第一話 炎のゆりかご
暗いのに、怖くない。ぬるい水の中を漂っているような心地で、体の輪郭が溶けていく。何かに包まれ、守られている感覚だけが確かだった。遠くで声が響く。言葉ではなく、波のような音だ。聞いているうちに安心して、意識はふたたび沈んでいく。
その世界が、突然ひっくり返った。
押し潰されるような圧迫が全身を貫き、次の瞬間、冷たい空気が肺に流れ込む。痛い。眩しい。喉が勝手に震えて、声が飛び出した。泣いているのが自分だと理解するより先に、体が生きるために動いていた。
光の向こうで銀色が揺れた。柔らかな匂い。熱。誰かが俺を抱き上げ、胸に押し当てる。鼓動が近い。音が近い。冷たさは薄れ、また温かい場所へ戻ったような錯覚がした。世界はぼやけているのに、その鼓動だけは妙に鮮明で、そこにしがみつけば大丈夫だと本能が告げていた。
そこから先の時間は、長い霧の中だった。眠りと空腹と泣き声でできた日々。視界は白く霞み、手足は思うように動かない。それでも意識は少しずつ澄んでいき、音の海に規則があると気づき始めた。
繰り返される響きがある。
「リオン」
最初はただの音だった。けれど呼ばれるたび、抱き上げられる。撫でられる。笑い声が返ってくる。そうしてようやく、その音が自分の事を呼んでいるのだと理解した。俺は、リオン。少なくともこの世界ではそう呼ばれているようだ。
二歳を過ぎたころ、この身体にも慣れてきた。俺が何者だったのかは分からないが、今は皆が喋る言語を覚えることに夢中だ。よく使われる言葉や言い回しは、ほとんど聞き取れるようになっていた。難しい話はまだ霧の向こうだが、日常の会話なら意味が追える。赤子の時間は、思った以上に残酷で、そして単調だったぶん、言葉が分かるようになるだけで世界が急に広がる。人が何を望み、何を怒り、何を隠すのか――輪郭のない音だったものが、意志に変わっていく。
銀の髪を揺らして微笑む女性は、アリシアと呼ばれていた。俺の母親だ。抱かれるときの匂い、体温、声の柔らかさ――そういうものが先に「母」を定義し、遅れて名前がついてきた。
穏やかな低い声で語りかける男が父、ローエン。言葉が分かるようになるにつれ、父の声には余計な装飾がないと感じるようになった。必要なことだけを短く言い、視線だけで周囲を動かす。抱き上げられる回数は母より少ないが、その腕は硬く、鎧のように安心できた。
使用人たちの存在にも気づく。俺が泣けば誰かが走り、転べば手が伸びる。扉は静かに開き、食事はいつの間にか用意され、風呂の湯は温度まで整っている。最初は当たり前だと思ったが、言葉が増えるにつれて、それが当たり前ではないと理解できるようになった。彼らは家族ではない。だが家族よりも近く、俺の生活を回している。
ここはアルヴィス家の城――フェル城。北東部一帯のグレイガル地方を治める家だ。そういう固有名詞も、二歳を過ぎてからじわじわと腹に落ちてきた。廊下は広く、壁は厚く、窓の外には石の城壁が幾重にも連なる。高いところでは風の音がずっと鳴っている。フェル城は、風の城だ。夜、窓枠が微かに鳴ると、遠い場所で刃がこすれるような音に聞こえる。
政治の話までは分からない。だが、自分が「特別な立場」にいることは否応なく分かる。使用人は誰も俺を名前で呼び捨てにしない。食事の席では俺の前に一番柔らかいパンが置かれ、父が席を立つときは必ず「坊ちゃま」と声がかかる。俺が走れば、笑いながらも使用人は先回りして角を塞ぐ。守られている。つまり、守られる価値があると見なされている。
言葉を覚えるのは楽しい。世界の名前が増える。ものの名前、感情の名前、約束の名前。けれど、言葉が増えれば増えるほど、分からない言葉の「重さ」も感じるようになった。大人たちが口にするときだけ声が低くなる単語。冗談めかして言っても、すぐに笑いが消える単語。そのひとつが、魔法だった。
ある日、母が暖炉の前で立ち止まった。薪は湿っているらしく、火がつかない。近くに使用人はおらず、母は肩の力を抜いて小さく息を吐いた。次の瞬間、何もない空間から炎が灯る。呪文も、道具もない。ただ指先の動きと、呼吸ひとつで。炎は小さく、しかし確かな熱を持って揺れていた。
俺は目を見開いた。驚きというより、理解の遅れだ。今見たものが現実だと認めるまでに一拍かかった。母はそのまま薪を整え、火を育て、何事もなかったかのように部屋を温めてしまう。
――これが魔法か?魔法を使うところは初めて見た
その瞬間、俺は勘違いをした。母にとって当たり前なら、きっとこの家では当たり前なのだろう。いつか自分も教えてもらえる。そんなふうに、勝手に納得した。言葉が分かるようになっても、世界の常識まではまだ分かっていなかった。
午後、揺りかごでまどろむ。風の音が遠くで鳴り、誰かの足音が廊下を横切る。母が見せた炎の残像が瞼の裏に浮かび、熱の揺らぎだけが胸の奥に残る。俺はそれを思い出していた。再現したいわけではない。理解したいだけだ。どうして何もないところから火が生まれたのか。あれは、どうやって起こしたのか。
気づけば、手のひらが熱かった。
小さな痛みのような、むず痒さのような感覚が掌の中心に集まっていく。慌てて手を振るが、体はまだ思うように動かない。熱は止まらず、胸の奥で何かが弾けた。
世界が赤く染まった。
揺りかごの布が燃えている。炎が布を舐め、煙が立ち上る。熱が頬を叩き、息が詰まる。恐怖が遅れてやってきた。俺は叫ぼうとしたが、うまく声が出ない。代わりに涙が溢れ、喉がひくついた。
近くにいた使用人のライサが悲鳴を上げた。
「坊ちゃま!」
彼女は迷いなく俺を抱き上げ、同時に廊下へ向けて声を張り上げる。足音が雪崩のように近づき、誰かが水桶を引きずってくる音がする。次の瞬間、冷たい水が火を叩き、白い蒸気が立った。炎はすぐに消えた。消えたのに、焦げた匂いだけが部屋に残る。咳き込む声。叱責。確認の声。誰かが俺の顔を覗き込み、どこにも火傷がないことを確かめて、ようやく息を吐く。
騒ぎは城中に広がった。
父が駆け込んできた。ローエンの顔から血の気が引いているのを、俺は初めて見た気がする。彼の視線は、焦げ跡から揺りかご、床に散った布片、そして俺へと移る。怒りではない。恐怖でもない。もっと冷たい、判断の目だ。
「火を使ったのは誰だ、まさか赤子が魔道具を使ったわけでもあるまい?」
低い声が落ちる。誰も答えない。答えられない。
ライサが口を開こうとして、言葉を飲み込む。使用人たちが互いに視線を交わし、母の方を一瞬だけ見る。そして視線を逸らす。母は黙って立っていた。表情は崩れていないのに、指先だけが微かに震えている。
その沈黙が、俺に答えをくれた。
あれは俺だ。
何もないところから火が生まれた。母が暖炉に灯した火と、同じ種類の現象。だが、この部屋の空気は母のときとまるで違う。焦り、緊張、疑念――「あってはいけないことが起きた」空気だ。
その瞬間、俺はようやく理解した。母が起こした火も、俺の起こした火も、特別なものなのだ。母が気を抜いて使っただけで、見られたらまずい類のもの。
父の視線が母へ向く。ほんの一瞬。だがその一瞬に、言葉にならない重さが詰まっていた。母は何も言わない。否定もせず、肯定もしない。ただ沈黙で、場を凍らせる。
父は息を整え、声を落とした。
「……この件は、口外するな」
命令だった。使用人たちが一斉に頭を下げる。だが、遅い。城は生き物だ。口を塞いでも、噂は空気の隙間から漏れる。俺にも、それが分かった。俺の世界はまだ小さいが、この騒ぎが普通ではないということくらいは理解できる。
こうして俺は魔法が俺にあるべきではないものなのだと理解した。
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