命焔の夢
空は灰色に焦げ、風は鉄の匂いを運んでいた。
港町レドニアの外れ、小さな浜辺で、カイは膝をつき海を見ていた。
腕には淡い赤光を帯びた鎖紋──命焔の封印が巻きついている。
この紋が外れれば、内に宿る焔は牙を剥き、制御できぬ力と引き換えに寿命を削り取る。
命焔の持ち主は、長く生きられない。
この世界では「使い物にならない危険な命」として、幼い頃に間引かれるのが常だ。
カイが生き延びたのは、たった一人の師匠に拾われたからだ。
──師匠は、カイに三つの「夢」を残した。
1つ目、無人島の大砂嵐を越える。
2つ目、命を削る者を牢獄から救い出す。
3つ目、天空島へ到達する。
七歳の冬、焚き火の前で師匠は言った。
「カイ。夢ってのは、叶えられねぇから夢じゃねぇ。叶えてこそだ。俺が守れなかった奴ら、叶えられなかった夢の分まで、生きろ」
その夜、師匠は自らの命と引き換えに、カイの命焔に封印を施した。
「これで暴走は抑えられる……が、鎖を外せば命は燃える。よく選べ」
最後の笑顔と共に、その背は二度と戻らなかった。
「おいカイ! 舟の準備できたぞ!」
声をかけてきたのは、黒髪の女、ミラ。影を操る稀少な能力者で、かつては暗殺者だった。
その後ろには、無能力ながら剣と戦術に長けたグランが腕を組んで立っている。
「今日は《グランヴェル》だな」グランが低く言う。
「師匠の二つ目の夢を叶える日だ」カイは紙片を握り締めた。
囚われているのは、命糸の使い手フィノ。命糸は対象の命をつなぐが、その代償は自らの寿命。
世間にとっては利用価値を搾り尽くされた後に処分される存在だ。
師匠はかつて、同じ命糸の少女を救えなかった。その後悔を、カイは知っている。
だからこそ、この救出は師匠の夢であり、カイ自身の使命でもあった。
《グランヴェル》は海に浮かぶ黒鉄の要塞。昼でも光を吸い、夜は闇と一体化する。
舟を東側の入り江に滑り込ませる。潮は速く、渦を巻いていた。
「俺が先に行く」グランが壁を見上げる。
石壁の継ぎ目を獣のように登り、兵の死角を突く。上から松明の影が揺れた瞬間、ミラの影が兵を縫い、動きを止めた。
「今だ」カイは壁を駆け上がる。封印は開けない。炎の光は目立ちすぎるからだ。
三人は息を殺し、城壁を越えた。
石造りの回廊は湿り気と鉄の匂いで満ちていた。兵士二人一組の見張りを、グランが無音で気絶させ、ミラが影で道を封じる。
地下牢の奥、鉄格子の中にフィノはいた。
白髪の少女。痩せてはいるが、その瞳は鋭く生きていた。
足元には血を吐き眠る兵士。
「肺が潰れてたから……命糸で繋いだの」フィノが笑う。「たぶん、あとで私が死ぬ」
カイは目を見開いた。同じだ──命を削って誰かを救う生き方。
「行こう、フィノ。外に出れば生きられる」
「……隊長がいる。勝てない」
階段を上がった瞬間、空気が変わった。
影が覆いかぶさるように広がり、視界の先に鋼鉄の巨体が立ち塞がっていた。
漆黒の兜から覗く眼光が、まるで刃のようにカイの胸を射抜く。
「命焔持ち……貴様か」
低く響く声は、地下全体を震わせる。隊長は背から大剣を引き抜いた。その動きだけで金属が悲鳴を上げ、刃は雷鳴のような衝撃音を放った。
「ミラ、フィノを連れて行け!」
カイは封印の鎖を一つ外した。金具が外れる乾いた音と同時に、赤い焔が皮膚の下を奔り、血管を灼く。足元の石床が熱に軋み、髪先が焦げる匂いが鼻をつく。
隊長が踏み込む。鉄靴が床を砕き、衝撃波が肺を揺らす。
カイは拳を構え、真正面から迎え撃った。
剣と拳がぶつかった瞬間、世界が閃光に包まれる。火花が四方に散り、耳を裂く金属音と衝撃が骨に響く。
同時に──チチチチッ……と、寿命を削る針音が耳奥を叩き始めた。
一撃、二撃──音は加速し、心臓の鼓動すら追い越す。
「足りねぇ……!」
カイは二つ目の鎖を外した。鎖が床に落ちる音は、まるで死刑の鐘のようだった。
瞬間、炎が爆発的に広がる。足元の石が赤く染まり、壁に影が揺れ狂う。隊長の甲冑が熱で膨張し、金属が不気味な唸りを上げた。関節部の鋲が次々に飛び、焦げた匂いが漂う。
だが同時に、カイの呼吸は荒くなり、膝がわずかに震え始める。
全身を駆け巡るのは力ではなく、寿命が燃え尽きていく感覚だった。
皮膚の下で命そのものが裂け、焔の餌となって消えていく。
──あと数合、このまま続ければ、俺は……。
そう感じると同時に、隊長の大剣が横薙ぎに走った。空気が裂け、壁の石が粉砕される。
カイは全身を捻って回避し、その勢いのまま焔を纏った拳を突き出した。
甲冑と拳が正面から激突──鈍い衝撃音と共に、衝撃波が回廊を吹き抜ける。
耳がキンと鳴り、視界が揺らぐ。焔の熱が周囲の空気を歪め、兵士たちの松明の炎が一斉にしぼむ。
隊長は怯まず、逆手で大剣を振り下ろす。刃の縁から放たれる衝撃が、まるで雷を食らったようにカイの腕を痺れさせた。
全身の筋肉が悲鳴を上げる。それでも、踏み込む足を止めなかった。
──これで決める。
カイは三歩分の助走を取り、残った力を全て焔に注ぎ込む。
足元の石が弾け飛び、背後に赤い尾を引く軌跡が生まれる。
「うおおおおおっ!」
隊長も咆哮し、大剣を正面に構える。鋼と焔が正面からぶつかり合い、世界が白く閃光に包まれた。
瞬間、隊長が遠くへ吹き飛び、鎧が瓦礫の山に沈む。
しかし勝利の実感より先に、全身を焦がす熱が襲ってきた。
──視界が赤く染まっていく。
石床は溶け、空気が鉄のような匂いを放つ。
自分の心臓の鼓動すら聞こえない。ただ、命焔が燃え上がる轟音だけが世界を満たしていた。
『開ききったら戻れねぇぞ』──師匠の声が、あの夜の焚き火の向こうから響く。
分かっている。分かっているのに、焔は鎖を引き千切ろうとしている。
もう一歩、もう一瞬でも気を抜けば、この力が自分を喰い尽くす。
「カイ!」
足首を絡める冷たい影。ミラの力だ。
「まだ戻れる!」
次の瞬間、腕に触れる柔らかな糸。フィノの命糸が、燃え盛る熱を押し戻してくる。
その感触は、不思議なほど冷たく、そして温かかった。
燃え尽きようとしていた魂に、ほんのわずか、生きようとする感覚を取り戻させる。
奥歯を噛み、鎖を強く引き寄せる。
──カチリ。
重く鈍い金属音が響き、封印が元の位置に収まった。
途端に、全身の力が抜ける。息が荒く、視界は揺れ、指先が震える。
恐怖が遅れて押し寄せた。ほんの一瞬でも遅ければ、仲間を、自分を、この夢をすべて灰にしていたかもしれない。
「……助かった」
言葉は息と共にこぼれ落ちる。
「助けたのは私の寿命よ」フィノが笑う。その瞳は、自分と同じ諦めと闘ってきた者の色をしていた。
「だからおあいこ」
隊長が瓦礫の中で呻く声を背に、三人とフィノは東門へ走った。
グランが先頭に立ち、大剣を奪った兵を一閃で薙ぐ。ミラの影が壁を這い、追手の足を絡め取る。
「急げ、夜明けまでに港へ出る!」
石畳を蹴る足音が、闇の中に反響する。
振り返れば、要塞の内部から警鐘の音が広がり、赤い光が夜空を切り裂いていた。
港の外れに停めた小舟まで、あと百歩──
「来るぞ!」グランが叫び、横道から飛び出した兵を盾ごと弾き飛ばす。
ミラが影で船縁を掴み、フィノを先に乗せた。
櫂を漕ぐたび、潮が冷たく頬を打つ。
要塞の輪郭が遠ざかり、水平線の向こうから淡い光が滲み始めた。
カイは胸の奥でまだくすぶる焔を感じながら、師匠の夢の紙片を取り出す。
二つ目──命を削る者を牢獄から救う──に静かに線を引く。
「次は天空島か」
「馬鹿言え、さっき死にかけたばかりだろ」グランが鼻で笑う。
「生きるために行くんだよ」カイは笑って答える。
隣でフィノが海風を浴びながら、そっと呟く。
「……あんた、本当に変な奴」
「そうか?」
「うん。でも、その変さ……嫌いじゃないけど」
夜が明け、太陽が海を黄金色に染めていく。
命焔の封印は脈を打ち、寿命の減りを告げていた。
それでも、カイは迷わなかった。
──仲間と共に、師匠の夢を叶えるため、今日も生きる。