第七話 ご褒美
ちょっと忙しいので毎週二話を目安に更新します
午前の光が書斎の床を淡く照らしている。壁一面に地図と紋章図が掛けられ、机の上には羊皮紙とインク壺が並んでいた。俺はその机に突っ伏したまま、ため息をつく。
「……もう十分覚えただろ」
隣でシェリアも同じように頬を机に押しつけている。
「うん……もう頭が痛いわ」
向かいに立つフレディは、杖に体を預けながらこちらを見下ろしていた。腰は深く曲がっているが、視線だけは若者よりも鋭い。
「若様。覚えたかどうかは私が決めます。しゃんとなさってください」
言われてフレディの方に顔だけ向ける。
「では若様。南西ノク領で最も大きな港を持つ街は?」
「アウレシア」
「ではアウレシアを収める家は?」
「あー、セルマティア家だっけ」
フレディが小さく頷く。横目でシェリアがこちらを見る。
「ほら、ちゃんと覚えてるだろ?」
俺は机に顎を乗せたまま言った。
だがフレディは続ける。
「では、そのセルマティア家の紋章は?」
「……魚?」
シェリアが顔を上げて言う。
「えっ、海驢じゃないっけ?」
フレディの杖が床を打つ。
「鯨です」
俺は顔をしかめる。
「魚みたいなもんだろ」
「違います。セルマティア家の紋章は“翼の生えた鯨”。魚だと別の家の紋章になりますな」
壁の紋章図を見ると、確かに鯨に大きな翼が描かれている。俺は小さく舌打ちした。
「そこまで正確に覚える必要あるか?ていうか鯨に翼は生えてないだろ」
フレディは一歩近づき、静かに言った。
「戦場では旗と紋章で敵味方を見分けます。取り違えれば味方を斬ることになります。将来自分の旗の元
に集った諸侯の紋章が分からなければ恥をかきますぞ?」
「アルヴィス領の貴族たちの紋章ならもう覚えたよ……」
「他の領の貴族も同じです。アルヴィス領の貴族だけが戦場にいるわけではありませんからな。」
「分かった、分かった。翼の生えた鯨ね、覚えたよ」
「よろしい」
フレディが満足げに頷く。
シェリアが小声でくすくすと笑う。
「鯨のこと魚って言った」
「うるさい、お前も分かんなかっただろ」
机に突っ伏し直しながら、俺は目を閉じた。退屈だが、フレディが見逃してくれることはなさそうだ。
***
フレディの授業が終わったころには日が真上に上っていた、書斎を出ると、廊下の空気がやけに軽く感じられた。閉じた部屋で紋章を睨み続けていたせいか、窓から差し込む光が妙にまぶしい。
シェリアが大きく伸びをする。
「疲れた……」
「まだ昼だぞ」
「うっ、こうして喋ってる間にも、さっき頭に詰め込まれたものがどろどろ流れ出てる気がする……」
なんだかシェリアの様子がおかしいが、気持ちは分かる。
気付けば、シェリアがこの城に来てから一か月が経っていた。
最初の数日は客のように遠慮がちだったのに、今では使用人に混ざって廊下を走り、厨房に忍び込んでは叱られている。アルヴィス家の空気に、すっかり馴染んでしまった。
西の戦については、父から断片的に聞かされていた。やはり戦が起きたらしい。国境沿いで衝突が続き、しばらくは収まりそうにないという。父に聞いた話ではカイル公は無事なようだ。話を聞いたとき、俺は内心ほっとしたが、シェリアはもっとあっさりしていた。特に心配している様子もない。本当に不安がないのか、それとも信じる以外の選択肢がないのかは分からないが、少なくとも弱い顔は見せない。エレナ夫人も落ち着いている。ただ、時折窓の外を長く見つめていることがある。ドレイス領へ戻りたいのだろう。戦が落ち着けばすぐにでも帰るつもりなのは、言葉にせずとも伝わってきた。
昼食を終えたあと、俺たちは中庭で木剣を振っていた。授業の鬱憤を晴らすように、シェリアが思いきり打ち込んでくる。
「でりゃっ!」
シェリアが真正面から打ち込んでくる。躊躇がない。振りかぶりが大きく、体重がしっかり乗っている。
「ぐっ!」
受け止めた瞬間、腕に重みが走る。シェリアの剣術は俺とチャンバラしているだけなのに日ごとに鋭さを増している気がする。俺は一歩引き、木剣を滑らせて受け流す。彼女の上達速度に追いつくために俺は可能な限り彼女の動きを観察した。足の向き、肩の入り、呼吸。彼女の視線から、次の一撃を予測して半歩ずれると、木剣が空を切る。
「えっ、なんで!?」
「顔に出てるよ」
シェリアの速度に目が慣れてからはうまく予測して受け流せるようになった。激しく打ち合っていると、やがて二人とも息が上がり、石段に腰を下ろした。少し離れた場所で見守っていた従者は、いつの間にか椅子に座ったまま舟を漕いでいる。顎が胸に落ち、完全に眠っていた。
シェリアが俺の袖を引く。
「ねえ、外、見に行かない?」
城の外、という意味だとすぐに分かった。
「勝手に外に出たら、ライサに怒られ……」
言いかけて、思い出す。今日は父の狩りに同行しているはずだ。朝から城にはいない。
シェリアが眠っている従者をちらりと見る。
「今ならバレないわよ」
確かに、今ならばれずに外に出れるだろう。城の外へ出たことはあるが、必ず大人がついていた。自分たちだけで外に出たことなどない。ライサの顔を思い出し、少しだけ迷う。だが、胸の奥にあるのは不安よりも好奇心だった。
「少しだけだぞ」
シェリアの顔がぱっと明るくなる。城門脇には、衛兵が立っていたが、外套を羽織って髪を隠し、従者の子どもたちに紛れれば咎められることはなかった。石壁を抜けた瞬間、城の音が遠のいた。代わりに風と葉擦れの音が耳に満ちる。森の匂い。湿った土の匂い。城の中よりも静かだ。
「ほんとに出ちゃった、冒険ね冒険♪」
「ああ、でもライサが戻ってくる前には帰るぞ」
「うん。ばれたらおやつ抜きにされちゃうかしら?」
ライサに知られれば、おやつ抜きじゃ済まないだろうな。俺たちは森の中の小道を雑談しながら進んでいく。木々の間から差す光が地面にまだら模様を作っている。しばらく歩くと、小さな川が見えてきた。澄んだ水がさらさらと流れている。水面にところどころ魚影が見えている、釣りをする人はいないんだろうか?
「次は釣り竿を持ってこよう」
「釣りやったことあるの?」
「いや俺もやったことないよ、でも、こんだけ魚がいるんだし俺らでもたくさん釣れるんじゃないか?」
「私もやってみたいわ!帰ったらロブに頼んで釣り竿を貸してもらいましょ!」
眼がやけに輝いている。先週ロブが釣ってきた魚の味でも思い出しているんだろう。
俺たちは靴を脱ぎ、浅瀬に足を入れる。まだ少し冷えるが、森を歩いてきて疲れた足を包むひんやりとした感覚が心地いい。足の裏の石の感触がくすぐったい。ふと、平たくてつるつるした、いい形の石を見つけた俺は腕をしならせ、川に向かって水平に放つ。
パシャ、パシャ、パシャ――五回跳ねて対岸に消えた。
シェリアも俺をまねて足元の石を拾って川に向かって投げるが、ドボンと大きく水が跳ねて沈んでしまう。
「むむっ」
「もっと平らな石の方が上手くいくぞ」
俺の助言を聞いてシェリアが石の厳選を始める。ぽいぽいといらない石を放りながら、石を探している。
「ん?これ……」
シェリアが足を止めて、なにかを見つけて固まっている。
「どうした?大丈夫か?」
シェリアの肩越しに足元を見ると、川底に、不自然にまっすぐな影がある。近づくと、それが剣だと分かった。その横に、片方だけの靴。シェリアは剣を拾い上げて「本物……」と剣に感心している。
俺は違和感を感じながらも前に進んで靴を拾い、視線を上げると、草の間に何かが横たわっているのが見える。近づくと腐臭がする。
死体だ。
半身が川に沈み、上半身は岸に投げ出されていた。喉が深く裂かれている、獣の仕業ではなさそうだ。血は岸側の土を黒く染め、まだ完全には乾いていない。鉄の匂いが、遅れて鼻に届く。俺は声が震えないように息を整えながら、シェリアに言う。
「シェリア……誰かが死んでる、一度帰って衛兵に伝えないと」
その瞬間、森の静けさが急に不自然に思えた。鳥の声がない。風の音だけがする。
そして――
がさり。
茂みの奥で、何かが動いた。振り向いた瞬間、低い鼻息が聞こえる。
死体の匂いに引き寄せられたのだろう。黒い塊が茂みを押し分けて姿を現す。巨大な猪だった。
毛は逆立ち、目は血走っている。鼻先を上下させ、こちらと死体を交互に見る。地面を蹄で掻き、湿った土を跳ね上げる。
まずい。
俺は死体の腰に差してあった短剣を抜く。手が濡れている。血か、水か分からない。
「シェリア、俺が引き付けるから城まで走って誰か呼んで来てくれ」
猪が低く唸る。一瞬の静止。次の瞬間、地面を蹴った。
速い。
横へ跳ぶ。同時に逆手に持った短剣を横腹へ突き出す。刃は入ったが、浅い。厚い毛皮と脂肪に阻まれる。衝撃で短剣が弾かれ、手から離れた。とっさに拾おうとするが、踵を返した猪が目の前まで迫る。とっさに腕を盾にしたが、次の瞬間、身体が宙に浮いた。息が抜け、視界が白く弾ける。鈍い衝撃が全身を走る。牙は避けたようで、血は出ていない。だが起き上がる前に影が覆いかぶさる。
「はああっ!」
背後からシェリアの声。
拾った剣で猪の背を斬りつける。刃は肉に食い込むが、ぶ厚い毛皮に防がれ傷は浅い。だが、おかげで猪の意識が逸れる。その隙に転がり、立ち上がる。猪がシェリアへ向き直る。シェリアは迷いなく構えを変えて剣先を猪に向ける。
猪の突進に合わせて、踏み出す。寸分の狂いなく、剣先が猪の目に吸い込まれる。
ぐちゃっ、と嫌な音。
そのまま横へ引く。顔に深い傷が走り、血が噴き出す。猪が絶叫するが、倒れない。狂ったように暴れ、体当たりでシェリアを押し倒す。
「シェリア!」
地面を蹴り、落ちていた短剣を掴む。猪の喉元へ、全力で突き立てる。肉を裂く感触。温かい血が手にかかる。シェリアも、倒れたまま剣を握り直し、猪の腹へ突き刺す。刃が深く入る。その隙にシェリアを猪の下から引っ張り出す。体制を整えた俺たちは猪の様子を伺うが、かなりの深手を負わせたにもかかわらず猪は短剣と直剣を刺されたまま、なおもこちらへ迫ろうとする。
正気じゃない。
「走れるか!?」
「いける!」
同時に駆け出す。一歩、二歩。三歩目で、足が崩れた。右足に力が入らず、地面に倒れ込む。足が、変な方向に曲がっている。自分の足の状況を見て、遅れて痛みと恐怖が押し寄せる。
折れている。さっきの突進を受け止めた時か。
「リオン!」
俺が倒れたことに気付いたシェリアが戻る。
「……っ」
一人で逃げろ――そう言うべきだ。
分かっている。
だが息が浅い。喉が震える。
「逃げろ」と形になりかけた言葉が、恐怖に押し潰される。
俺は、死にたくなかった。
背後で猪が呻く。血を撒き散らしながら、こちらを追おうとしている。
俺を支えようとするシェリアの手を、思わず払いのける。
「置いてくわけないでしょっ!」
シェリアは構わず、俺の腕を引く。だが二人では逃げ切れない。情けなさが胸を焼く。痛みで鈍る頭で必死に考えた言葉を喉から絞り出す。
「やめろ、追いつかれる。城まで走って、大人を呼べっ。少しの間なら耐えられるっ」
猪が再び地面を蹴る音がする。……ああ。
やはりライサの言うことを聞いておけば良かった。
その瞬間――
空気が裂けた。上空からものすごい速さで白い影が落ちる。巨大な翼が風を巻き起こす。
ハクレイだった。
鋭い爪が猪の首元に食い込み、――骨が砕ける音が森に響く。猪は短い悲鳴を上げ、そのまま動かなくなった。
静寂。
白い翼がゆっくりと畳まれる。
ハクレイは俺たちをじっと見た。そして、わずかに胸を張る。
「どうだ」と言わんばかりだ。
俺と目が合うと、くい、と顎を上げる。
……ご褒美をねだっている。足元に山ほど肉があるだろうに。
次の瞬間には興味を失ったように猪へ向き直り、悠々と肉を引きちぎり始めた。どうやら、散歩のついでに助けただけらしい。俺は荒い息のまま空を仰ぐ。
今度飛び切り上等な羊を用意してやらないとな。
毎週二話を目安に更新します。




