第二話 遊び相手
六歳になった。
退屈だ。
赤子の頃は、もっと曖昧だった。暗くて暖かい水の中に浮かんでいるような感覚と、外気に触れた瞬間の鋭い冷たさ。思考だけがはっきりしていて、身体がそれについてこないような奇妙な“ずれ”が確かにあった。
だが今は違う。
いつからか、その違和感は消えていた。かつてはどこか俯瞰して世界を見ていた気がするのに、今は怒れば腹が立ち、嬉しければ素直に胸が弾む。五歳の身体は、五歳の感情を連れてくるらしい。自分の精神がこの幼い肉体に引っ張られているのだと、ようやく理解した。
赤子にしては思考がはっきりしすぎているのではないかと疑った時期もあったが、その疑問も気づけば霧のように消えていた。俺は俺だ。それでいい。
退屈なのは変わらないが。
三歳の終わりには文字を覚えた。今では書庫の棚に並ぶ歴史書や地理書を読み漁っている。この世界には三つの大陸があり、中央を支配しているのが三百年前に興ったゼノス王朝であることも知った。それ以前、この地は無数の小国家が争う戦乱の時代だった。
ゼノス家は魔法を持っていた。王族の血縁のみが扱える、理屈を超えた力。炎や氷、雷を自在に操り、諸侯を圧倒して王朝を築いたと記されている。
民衆の多くは、もはやその侵略の記憶を忘れている。王都では王家はただの栄光の象徴だ。だが三百年前から続く家々――アルヴィス家のような古い貴族にとっては違う。魔法への恐れと、侵略者への警戒は完全には消えていない。
それなのに、母は王族に近い血を引いている。
ルナリス家の末娘。王の従弟筋にあたる家系だと使用人たちは噂していた。ゼノスの血は銀髪を生むという。母の髪は雪のように白い銀で、俺の髪は灰色がかった銀だ。
祖父母も銀なのだろうか。ゼノスの遺伝がそれほど強いのか。それとも王家やルナリス家は血を濃く保つために近親婚を重ねてきたのか。本はそこまで教えてくれない。
妹は三歳で、弟は生まれたばかりだ。弟が愛人の子であることは誰も明言しないが、夜に聞いた母と父の言い争いが答えのようなものだった。長男である俺は何も知らない顔をしている。
ライサは優しい。いつも俺の世話を焼き、外へ出たいと頼んだときには泣きそうな顔で止めた。何かあれば自分が叱られるのだと懇願されては、無理を言えなかった。教育係のフレディ爺さんは厳しいが、本ばかり読んでいると庭へ連れ出して歩かせる。ロブ叔父さんはいつも酒臭いが、機嫌が良ければ剣と弓を見せてくれる。
大人に構ってもらえないわけではない。
だが同年代はいない。
城の塀の外では、従者や住民の子どもたちが泥だらけになって走り回っている。その笑い声が風に乗って届くたび、胸の奥がひりつく。
だから今日も、部屋で訓練をする。
尿瓶の上で。
空中に冷気を生み出し、四羽の氷の鳥を形作る。羽の一枚一枚まで削り出すように整え、空中で旋回させる。そして炎で一瞬にして蒸発させる。
最初は失敗した。蒸発しきれずに水滴が落ち、ベッドを濡らしたこともある。おねしょだと自己申告したときの侍女たちの微妙な沈黙は忘れられない。
今は違う。水滴が落ちる前に完全に蒸発させられる。魔力が増えているのかどうかは分からない。増える感覚も減る感覚もない。ただ、確実に扱いは上達している。四羽同時に操作できるようになった自分に、わずかな満足を覚える。
そのとき、扉がノックされた。
「坊ちゃま、失礼いたします」
ライサの声に、反射的に操作を手放す。四羽の氷鳥がそのまま尿瓶の中へ落ちた。
コロンと硬い音が鳴る。
扉が開き、ライサが首を傾げた。
「……今、何か音が?」
「何のこと?」
即座に答える。ライサは部屋を見回すが、ベッドも床も何も落ちていないのを確認すると、少し不思議そうな顔をしただけでそれ以上は追及しなかった。
助かった。
着替えを済ませて中庭へ向かうと、使用人たちが慌ただしく動き回っていた。相当に高貴な客らしい。
やがて門が開き、先頭の馬上にいる金髪の男が父に声をかける。
「この城に来るのは久方ぶりだな」
旧知の仲らしく、二人は笑い合った。剣の紋章が描かれた馬車から夫人と金髪の髪を後ろで束ねた女の子が降りてくる。ドレイス家。父が王都の学園にいたころから親しい家だと聞いている。
夫人の後ろに隠れながら、こちらをうかがう少女。その両手には二本の木刀が握られていた。
目が合う。
胸が跳ねる。
五歳の心臓は正直だ。
同年代の子ども。遊び相手だ。
城の内側に、ようやく同じ高さの風が吹き込もうとしていた。




