幼馴染を優先され続けた彼女は、夜会でいつもひとりだった
「グランウェル伯爵夫人、本日はお招きくださりありがとうございます」
セリーヌ・アルヴェールが淑女の礼を取ると、グランウェル伯爵夫人は穏やかに微笑んだ。
「ごきげんよう、セリーヌ様。来てくださって嬉しいわ」
「こちらこそ、光栄です」
伯爵夫人の視線が、セリーヌの背後へ向けられた。
離れた場所には、侍女が控えている。
「ところで、婚約者のエリオット様は?」
「……」
セリーヌは答えなかった。
夫人の周囲にいた令嬢たちが、わずかに目を伏せた。
紳士たちも会話を止めた。
婚約者のいる令嬢が一人で夜会に現れれば、それだけで視線を集める。
セリーヌの隣に、エリオットの姿はなかった。
その沈黙の中へ、一人の青年が歩み寄ってきた。
「ルーカス様」
ルーカス・グランウェル。
この夜会を主催するグランウェル伯爵家の嫡男で、セリーヌとは以前から夜会で何度か言葉を交わしていた。
「セリーヌ嬢、よく来てくれた」
ルーカスは穏やかに声をかけた。
だが、ルーカスの視線がセリーヌの隣にすべると、彼の眉がわずかに寄った。
「……また、君を一人で来させたのか」
「ルーカス様、お気遣いありがとうございます。わたくしなら大丈夫ですから」
セリーヌは、ほんの少し首を傾げて微笑んだ。
ルーカスはその笑みに、目を細める。
「大丈夫に見えるよう振る舞うのが、君の悪い癖だ」
「……そのようなことは」
「ある。短い付き合いでも、それくらいはわかるさ」
そう返され、セリーヌは言葉を止めた。
伯爵夫人がそっと扇を閉じた。
周囲の令嬢たちは視線を伏せたまま、誰一人その場を離れなかった。
ルーカスは一歩下がり、セリーヌへ手を差し出した。
「今夜の一曲目は私が預かろう」
「ルーカス様?」
「君を一人で立たせたままにするほど、グランウェル家の夜会は礼を欠いていない」
セリーヌは一瞬、戸惑ったようにその手を見つめた。
「……ありがとうございます」
セリーヌは、そっとその手を取った。
ルーカスに導かれ、広間の中央へ進む。
周囲の視線が自然と二人を追ったが、楽の音が重なる頃には、それも夜会のざわめきに溶けていった。
向かい合うと、ルーカスが静かに口を開いた。
「この曲、前にも君と踊ったな」
「わたくしも覚えておりますわ。ベルファース侯爵家の夜会でしたね」
「覚えていてくれたのか」
「もちろんです。あの夜は……少し気落ちしていて」
一歩目に合わせて、セリーヌのドレスの裾がふわりと揺れる。
「そんな時に、ルーカス様がお声をかけてくださいました。……とても嬉しかったのです」
「……なら、声をかけてよかった。少し差し出がましかったかと思っていた」
「そんなことありませんわ」
セリーヌは踊りの流れに身を任せながら、やわらかく微笑んだ。
「そのおかげで、わたくし、この曲が好きになりましたもの」
「……そうか」
ルーカスは短く答え、わずかに視線を逸らした。
セリーヌはそれ以上何も言わなかった。
ただ、流れる曲に合わせて、彼の手に導かれるまま踊り続けた。
◆
夜会の数日後、セリーヌはエリオットの屋敷を訪ねた。
玄関広間に出てきた執事は、セリーヌの顔を見て、わずかに表情を曇らせた。
「……本日も、若様は」
言い終える前から、セリーヌは静かに目を伏せた。
エリオットは不在だった。
隣家の屋敷にいるという。
セリーヌは隣の屋敷へ向かった。
その後ろを、侍女が無言でついていく。
隣の屋敷までは、馬車を使うほどの距離ではなかった。
白い石塀に沿って歩くと、やがて庭へ続く鉄門が見えてくる。
門番はセリーヌの姿を見て慌てたが、名を告げる前に、奥から笑い声が聞こえた。
「ふふっ、エリオット様ったら」
セリーヌは一度だけ、足を止めた。
そして、静かに門の内側へ足を進める。
中庭には白い卓が置かれ、薄紅色の菓子と、茶器が並んでいた。
その席に、エリオット・レイフォード子爵令息がいた。
向かいに座っているのは、クラウディア・ベルクレイン男爵令嬢だった。
クラウディアは楽しげに目を細め、ゆるく首を傾げている。
「嬉しいですわ。昨日に続いて、今日も来てくださるなんて」
「君があれほど頼むからだろう。昔から、君は断られるとは思っていない顔をする」
「だって、エリオット様は断りませんもの」
「少しは遠慮を覚えろ」
エリオットが何かを言いかけた時、クラウディアの視線がこちらを向いた。
「あら……セリーヌ様?」
その声に、エリオットが振り返った。
「セリーヌ……?」
セリーヌは庭の入口に立ったまま、静かに礼をした。
「ごきげんよう、エリオット様。こちらにいらっしゃると聞いて参りました」
「君はいつも唐突だな。来るなら、先に知らせてくれればよかった」
「それは失礼いたしました」
セリーヌの視線が、クラウディアへ向いた。
その途端、エリオットが立ち上がった。
「セリーヌ。またクラウディアにきついことを言うつもりなのか」
「わたくしは、まだ何も申し上げておりません」
「顔に出ているぞ。君はいつも、クラウディアを見る時だけそういう目をするな」
「では申し上げますが、婚約者でもないお相手と二人で過ごすのは、あまり褒められたことではないかと存じます」
「クラウディアとは子供の頃からの付き合いだ。今さら会うなと言われても困る」
「会うなとは申し上げておりません。幼馴染であっても、限度はございますと申し上げているのです」
セリーヌの視線が、ゆっくりとクラウディアへ移った。
「クラウディア様も、不用意にエリオット様をお呼びするのはおやめください」
「……そんなつもりでは」
クラウディアは小さく息を呑んだ。
「ただ、エリオット様とは昔からの付き合いでしたので……つい、甘えてしまって」
セリーヌは答えなかった。
ただ、冷ややかな目でクラウディアを見つめている。
クラウディアはびくりと肩を揺らし、エリオットを見上げた。
「エリオット様、ごめんなさい。わたし、セリーヌ様を怒らせるつもりは……」
「セリーヌ、前にも言っただろう」
エリオットは、クラウディアを庇うように一歩前へ出た。
「クラウディアを責めるな。彼女はただ、私と話していただけだ」
セリーヌは、しばらくエリオットを見つめていた。
何かを言おうとした唇が、静かに閉じられる。
「……そうですか」
セリーヌは一礼した。
「わたくしは、お邪魔のようですね。失礼いたします」
「セリーヌ」
エリオットが呼び止めたが、セリーヌは振り返らなかった。
セリーヌが門へ向かう背後で、クラウディアが頼りなげにエリオットの袖へ指を伸ばすのが見えた。
けれど触れる寸前で、ためらうように手を引いた。
「エリオット様……わたくし、ご迷惑でしたか……?」
「そんなことはないさ」
エリオットは、セリーヌが去っていく方を見たまま答えた。
「君は気にしなくていい」
セリーヌは振り返らないまま、中庭を出た。
屋敷の前に待たせていた馬車へ乗り込むと、セリーヌは短く行き先を告げた。
「グランウェル伯爵家へ」
馬車が進むなか、セリーヌは窓の外へ顔を向けたまま、一度も口を開かなかった。
しばらくして馬車は、グランウェル伯爵家の屋敷に着いた。
突然の訪問にもかかわらず、取り次ぎは丁寧だった。
待たされることもなく、セリーヌは応接間へ通される。
ほどなくして、ルーカスが姿を現した。
「セリーヌ嬢」
「ルーカス様。先日は夜会にお招きくださり、ありがとうございました」
「こちらこそ、来てくれて嬉しかった」
ルーカスは向かいの席へ腰を下ろす。
「今日は、その礼を言いに?」
「……はい」
「それだけには見えないな。また、平気なふりをしている」
セリーヌは、そっと顔を上げた。
潤んだ瞳で、下からルーカスを見上げる。
「……ルーカス様」
ルーカスは一瞬、言葉を失った。
「セリーヌ嬢……?」
「わたくし……もう、どうすればいいかわからなくて……」
ルーカスは何も言わず、胸元からハンカチを取り出した。
それをセリーヌへ差し出す。
セリーヌは震える指先で受け取り、目元へ当てた。
「申し訳ございません……取り乱してしまいまして……」
「気にしなくていい。君がここで泣くほどなら、よほどのことだ」
「……」
「君はいつも、何も言わないな」
「……え?」
「エリオットが隣にいない夜も、誰かに尋ねられた時も、君は笑ってごまかすだけだった。彼を責める言葉も、クラウディア嬢を悪く言う言葉も、私は一度も聞いたことがない」
「……淑女として、当然ですわ」
「その当然を、最後まで守れる者は多くない」
ルーカスは静かに続けた。
「そういう君を、私は好ましいと思っている」
セリーヌは目を見開いた。
こぼれそうな涙が、まつ毛の先で揺れる。
ルーカスは、目を伏せた。
「今の君に、こんなことを告げるべきではなかったかもしれない。いや、本来なら、まず君の家を通すべきなのだろう」
セリーヌはハンカチを握りしめたまま、ルーカスを見つめた。
「しかし、これ以上は静観できない」
「ルーカス様……」
「君が望むなら、私が力になる。グランウェル家としても、私個人としても」
「……よろしいのですか?」
ルーカスは迷わず頷いた。
「君一人で背負う必要はない。まずは、君の家へ正式に話を通そう」
セリーヌは涙の残る目元で、かすかに微笑む。
「……ありがとうございます、ルーカス様」
◆
グランウェル伯爵家を出たあと、馬車の中はしばらく静かだった。
車輪の音だけが、規則正しく響いている。
セリーヌは窓の外を眺めていた。
その横顔には、先ほどまでの頼りなげな色は残っていない。
「お嬢様、おめでとうございます」
セリーヌの向かいに座っていた侍女が、頭を下げた。
「ええ。……でも、思ったより時間がかかったわ」
「ですが、その分、社交界には十分に印象づけられたかと存じます」
セリーヌは満足げに目を細めた。
「わたくし、とても慎ましい婚約者だったでしょう?」
侍女は静かに頷いた。
社交の場で、セリーヌは何も言わなかった。
ただ、微笑んで立っていた。
すると周囲は、勝手に察していった。
ああ、またエリオット様は来ていないのだと。
今日もクラウディア様のところへ行ったのだろうと。
セリーヌ様は、それでも婚約者として礼を尽くしているのだと。
「エリオット様とクラウディア様も、うまく深みにはまられましたね」
「元から、そうなる気配はあったわ。わたくしが少し強めに申し上げただけで、エリオット様は必ずクラウディア様を庇われるのですもの」
「お二人は、実に分かりやすく動いてくださいましたね」
「言い方が悪いわ」
「失礼いたしました。お嬢様は、相手が望む役を与えられただけでございますものね」
セリーヌは否定しなかった。
――そもそも、お嬢様はエリオット様との婚約を望まれていなかった。
縁談が持ち込まれた時、お嬢様が最初に考えたのは、ずっと以前から目を留めておられたルーカス様のことだった。
しかしルーカス様の周囲にはいつも、伯爵家や侯爵家の令嬢、古くから続く名家の娘たちがいた。
男爵家のお嬢様が、その輪に何の理由もなく入り込むのは難しかった。
だからこそ、エリオット様との婚約には使い道があった。
傷つけられても声を荒らげず、婚約者としての礼を失わない令嬢。
そう見えれば、ルーカス様は必ず気づかれる。
あの方は、見過ごせない方なのだから。
「クラウディア様は、素晴らしい講師だったわ」
「あのような方からでも、学べることはあるのですね」
「ええ。あの目の使い方は、とても有効だったわ」
セリーヌは窓の外へ視線を戻す。
「夜会に参加しなかった婚約者。婚約者のいる男性を幾度も呼び出す幼馴染。そして、何も言わずに立っていた令嬢」
その唇に、薄い笑みがのぼった。
「社交界で、今後どう見られるかしら」
侍女は答えなかった。
答える必要はなかった。
足りない真実は、人が勝手に補ってくれる。
馬車は夜の道に消えていった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます!
可哀想な婚約者に見えたでしょうか。
……見えましたわね?(^^)
答える必要はありません。
足りない真実は、人が勝手に補ってくれますから。
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◆軽いネタバレ
視点はずっと、セリーヌではなく侍女でした。
セリーヌの内心を最後まで伏せるための構成のためです。




