かわいさ余って憎さ∞
「健斗くん、もう閉校の時間なんだけど……」
塾の先生に言われ、天利健斗は帰り支度を始める。現在時刻は夜の11時30分。
本来ならこの学習塾の営業時間は11時までなのだが、勉強熱心な健斗に免じて先生が30分伸ばしてくれているのだ。
「でもほんと、健斗くんは頑張ってるよね。志望してるのも難関大学だし」
「……別にそんなんじゃないですよ。俺はただ家に帰りたくないだけなんです」
「あら?何かご家族と上手くいってないの?」
「ええ。まあ、家族っていうよりも主に”義妹”と、なんですけどね……」
そう言いながら、健斗は天利仁香の姿を思い浮かべた。
約一年前、シングルマザーだった母親が突然の再婚発表。しかも、その相手は子連れであり、健斗は17歳にして初めての妹を持つ形となってしまった。
「ああ。健斗くんのお母さま、再婚なさったのよね。その妹さんっておいくつくらいなの?」
「僕より二つ下で、今16歳の高校一年生です。同じ学校に通ってます」
「そう……確かに、そのくらいの年頃の女の子って難しいわよね。何だかいつもツンケンしてるし」
「いや、まあ。ツンケンしてるってよりかは、いろんな意味で面倒くさいっていうか……。とにかく、あんまりアイツと一緒に居たくないんです」
妹さんとのこと大変だろうけど、勉強も頑張って!と、先生は健斗の背中を軽く叩いた。
筆記用具やテキストですっかり重くなったリュックを背負うと、先生に向かって一礼し、健斗は学習塾を後にした。
(今日はもうアイツが寝ていますように……。うっかり鉢合わせしませんように……)
帰宅してから妹と顔を合わせないで済むよう、健斗は帰りの電車の中で必死に祈っていた。
だが、それが無駄な祈りであったことは玄関のドアを開ければすぐに分かった。
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「おっかえりー!お兄ちゃん!」
健斗が家に足を踏み入れてすぐ、無邪気な笑顔を浮かべて彼を出迎えたのは妹の仁香だった。今日はやや肌寒いせいか、薄手の部屋着にカーディガンを羽織っている。
モデルのような常人離れしたスタイルの良さに、やや緑がかった大きな瞳が特徴的なベビーフェイス。仁香は誰がどう見ても間違いなく、”美少女”と形容するような完璧なルックスを持っていた。
そんな仁香がとびっきりの笑顔と可愛らしい声でお出迎え。普通なら健斗は、間違いなく世界一幸せな兄であるはずだが。
「お前、まだ起きてたのかよ。父さんに叱られるんじゃないか」
「大丈夫!お父さんはもう酔って寝ちゃったから!ね、お母さん?」
仁香は赤いリボンで束ねたサイドテールを揺らしながら、リビングで健斗の帰りを待っていた母に同意を求める。
健斗の実母つまり仁香にとっては義母にあたる朱美は、その様子に軽く微笑んでみせた。
「そうね。お父さんが起きてたら、早く寝なさい!って怒ってたでしょうね。でも、明日も学校あるんだから仁香ちゃんもいい加減寝なきゃだめよ?」
「……うん、そうだよね。だって夜更かしは美容の大敵だもん。お兄ちゃんのためにいつまでも可愛い仁香でいないとね!」
「あらあら」
ふんふふん♪と、仁香は鼻歌を歌いながら二階へ上がっていく。
そして、妹の姿が完全に見えなくなったところで、健斗はフウッと息を吐き食卓の椅子に腰かけた。
「今日も遅くまで勉強、お疲れ様。今夜のメニューは健斗の好きなトンカツよ」
「ありがとう。いただきます」
「……それにしても、ほんと仁香ちゃんは健斗のことが好きなのね。よかったわね、お兄ちゃん?」
「……うん。仁香はいい子だよ」
実はあの一見可愛らしい様子の妹には、健斗しか知らない裏の顔があるのだが。
しかし、それを母に言うことは出来ず、健斗はひたすらトンカツを頬張った。途中何度か咽そうになったが、それでも食べるのを止めずお茶で流し込んだ。
そしてわずか10分ほどで夕食を平らげると、健斗は重い足取りで階段を上っていった。
(あいつ、まさかまた俺の部屋に……)
ガチャッ。
ドアノブを捻って自室に入ると、そこには健斗の予想通り仁香がベッドの上に寝そべっていた。
「やっほー、お兄ちゃん。お邪魔してるよぉ?」
仁香が悪戯っぽい笑みを浮かべる。その目からは先ほどまでのような純真さは感じられず、むしろ何か悪だくみをしているようであった。
学校で出された宿題を片付けるべく勉強机に向かうと、さっそく仁香が揶揄うような仕草で近づいてくる。
「あれ~?それっぽっちの宿題、まだ終わってないんですか~?おバカなんですかぁ?」
「仕方ないだろ。こっちは受験勉強もあるんだし。それに高校一年生と三年生とじゃ、出される宿題の難易度も違うんだから」
「え、なにその言い訳?私なんて、もう大学生用のテキスト解いてるんですけどぉ」
そう、仁香は実に頭がいい。クラスの担任からも飛び級を勧められているほどだ。
さらに音楽や体育、美術まであらゆる科目で優秀な成績を修めており、まさに仁香は才色兼備な少女だった。
……だが困ったことに、彼女には、あらゆる面で自分より劣る兄をつかまえて馬鹿にする癖があった。
両親や友達の前では兄大好き妹キャラを演じているが、こうして二人っきりになると何かにつけて健斗をイジってくるのだ。
「しょーがないから、私が教えてあげようか?私に習えばそのおバカも少しは改善するかもよ?」
「結構だ。集中したいから黙っててくれ」
「え~、つまんないな。頭も悪い、運動もできない、絵も歌も下手くそ。ほんっとダメな要素しかないよね、お兄ちゃんは」
「運動と絵や歌がダメなのは認めるが、頭は結構いいはずだぞ。確かにお前には劣るけど、これでも一応難関志望だ」
自分で頭いいとか言ってる、と仁香はニヤニヤしながら再び健斗のベッドに寝転がった。
そして枕元の本棚から一冊のラノベを手に取り、その表紙を見るや否やププッと吹き出した。
「”あまりに妹が可愛すぎるのでいつか結婚しようと思います”、だってぇ!キャハハハ!お兄ちゃん、こういうの好きなんだぁ~」
「やめろ!……別に俺がどんな本を読んでようが、お前には関係ないだろ」
「でもさあ~。いくら義理とはいえ、兄がこんなキモイ本読んでたなんてショックだなぁ。だってぇ、私のこともこういうイヤらしい目つきで見てるんでしょ~?」
仁香はそう言いながら、手に持っていた本の表紙絵を指さした。
そこには薄い肌着姿で恥ずかしげな表情を浮かべる女の子と、これまた照れて顔が赤くなっている男の子のイラストが描かれていた。彼らはおそらく、このラノベの主人公とその妹なのだろう。
「そんなわけないだろッ!俺はあくまでフィクションとして楽しんでるのであってな……」
「え!楽しんじゃってるの!?まさか、いつか私とも結婚したいとか考えてる!?」
「だーかーら!そんなわけ……」
「やーい、このシスコン変態!私がお兄ちゃんと結婚するとか、天地がひっくり返ってもありっこないから!そんなん死んでもイヤだから!」
「おい……いい加減にしろ!」
健斗は仁香から本を引っ手繰ると、眉をピクつかせながらそれを本棚に戻した。
その様子に仁香は軽く肩をすくめ、健斗の方に向かって思いっきりアッカンベーしてみせた。
「もう勉強の邪魔だから寝ろ。”夜更かしは美容の大敵”なんだろう」
「ほいほい。確かに、いつまでも可愛く美しくいないとねぇ。お兄ちゃんなんかよりもずっと素敵な王子様と出会うためには」
そう吐き捨てると、仁香は揚々と鼻歌を奏でながら健斗の部屋を出ていった。
まったく憎たらしい妹だ。こんな風に毎日勉強の邪魔をされるなんて、全くたまったもんじゃない。
妹のせいで低下していた集中力を高めるべく、健斗は引き出しに入れてあったチョコレートを一粒口へ放り込んだ。
「よーし、やるぞォォォォォォォォォォォォォ!」
そして、そのまま夜が明けるまで机に向かい続けた。
とにかく一旦、自分に妹がいることなど忘れて。
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チュンチュンチュン。
どこか遠くの方から雀の鳴き声が聞こえてくる。
そして……。
「おっはよー!お兄ちゃん、朝だぞォ!」
「……ん、んん」
「起きろーーー!この変態シスコン兄貴ーーーーーーッ!」
仁香は、健斗の丸まった背中を力いっぱい叩いた。
痛ッ!と、健斗が呻き声を上げながら目を覚ます。そして、仁香に叩かれた背中を摩りながらその痛みに顔を歪めた。
「おま……思いっきり叩きやがって!もうちょっと力加減してくれたっていいだろ」
「そんな軟なパンチじゃ起きないでしょ、お兄ちゃんは」
「まさかのグーパンかよ……」
得意げに握りこぶしを作りながら破顔する妹に、健斗は何も言い返す気にはなれなかった。
二人が一階のリビングへ降りると、すでに母の朱美と父の恭太郎が食卓についていた。
「やあ、おはよう二人とも。健斗は昨日も夜遅くまで勉強してたんだって?偉いよなあ」
「いえ……。受験生としては当然です」
「もう、お兄ちゃんたら謙遜しちゃって!朝起こしに行ったら、机に突っ伏したまま寝てて心配したんだからね!」
そう言う仁香の表情には、昨夜のような憎たらしさが一切ない。今、健斗の隣に立つ少女は天真爛漫で兄想いの模範的な妹だった。
(まったく、たいした演技だ。こんなんで昨日のことを話したら、きっと俺が悪者扱いされるんだろうな……)
母に促され席に座ると、朝食のパンと目玉焼きのセットが用意されていた。
恭太郎はすでにそれを食べ終えており、腕時計を確認するや否や慌てた様子で席を立った。
「朝ご飯ごちそうさま。今日も美味しかったよ。じゃあ、行ってきます」
「はい、いってらっしゃい」
朱美は玄関で夫が出勤するのを見送ると、今度はリビングにいる子供たちに声をかけた。
「ほら、あなたたちも遅刻するわよ。急ぎなさい」
「もう食べ終わった。すぐ行くよ」
「え!?お兄ちゃん、ちょっと待ってよ!」
荷物を持って出発しようとする健斗を仁香は呼び止める。どうせ一緒に登校したところで散々イジリ倒されるのは目に見えているので、健斗はあえてこれを無視した。
すると、家を出発して数分後。背後に何やら悪寒がしたので振り返ると、仁香が怒りの籠った眼差しでこちらを睨みつけて立っていた。
「ちょっと、お兄ちゃん?この可愛い妹を無視して先に行くとはいい度胸ねぇ」
「……だって俺は”変態シスコン兄貴”なんだろ。一緒にいたくないだろうと思って」
「それはそれ、これはこれ!とにかく私より能無しのくせに、私を無視したのが気にいらないッ!」
「えー……」
結局その後も仁香にグチグチと言われ続け、学校に着く頃には健斗のライフゲージはほぼゼロになっていた。
校舎に入ったところで、ようやく学年の違う仁香からは解放される。
(同じ学年でないだけまだマシだけど、なるべく学校でもアイツとは関わりたくないな……)
健斗は心の中でコッソリ愚痴をこぼしながら、自分のクラスの教室を目指した。
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昼休み。健斗は親友の百田と弁当を食べる約束をしていたが、彼は急遽部活の昼練に行ってしまった。
一人きりになった健斗は仕方なく弁当を持って屋上へと向かう。何もわざわざ屋上で食べる必要はないのだが、教室の隅っこでボッチ飯をするのは肩身が狭かったのだ。
「いただきます」
別に誰に聞かせるともなく、健斗は呟いた。
母が毎日手作りしてくれている弁当は、たとえ一人で食べようとも変わらず美味しいものだった。
屋上の風に吹かれながら健斗が箸を進めていると、屋上の入り口付近に人影が現れた。
キイッ、と蝶番の軋む音が聞こえ、扉の向こうから現れたのは見知った顔である。
「あれ~?お兄ちゃん、まさかのボッチ飯ですかぁ~?」
「……仁香」
「最愛のお兄ちゃんがこんな所で孤独に寂しく……。ああ!ワタシは悲しいよぉ」
仁香が弁当箱と水筒を両脇に抱えて仁王立ちしている。その顔は、健斗がよく知る意地悪な妹のそれであった。
よいしょッ。仁香は掛け声と共に健斗の隣に腰を下ろす。そして手に持っていた弁当箱の包みを解き、蓋を開けた。
「ジャーンッ!"仁香ちゃんの仁香ちゃんによる仁香ちゃんのための愛情弁当"ーー!」
「……そっかお前、料理得意だったもんな」
「そだよ。どこかの駄目駄目お兄ちゃんと違って、私は料理だって上手いんだから!」
いちいち棘のある発言をする妹だ。しかし、仁香の料理の腕は大層なもので、その腕前は一流レストランのシェフ並みであると健斗は思っている。
なので、健斗は妹が作ってきたという完璧な仕上がりの弁当にただひたすら感心していた。
「ねえ、お兄ちゃんは女の子の手作り弁当、食べたことある?」
「……ない。残念なことに」
「そらそーだよね!だってお兄ちゃん、見るからにモテなさそうだもん」
「うるさいな、余計なお世話だ!早く弁当食っちゃえよ」
「……それじゃあ、しょーがないからさあ…………」
仁香は弁当箱の中からサンドウィッチを一つ手に取り、ニイッと邪悪な笑みを浮かべる。
そして、制服の上に羽織ったセーターの裾をまくると、手に持ったサンドウィッチを健斗の眼前に突き出した。
「はい、あーーーん!」
「は!?ちょ、お前何やって……」
「あんまりにお兄ちゃんが惨めだからさぁ。ちょっと恵んであげようと思って!」
「いや、いいって!恥ずかしいからやめてくれ!」
「遠慮しなさんな、ほら!」
仁香に無理やりサンドウィッチを口へ突っ込まれ、健斗の頬っぺたがリスのように膨らんだ。
モゴモゴと音を立てサンドウィッチを数回咀嚼したところで、健斗はある異変に気が付く。
(ん?何かこのサンドウィッチ痺れるような……)
そして、見る見るうちに健斗の顔が赤くなっていった。
「か、か、か、辛えぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!なんだこのサンドウィッチ、辛えぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
「プッ……ハハハハハハッ!やーい、引っかかったーー!それカイエンペッパー入りなんだよぉ!」
「ハーッ、ハーッ……おま、ふっざけんな!水、水くれ!ハーッ……」
健斗は、仁香に渡された水筒の水を一気に飲み干した。
先ほどよりはやや辛さが引いたが、まだ口内にはカイエンペッパーによる痺れや痛みが残っている。
(まったくなんて物を食わせるんだ、この妹は……)
なおも隣で腹を抱えて爆笑する仁香に、健斗は苛立ちを募らせた。
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こうして結局、この日も仁香によって散々な目に遭わされた健斗は放課後。カイエンペッパーで腫れた頬を摩りながら塾へと向かった。
一日の中で唯一、妹の魔の手から逃れられる至高のオアシスを目指して。
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翌日の土曜日。健斗が塾に着く頃には、せっかくの休日にもかかわらず、すでに大勢の受験生たちがその場にひしめき合っていた。
なんとか空いている座席を見つけ腰を下ろすと、一人の男子高校生が健斗に近づいてきた。
昨日のランチをドタキャンした百田である。
「よお、健斗」
「”よお、健斗”じゃねえよ、百田。昨日は急に黙って昼練に行きやがって。おかげでボッチ飯になったんだぞ」
「悪い悪い。どーしても来てほしいって後輩から頼まれちゃってさ」
「お前もいい加減、勉強に専念した方がいいんじゃないの?」
「まあ、分かってるけどさぁ……。でもこれが最後の大会だから、やっぱ完全燃焼して終わりたいんだよ」
そう言う百田だが、実は彼は勉強も部活も両立させてしまう文武両道の優等生であった。
だからこそ、健斗はそれ以上強く主張することができず、口をつぐんだ。
「……ってそんなことより、健斗!大丈夫だったかよ、昨日」
百田の表情が急に深刻なものになったので、健斗も思わず身構えてしまう。
「……昨日?何の話だ」
「いや、昨日の夜9時くらいだったかな。お前んちの近くを通りかかったら、中から男の人の怒鳴り声?と女の人の悲鳴?みたいなのが聞こえてきてさ」
「は?それホントかよ」
「ああ、確かに聞こえたよ。お前の声ではなかったから親父さんか?……まさかお前の義理のお父さん、DVとかやってるんじゃないだろうな」
DV。家庭内暴力。そんなものが自分の家で起きているはずがない。
でも……昨日の夜はいつも通り11時30分まで塾にいた。だから、その時間に家で何が起きていたかなんて分からない。
様々な可能性を考えれば考えるほど、健斗の頭の中は混乱していった。
「落ち着け。何か今までにDVの兆候とかなかったのか?」
「……兆候?」
「そう。例えば、お母さんや妹さんの体に傷や痣があったとか、二人がそれを隠そうとしてたとか」
「んなわけ……」
と言いかけて、健斗は閉口する。
(そういえば母さんは再婚前と比べて、随分と髪が長くなったような……。仁香もずっと前髪を伸ばしてるし……。)
それに…………。と、ここで健斗はハッとした。
仁香の服装である。彼女はたとえ真夏の猛暑日であっても、なぜか常にカーディガンやセーターなどの上着を手放さなかった。
「暑くないのか?」と健斗が聞いても、「紫外線は美容の大敵だからね」と答えるだけで、決して上着を脱ごうとはしなかったのだ。
あれがもし……。あの下に虐待の痕跡を隠していたんだとしたら……。
「ごめん!俺やっぱり家が気になるから今日はもう帰るわ。お前から先生に伝えといてくれ」
「……分かった。だけど……たとえ何があったとしても、絶対に無茶だけはすんなよ?」
「おう。全ては俺の思い過ごしであってくれ、と願ってる」
健斗は荷物も持たずに塾を飛び出すと、そのまま外に停まっていたタクシーに乗り込んだ。
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タクシーが走り出し自宅に近づくにつれ、健斗の心の中の不安はどんどん大きくなっていった。
(確か父さん、天利恭太郎は出張が中止になって今日は家にいるはずだ。あの人は酒が大好きだって前に母さんが言ってたけど、酔った勢いで仁香や母さんに手を上げてるのか……?)
あの一見温厚そうに見える義父が、実は自分の知らないところで妹や母に暴力を振るっていたかもしれない。その事実が健斗にどうしようもないくらいの怒りと悔しさをもたらす。
自分はいつも近くにいたのに。いつでも気づけたはずなのに。
ずっと憎たらしく疎ましく思っていた妹が、密かに抱えていた傷に自分は気づいてあげられなかった。守ってあげられなかった。
(俺の…………馬鹿ッ!大馬野郎……!)
キキ―ッ。タクシーが自宅の前に停車する。
素早く料金を支払いタクシーを降りると、健斗は勢いよく玄関のドアを開け放った。
すると、次の瞬間。ガシャンッ、と。
食器の割れるような音が家全体に響き渡った。
(リビングの方から……!)
健斗がリビングルームに足を踏み入れると、そこでは恭太郎が仁香の胸ぐらを掴みかかっているところだった。
「おい、仁香ッ!なぜお父さんの言うことが聞けないんだッ」
「……ごめんなさい。もうしないから許してください……」
「いーや、その顔はまだ分かってないな。今日という今日こそ、徹底的に目にもの見せてやるッ!」
健斗は自分の内に、かつて感じたことがないほどの激しい憤りが湧出してくるのを感じた。
そして、何を考えるよりも先にその体は義父の方へ真っすぐに向かってゆく。
「……おい、アンタ。俺の妹になにしてんだ……」
「ん?健斗か。見ての通りだよ。この娘が生意気にも俺に向かって、これ以上酒を飲むななどと抜かすんだ。だから、ちゃんと躾をし…」
恭太郎が皆まで言い終える前に、その顔面には健斗の繰り出した拳が届いていた。
グハァッ、と野太い呻き声を上げながら恭太郎はその場にうずくまる。
「テメェ!何しやがんだこの野郎!貴様の塾の金は誰が払ってやってると思ってんだァ!」
「知るかよ、そんなん。お前……今までもこうやって仁香や母さんに暴力を振るってきたのか!」
「……いや、朱美は聞き分けがいいから躾の必要はないさ。問題は……前の妻との間に間違ってデキちまった、この失敗作の娘だよッ!」
恭太郎はまるで物を扱うように仁香の髪を掴み、力いっぱい揺さぶった。そしてそのままゴミでも捨てるかのように、仁香の小さな体を健斗の足元に放り投げた。
殴られ蹴られすでにボロボロになった仁香の瞳からは涙が零れ始める。
「……あれぇ、お兄ちゃん……?なんで、いるの……?意地悪な妹がいる家には……絶対帰ってこない……って……思ってたのに……。早く逃げて……おにい……ちゃん……」
健斗は、涙ぐんだ声で必死に訴える妹をそっと抱きしめた。
自分より一回りも二回りも小さな仁香の体は、後ろで酒を呷る父への恐怖心からか小刻みに震えている。
「……ごめん。本当にごめん。やっぱり俺は駄目駄目なお兄ちゃんだ。いや、もはや兄失格だよ……」
「なんで……そんなこというの……?お兄ちゃんは……さ……初めて会った日から……最高のお兄ちゃんだったじゃん……」
「……え?初めて会った日……?」
「そう……お父さんに連れられて……初めてこの家に来たとき……」
去年の春。仁香と初めて会った時に交わした会話が、健斗の脳裏に蘇ってくる。
『俺は健斗。今日からよろしくな、仁香ちゃん』
『は、はい……えっと、お兄ちゃんって呼べばいいですか……?』
『いやいや、別に無理に”お兄ちゃん”なんて呼ぶ必要ないよ。俺の事なんてちょっとした友達とでも思ってくれればいい』
『……友達』
『そう。兄妹とか家族とかそんなの関係ない。あくまでも対等な、”友達”。だから思ったことは何でも言ってくれ!』
『……うん、分かった!』
そうだ、そうだった。自分と仁香は”対等な友達”。
なのにいつの間にか一方的に妹のことを嫌い、遠ざけてしまっていたのは自分だった。その結果、仁香にはこんなに辛い思いをさせてしまった。
後悔してもしきれない悔恨の情が込み上げてきて、健斗は思わず吐きそうになる。
そんな健斗の背中を仁香は優しく摩った。
「ごめんね……お兄ちゃんには迷惑……かけたくなかったんだけど……」
「何言ってんだッ、謝るのはッ……謝るのは俺の方だぁぁぁぁぁぁ~~~~~~~」
気づくと、健斗は年甲斐もなく子供のような大声を上げて泣いていた。
ウ―ウ―ウ―ウ―ウ―ッ……。
背後から赤い灯と共に、パトカーのサイレンが近づいてくる。
「もし俺が30分以内に連絡を寄こさなかったら、その時は警察を呼んでくれ」と、健斗から頼まれていた百田が警察に通報していたのだ。
娘への暴行および傷害、ならびに妻や息子へ脅迫を行った現行犯で恭太郎は警察に連行された。
その後、健斗と仁香は母に連れられ、地方にある彼女の実家へ移り住むこととなった。
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「はーーーーー!田舎は空気が美味しいなぁ。ね、お兄ちゃん?」
「お、おう。……それより、何でお前は俺の布団でくつろいでるんだ」
「別にケチケチしなさんな。布団なんか減るもんじゃないでしょ。……お!これはもしや!」
仁香は健斗が持ってきた旅行鞄の中から一冊の本を取り出す。
「やっぱり~!”あまりに妹が可愛すぎるのでいつか結婚しようと思います”だぁ!やっぱりお兄ちゃんは、”変態シスコン兄貴”だねぇ」
「うるさい!コラ、その本を返せ!」
「やーいやーい!取れるもんなら取ってみなぁ~!」
相変わらず生意気で憎らしい妹であることに変わりはない。だが、ラノベを持って逃げ回る妹を追いかける兄の表情は、今。
それは、庭先に咲く向日葵のように明るいものであった。