第五話 泥
翌日。
同じ中庭。
だが景色は昨日と違っていた。
夜の間に雪が降ったらしく、地面はしっとりと濡れている。
カイル公が剣を肩に担いだまま立っていた。
「昨日言った通り、今日は模擬戦だ。好きなタイミングでかかってこい」
本当にやるのか。
剣での実戦など見たこともない。昨日覚えた型だけでどうにかなる相手ではないのは分かっている。
「どうした?はやくかかってこい、昼までに俺に剣を当てられたらお前の勝ちだ。俺に勝てたらそうだな……ご褒美にうちの鍛冶師にお前用の剣を作らせよう。」
口の端がわずかに上がる。覚悟を決め、一歩踏み出し、昨日の動きを再現する。鋭く脇を狙って振る。自分でも驚くほど素早い一振りだった。だが当然のように受け流され、体勢が崩れる。
無理やり体をひねって二撃目。しかし、空を切る。
幾度となく切りかかるが、俺の剣がカイルに触れることはなくあっけなく避けられる。不意を突いたつもりの一突きも軽く弾かれ、地面に転がる。
息が荒い。泥が頬に付く。まるで通用せず、これでは壁に切りつけるのと変わらない。昨日覚えた型だけでは単調すぎる。このまま昼までやってもカイルに届くことはないだろう。
湿った地面に手をつき、立ち上がる。剣先を地面に下ろし、片手で構え、体の側面を向ける。カイルから見て剣が隠れるように。剣を引きずったまま、勢いよく踏み出す。剣を下から振り上げるような動作で土を掬い上げて飛ばした。
湿った土が舞う。
くそ、片手だから思ったように飛ばなかった。
だが、カイルは反応した。土が服に着くことを避けるように体を横へ流す。その瞬間――カイルの左足が浮いた。迷わず、刃を振り下ろす。
再び、金属音が弾ける。
これも受け止められる。だが、止まらない。左手に握っていた土を、魔力で生み出した水で泥に変え、ぐしゃりと顔へ叩きつける。
カイルは少し驚いた顔しながらも、目を狙った泥は、寸前で腕で防いでいた。だがその瞬間。俺は懐へ飛び込み、左腰を狙って剣を振る。カイルの右手が動くが、俺の想定通り寸前で止まる。この距離で剣を振れば、突っ込んでくる俺に剣が当たる可能性が高かった。カイルは剣を手放し、体をひねりながら空いた右手で俺の剣を掴む。同時に俺は、勢いそのままカイルの皮鎧に顔からぶつかった。
「っ……!」
目尻に涙が浮かび、尻もちをつく。
「おい! 大丈夫か⁉」
カイルがしゃがみ込んで、俺の顔を覗き込む。
「鼻血だな……折れてはいない。ん?」
俺は右手の剣で、カイルの太ももをぺちぺち、と叩いていた。
「ずびっ……まだ、参ったって言ってないです。約束通り、剣、作ってください。あと……服、汚してごめんなさい。」
カイルが小さく笑う。
「何を言っている。もう俺の右手に一発当てているだろう?約束通り剣は作ってやるさ」
「さっきのは受け止められてました」
「真剣だったら俺の手が切れていた、それに危なかったら俺が止めると分かっていて、俺の剣が当たるかもしれない距離まで踏み込んだんだろう?模擬戦の条件を利用した。良い手だった」
口を尖らせる。
「かっこ悪いですよ。あんなの剣術じゃない」
「気にするな。負けていれば俺に向かって泥を投げたただのクソガキだったが、勝ったんだからな。実戦では卑怯だと文句を言われる前に、首をはねてしまえば関係ない」
どうやら、泥をかけたこと自体には怒っていないらしい。
「俺らは剣士である前に兵士だ。兵士の仕事は命令に従い敵を殺すことだ。王の命を受け、王国の敵を殺すのが俺の仕事だ。手段に文句を言う者はいない」
「……剣聖なのに?」
カイルは俺の頭に手を置く。
「夢を壊すようで悪いが、そんな称号を信じるな。俺が直接斬った敵より、俺の命令で死んだ敵の方がはるかに多い」
視線が遠くなる。
「戦で物を言うのは高潔さでも率いる者の武勇でもない。兵の質と数だ。剣が上手ければ従う者の尊敬を集められる。だが信頼は勝たなければ得られない。兵にとって"良い指揮官"になろうとはするなよ、真の意味で兵にとって"良い指揮官"などいない。支配者側は勝つためなら何でもする、だが、それが俺たちの役割だ。お前もいずれ、アルヴィス領の領主たちを率いる立場になるだろう。覚えておけ」
そう言って踵を返す。
「少し早いが今日は終わりだ。俺も顔についた泥を洗い流したい」
俺は立ち上がりながら、カイルの言葉を反芻し、胸の奥の感情を整理する。領主として軍を率い兵の信頼を集め、王の命に従い敵を殺すカイルを想像し憧れと少しの恐怖を抱いた。だがそれ以上に、カイルの言葉に不安を覚える自分がいた。
俺は兵ではなく支配者側から見て"良い指揮官"になれるだろうか?
***
その夜。
ガルディア城の奥、石造りの小部屋。
炉に火が入り、赤い光が揺れている。
「蔵から、とっておきのワインを開ける。付き合え」
ローエンがそう言ったとき、俺は断らなかった。
出立前の夜だ。飲まぬ理由もない。グラスに注がれた赤が揺れる。
先に口を開いたのはローエンだった。
「どうだ、リオンの調子は?」
……聞きたいことはそれか。
「悪くない」
一口飲む。
「剣の天才とは言えん。だが賢い。よく見て、よく学ぶ。何より、度胸がある」
泥まみれで突っ込んできた顔が脳裏をよぎる。
「剣だけでなく、色々教えてやれ。あの子はきっと良い領主になる」
少し間を置き、付け加える。
「安心して、シェリアも任せられる」
ローエンが笑った。
「お前がそこまで言うとはな。ただのいたずら小僧ではなさそうで安心した」
……いたずら小僧か。指南役の顔面に泥を投げつけるやつが、果たしてその範疇に収まるかは疑問だが。
「ああ、それとな」
グラスを置く。
「お前の息子、多分魔法を使っていた」
ローエンの指が止まる。
「……確かか?」
知らなかったのか。
いや――確認を取るということは、疑ってはいたな。
「確信とまではいかん」
淡々と言う。
「模擬戦中リオンが泥を飛ばしてきてな一回目は剣で、二回目は手から投げていた。最初の一回と二回目で泥の水分量に差がありすぎた。中庭の土は、あそこまで水気を含んだ泥になるほどぬかるんでいなかったからな、おそらく二回目は投げる直前に水を加えている」
ローエンは黙っている。
「俺も魔法について詳しいわけではないからな、なぜリオンが王族でもないのに魔法を使えるのかは分からんが」
アリシアはルナリス家の血だ。銀髪が出ても不思議ではない。
リオンはローエンによく似ている。
……不義理を疑う気はない。先祖返り、か。
「以前、王都で魔術師が魔術刻印を手のひらに刻み、水を出して魔法使いを騙った事件があっただろう。両腕を落とされたあれだ」
ローエンの眉がわずかに動く。
「リオンの手には細工はなかった」
沈黙。
「……それで?」
ローエンの声は低い。
俺はワインを飲み干す。
「もし本当にリオンが魔法を使えるなら――王位を要求する正統性が生まれる」
空気が変わる。
「三百年前からの言い伝えを忘れたか?この王国では、最も優れた魔法使いが王に選ばれる」
ゆっくりと続ける。
「今この王国で、魔法を扱える者は俺の知る限り他にいない。たとえコップ一杯の水を生み出すことしかできないとしても、他に魔法使いがいないならリオンが王だ。」
「おとぎ話を信じる年か?そんな言い伝えが今まで守られてきているのなら、最後の魔法使いが死んだときにゼノス家の支配は終わっているはずだ。だが、現実は違う。諸侯はすでに魔法に従っているのではなく、ゼノス家という一族そのものに従っている。もしリオンが魔法を使えると知られれば、王都で待っているのは玉座ではなく……王家による謀殺だ」
確かにその通りだ。今の王族が言い伝えを守ってリオンに玉座を渡すわけがない。だが領地を完全に掌握した今俺たちドレイス家とアルヴィス家が手を組めば、今の王家の意向など気にする必要がないとお前も気づいているだろう?
「口外する気はない」
俺は言葉を選ぶ。
「13年前、騎士院の寮でお前が語った夢を覚えている」
ローエンの視線が鋭くなる。
「マリク王は長くない。王が死ねば、今の王太子では国が割れるだろうな」
炉の火が弾ける。
「リオンは俺たち北部の希望になり得る。北部の支持者も、戦える軍も、正統性もある」
静かに言う。
「もう何も知らない子供ではない。行動に移せる時だろう、ローエン」
長い沈黙。
やがてローエンが低く言った。
「……時間をくれ」
俺は立ち上がる。
「出立までには答えを出せ」
部屋を出て、石の廊下を歩きながら、ふと思う。
なにをためらう、ローエン。
俺とお前が組めば、現王朝を倒せると――
あの頃、語り合った夢は、まだお前の中にも残っているだろう。
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