刊っと・・・・・・っあれ」
いつもならその新聞以外に投函されている筈が無いんだが。
・・・・・・手紙?
白い洋形封筒で、赤の封留がされている。
身に覚えのない手紙に多かれ少なかれ驚いてはいるが、割れ物を扱うかの如く、そっと確認する。
表には何も書かれておらず、裏返してみる。その封筒の右下に、細筆のような字で書かれた手紙の差出人はーーー
『中川 椿』
知り合いにそんな名前のやつは居なかったよな・・・・・・
聞き慣れない名前に不信感を抱く。
宛名もきちんと「天条」(俺の苗字)と書いてある。
とすると、宛先の間違いか配達人が間違ってポストに入れたか・・・・・・
でも、俺の苗字は珍しい。いくらマンションで投函口が密集してるとしても入れ間違いなんて
無いとは思うんだけどな。
このまま1人で解決しようにも、手詰まりなので少なからず知っているかもしれないという望みを母、栄子に
託すべく、寝室(地獄)へと足を運ぶ。
◇◆◇
『トントンッ』
蝉の鳴き声にも、かきけされることの無いノックの音で、寝室に入る。
薄暗い部屋に、自分の背後から差す光がその中の様子を照らす。
辺りには無造作に置かれた化粧道具に、散乱した衣服。まるで足場のない部屋だ。ある種のおばけ屋敷に似たような、怪しい雰囲気に呑まれた空間は、一定の沈黙が保たれている。
その静寂を時々破るかのような母、栄子のいびき。
足場のない床をいつものように爪先立ちで進んでいく。距離にして約3mだが、雑に終われたおもちゃ箱ともとれる状態と化した部屋は1歩進むのでさえ難しい。しかし、こんなことは日常茶飯時だ。そっとベッドに近寄り化粧のよれた顔とお酒の嫌な臭いに逃げたくなったが、手紙の差出人を確認しなければならない。
「はぁ・・・栄子、ちょっとだけ目を覚ましてくれ」
口元からだらしなく垂れた涎をそばに置いてあるティッシュで拭ってやる。全くどっちが母なんだ。いや、間違いなく栄子なのだが。キャミソールから覗かせる胸はある意味自分のだらしなさを表現しているのかもしれない。
1度じゃ起きないことはもう分かっていたので、体を揺さぶる。なんだか幸せそうな顔をしている。バクが真っ先に夢を喰う対象になるような、そんな顔だ。
俺の揺さぶりに目を覚ましたのか、栄子は体を起き上がらせブツブツと独り言を言いながらも、寝ぼけ眼で直視してくる。
「これ、この手紙の差出人について聞きたいんだけど・・・って寝ようとするなっ!」
雑に差し出した手紙に刹那、ビクッと震えるが、また元の体勢に戻ろうとする母の両肩を掴んで留まらせる。
(・・・何やってんだ俺)
自身の意志とは無関係に、中途半端に静止させられた体は、再び眠ることへの拒絶を表しているのだと思ったのか、今度はすんなりと言うことを聞き、栄子は俺の質問に答えようと手紙を見る。
髪をボリボリと手でかきながら目を落とす母の眼は、徐々に開き、眠気が吹っ飛ぶ勢いで大声をあげた。
地獄へと垂らされた糸に縋るかのような想いで出した声とまではいかないが、この部屋に響き渡る最大の叫び声だった。
「ちょ、声でかいって! なんか召喚する気かよ・・・」
「あっ、ごめんごめん。でもいきなりだったから忘れてたよ」
「・・・忘れてた?」
俺の問いかけに返事は無く、栄子は、ただその手紙の差出人の名前に指をなぞらえてどこか懐かしいものを見ている気がした。こんな顔するくらいだろう、絶対何かがあると思ったがそれは後で聞けばいいか。それよりもまだ、封を開けてなかった。
「手紙開けてもいいか?」
「いいけど・・・クスッ」
最後のいたずらな笑いは放っておいて、2つ折りにされた手紙をみる。
「・・・んっ?」
『B・J・F・S・B・H・R』
これまた細筆で書かれた文字であることには変わりない。しかし、これは何て書いてあるんだ。全く意味のない”文字”がそこに並んでいるだけで暗号文を彷彿とさせる不成立な文字の塊で全く意味を成していなかった。
その様子を窺っていた栄子は、自分だけが知っている謎のトリックの種明かしをしたがってる。仄かに漂う香水がより一層、この場の空気を形作っているような気がしてならない。
「どれどれ、わたくし栄子がその暗号を解いてあげよう」
自分と同じかそれより少し細い手がキャミソール越しではあるが、自身の胸に押し当て、自分が探偵にでもなったつもりなんだろう。えらく威張って見せる栄子を察するに解決する自信があるのだろう。こんな部屋でさっきまで涎を垂らして寝ていた実の母に、手柄を全部もっていかれそうな状況に俺は不服ではあるが、手紙を渡す。
前から書きたいと思っていた学園ラブコメディーです。ちなみに主は、こんな甘々な生活は送っていません。ただ1人でも多くの方から、ご意見、感想等を頂けると今後の私自身の糧になりますので、どうか温かく見守っていただけると嬉しいです。