紺碧海岸
例によって絵師様のイラストのために書いたSS
S市の郊外─と言っても、もはやそこは一万年前の原生林と、我らが人類の雄弁な国境である─に佇む古い屋敷に、九鬼初音という一人の女が住っていることを、私は以前語ったと思う。
幼少期から足が不自由で、車椅子に日常生活の便宜を委ねている彼女は、凡そ八年にわたる国外での遊学の果てに、故郷であるこの田舎町の邸宅に腰を落ち着けている。腰のあたりにまで伸びた長い艶やかな黒髪を、自ずから吹き渡っている山々の風に靡かせながら、からっとした西国の太陽の光差し込む窓際で、茫洋とした時を過ごすことを何よりの楽しみにしている人であった。
私が九鬼のもとを尋ねると、彼女は陶磁器の様に色の抜けた白い肌に、不器用な笑みを浮かべて迎えてくれる。不器用だというのは、決してぎこちなく顔が動くというのではない。にっこりと口角を上げて、そこにだけ花が咲いた様な色の唇を嫣然と微笑ませるのだが、私にはそれが演技であるのかそれとも真実からであるのか、そのことだけはすっかり分かってしまうのである。耳に引っ掛けた丸眼鏡向こう側にある両目がきゅっと細まる。そのことが、何よりも雄弁に彼女の本心を語ってしまっているのだった。
ある日の暮方。いつにも増して陰鬱な影を落としている九鬼邸の門前に私がやって来た時、珍しく彼女が建物の外に出て来ていた。庭師に手入れさせた芝生の上に、車椅子のタイヤの痕を少し食い込ませながら、彼女は自分を見下ろす、仄紫色に染まった山の肌を眺めている様だった。
「初音」
私が声をかけると、彼女はハッとしたようにこちらを振り返って、そのまま件の、不器用だが実のこもった笑顔を浮かべてくれた。
「いらっしゃい。さあ、上がって頂戴。もう時間も時間だから、お菓子の代わりに夕飯を、紅茶の代わりにお酒を用意させるから」
邸宅の前面に建てられた、ジョサイア・コンドルが設計図を書いた様な厳しい洋館の中に足を踏み入れ、そのまま女主人の後についていくと、私は普段彼女が時間を過ごす大きな書斎に到着することになる。ここは彼女が蒐集している数千冊のコレクション、そのごく一部を陳列して閲覧に供するための部屋であると同時に、出歩ける様な足を持たない彼女が出来うる限り思索の楽しみを享受できる様、外のよく見える大きな窓と、食事をするためのテーブルが設られている。傷一つないマホガニーの円卓を間に挟んで、私たちは向かい合った。やがて山の向こうに日が落ち切ってしまうと、窓の外はすっかり暗闇に包まれていく。昼よりもなお濃く重い青色の空に、見るもの全ての上にずっしりとのしかかる『黒い森』が歪な地平線を描いていた。
「初音。今日はどうかしたのかい」
私の言葉に、九鬼はまた驚いた様子で顔を上げる。表情に帳を下ろしていた前の髪が揺れて、傷ひとつない純白の額を露出させる。
「どうかした、って?」
やっとのことで、彼女はそれだけを私に問いかけた。私は、
「今日はやけに気分が下がっている様だったから。やはり迷惑だったかな、尋ねて来たのは」
「ううん、違うわ。ほんの少し、昔の変な思い出に浸っていただけよ」
「昔の変な思い出って?」
「……」
彼女は運ばれて来たワインをグラスに注ぐと、ほんの少しだけ口をつけた。ラベルを見ながら、ぽつりと溢れる様に呟く。
「留学の最後に、フランスのモンペリエにいた時のこと。もし興味がある様なら、してあげてもいいけれど」
「そのことがもし、君の心に棘を残しているのなら、是非聞かせてくれないかな。多少の手伝いはできるかも知れないから」
九鬼は観念した様にため息をつくと、一度眼鏡を外して拭いた。そのことが、彼女の気分を変える一番のルーティーンだった。
わたしがプリンストン大学の大学院に籍を置いていた時の話よ。そう前置きして、九鬼は語り始めた。当時の指導教官の紹介で、彼女は南仏のモンペリエ第三大学に滞在し、一年ほどフランス現象学や最新の精神医学に触れる機会をもらった。
「この機会に、フランスという国をよく味わって来なさい」
その言葉に従って、彼女は受入予定日の二ヶ月前に当たる八月の半ばに、モンペリエ=メディラテネ空港に降り立った。一度パリに行ったことはあったが、地中海に面した南仏の環境は、そことは全く違っていた。何処か陰鬱な気配のあった北部とは対照的に、まとわりつく様な湿気とは無縁の心地よい太陽の光が降り注ぐ海岸に面した港町。初めてやって来た日本人からすれば、あまりにも眩しい場所だった。
「まだ大学に行くにはずっと長い時間があったから。私は、モンペリエから出てトゥーロン、そしてモンテカルロに行ってみようと思ったの。噂に聞く『紺碧海岸』をこの目で見てみたいと思ったから」
手始めに鉄道でトゥーロンへ行き、嘗てナポレオンが死闘の末に攻め落とした要塞の名残をこの目で見た。ニースの海岸では、老いも若きも皆水着姿になり、その名の通り紺碧の海に向かって走り出て行く様を、羨望の眼差しと共に眺めていた。
「砂浜では車椅子の車輪が上手く動かないものだから。結局海の水には、触れることさえも出来なかったわ」
ニースのことは、ほかにも様々に記憶に残っている、と彼女は言った。街に程近い安宿に宿泊し、朝方早くに目を覚ますと、大道芸人であっただろうか、小洒落た弦の音色と共に『夜明曲』の一節が聞こえてきた。
「日本で言うのなら、誰が聞くやら明烏、と言ったところなのかしらね」
それを聴きながら服を着替え、車椅子に乗っていつもの通り外に出てみると、天気は生憎の曇り空であったが、それでも街は全く賑やかであった。一度雨が降れば途端に鬱々とした烟りに包まれる東京とは違って、この街はいつ何時であっても、透き通る紺碧の海に向かって、ブーゲンビリアが薫っている。
「今にしても、目を瞑れば新鮮に思い出すことができるわ。紺碧海岸の、甘く、熱く、朗らかな風景を─ホテルの庭に植っていた柑橘の木の放つ香り、中庭に咲いていた花。何もかもが、目を細めるほどに美しく思えた」
そして、九鬼はそのままモナコへと移った。その中部(!)モンテカルロのホテルに入った彼女は、この初めから終わりまで、何もかもびっしりと絢爛たる繁栄で覆われた小さな国で、驚くべきものに会ったのだという。
「モンテカルロに来たからには、カジノに行かない選択肢はなかった。留学生の日本人如きが、と君は思うか知らないけれど、どことなくそう言ったものに惹かれてしまって」
「自分のお金でやる分には……無茶も賭博も、許されるものだと思うよ」
私の言葉に彼女は苦笑いを浮かべ、またワインを一口飲んだ。
「モンテカルロのカジノといえば、その名声は世界的なものではあるが、余り車椅子に優しい場所ではなかった」
シャルル・ガルニエが設計したと言うその壮麗な建物は、煌びやかなその見てくれこそ目を惹くが、中に入ってみればあまり上等なものともいえないのだ、と九鬼は言い切った。ガラスを嵌め込み、複雑な幾何学模様を配した丸天井の下、一つきりで家が丸ごと一軒買えてしまうのではないかとさえ思う豪奢なシャンデリアが吊り下げられ、無数の身なりのいい男女がルーレットに興じていた。この場所では、日本にまだ幕府があった時から、同じことを続けているのだと彼女はせせら笑う様に言う。
「それで、勝負には勝てたの?」
「嫌だわ、そんな野暮ったいこと聞かないで」
殊更に貴婦人の様な真似をして、彼女は口元を隠す仕草をした。時折、私の前だけで─甘えるような婀娜っぽい仕草をする。それは時に私への揶揄いであり、また時に離せないことを隠すための防壁でもある。今回はどちらだろう、判断がつき難いものは放っておくに限る。私は首を横に振って、続きを促した。
「そうして、カジノを出て、ホテルへ帰ろうと思った時のことだった」
道路の隅に、一人影の様になってうずくまっている男を見つけた。慎重に近寄ってみると、それは白い頭と白い髭をぼさぼさに生やし、区別し難い目と深い皺に包まれた、年老いた物乞いの姿であった。擦り切れて、汚れに塗れた薄い服に、穴だらけになったズボンの足をだらしなく道路に放り出し、傍には人の体を壊すためだけに作られた様な、吐き気のする味の蒸留酒の瓶が、ボロボロの杖と共に転がっている。眼前を通り過ぎた紳士が嫌味たらしく光らせているカブスボタンを一つ売り払うだけで、この男は死ぬまで幸福に暮らせよう。しかし、それさえも手元には残りはしない。
「まさか君は、その男に話しかけたのではあるまいね」
「話しかけたわ。自分でも馬鹿なことをしたと思う、でも止められなかった」
彼女は車椅子を漕いで、力なく横たわる物乞いに声をかけた。最初はフランス語で。
「ムッシュー、こんなところで何をしているのですか?」
男は答えた。
「なんだい、そのムッシュウってのは、おれに言ったのかい?」
「そうですよ」
「誰かってぇ思えば、あんた外国人だろう。それもどうだ、日本人だ。へへ、当たってるだろう?にろんじんってのはな、匂いでわかるものさァ」
皺をほんの少し上に上げるだけでも、男にとっては大儀そうな様子で、九鬼は話している間、相手がこちらを見ているのか見ていないのか、よく分からなかったと言う。
「べろんべろんに酔っ払っている上に、きつい訛りが入っているから聞き取れないのなんの。まあ、話が通じているかも分からなかったけれどね」
「それで?」
物乞いの口振に興味を惹かれた彼女は、そこに一旦車椅子を止めて、暫し話に付き合ってやることにした。彼はぼんやりと、幻を読み上げる様に言葉を継ぐ。
「お嬢さん、日本から来たんだろう。日本からここへ来て、どこに降り立ちなすったね」
「モンペリエです。留学生なもので」
「留学生、留学生ねぇ。いいねぇ、フランスはええ国だぜお嬢さん。俺もフランス出身でな、昔ァパリに居たんだ。だげんど、この訛りが抜けねくてなァ、流れ流れてこんなとこじゃ。パリっ子てなどうにもイけねえや、ソウ思わねえかい」
「ムッシュのご出身は?」
「俺かい?俺はなぁ……忘れちまったさ。えぇ、長いこと、モンテカルロを根城にしているが、くにのことを聞かれたのは初めてだぜ」
「でも、その訛りはオック語の訛りです。南仏の方ではありませんか?」
「それも分かるかい!?ハァ、やっぱり、留学生なんテのは、あったまがええんだなぁ」
オック語?と言う顔をして私に対して、九鬼はごく簡単に説明してくれた。
「オック語というのは、ロワール川以南のフランスで話される地方言語の一つよ。正確にはフランス語の方言ではなくて、ロマンス語から派生した別言語と言ったほうがいいのだけど─最近は話す人も殆どいなくて、絶滅の危機に瀕してる」
「じゃ、その人はオック語を話していたんだ」
「というより、オック語とフランス語のちゃんぽんに近いわよね。純粋なオック語は私も分からないし、通じるあたり、お互いある程度母語でないことを意識していたのかも知れない」
物乞いは彼女が話の通じる人間と見たのだろう、酷く早口で様々な話を垂れ流した。
「お嬢サンよゥ、俺ァな、昔ハパリでちゃァんとした仕事をしよったんじゃがヨウ、ちょいとした、えーなんてぇんだ、そう、ジジョウってやつさねえ、そがんなもんでよ、仕事も家族も無くして、流れって流れってこんなところじゃけ、ハァ全く、世の中っテナ理不尽だと思わんかねェ」
「同感です、ムッシュ。世の中はいつでも理不尽です。私も常々自覚していますよ」
「ほほう、ッてことは、お嬢さんも何か、嫌アな目にお遭いになったかね」
「ええ、この通り。飛行機の事故に遭いましてね。使い物にならないとは言いませんが、杖をついても長い距離を歩くのは厳しく、今では車椅子生活です」
「そうカァ、苦労してタンだなあ、留学生のお嬢サンもヨウ」
のそりのそりと物乞いは立ち上がり、車椅子のペダルに乗せられた九鬼の脚に触れた。革の靴越しにも分かる、ごつごつとした端くれだった手の感触は、彼女にとって不思議と不快ではなかった。
「お嬢さんヨウ、すこし、昔話を聞いチャくれねェか」
「私で良ければ」
「俺ァな、昔パリに居た、なんて言ったがヨ。アレは、半分嘘っパチなんだ。っテえのは、その時の俺ァ、まともな身分であすこに言ったわけじゃねェんだ」
「まともな身分で?どういうことです?」
「俺ァな、本当な─本当はヨ、ジェヴォーダン、ってところの出身なんだ」
物乞いが呪われしその名を口にした時、彼女は確かに聞いた。モナコには決しているはずのない獣の遠吠えが、すぐ近くで響き渡ったのである。
「思わず全身怖気立った。ジェヴォーダンという地名、君の様な変人なら、知らないはずが無いでしょう?」
私は頷いた。ジェヴォーダン、多少なりとも怪奇や恐怖に通じている人間ならば、知らない者は殆どいない。
「西暦一七六四年から、六七年にかけて─フランス南部、ジェヴォーダン地方に正体不明の獣が出現し、数百回にも渡って地域住民を襲撃し、多数の死傷者を出した」
不気味な獣の声は、かつてフランス全土を恐怖に陥れた陰惨な事件のことを、彼女に想起させずにはおかなかった。顔色を失った彼女に構わず、物乞いは淡々と続ける。
「俺ァジェヴォーダンの農民だった。家族と一緒に、のんびりと─あぁ、ワイン用の葡萄をな、植えてたンだ。決して、良い暮らしをしてたんじゃァねぇんだがヨ……それでも、幸せだったさ。だがよ、ある日、みんな、みんな変わっちまいやがったンだ……忘れもしねェ、七月十九日─十九日、ソウ、その日もヨ、こんな、月の綺麗ェな夜だった……」
がつ、がつ、と異様な音が聞こえる。靴底で石畳を踏むのではなく、硬い爪先で抉り取る様な音だった。何かが近づいてくる。しかし、動くことは出来ない。振り返ることも出来ない。
「その日は丁度、市役所で手続きがあってな。帰りが遅くなった。俺は夜道を急いでいた。まだあの辺りは道路が舗装されてなくてな、つっかえつっかえ歩いて行ったんだ」
いつの間にか、物乞いの言葉はひどく明瞭になって行った。ごてごてと飾り立てられていたものが抜けて、ただ真実のみを伝える鋭さが現れていた。皺だらけで力の抜けていた頬には活力が戻り、唯ならぬ光が双眸に宿っていた。
「家の戸を開けた時、女房がいた。頸筋のところを、こう鉤爪でヒッ裂かれてな。壁には血がべっとり飛び散っていて、白かったはずの壁紙が、すっかり赤黒くなっていやがった。俺は何が何やら分からずに、女房に取り縋った。そして驚いたね、左胸の真ん中に馬鹿でかい穴が空いてたんだぜ。ぽっかりと空いたそこからは、心臓が取り出されていたんだ」
「……」
「そしてな、奥の方から物音がした。その時になってやっと思い出したんだ。そうだ、ガキはどうしたって。情けねえ話さ。その時慌てて奥に駆け込んでいたらよ、ガキだけでも助かったかも知れねえんだぜ」
自分自身を嘲笑う様に、物乞いは歯を剥き出しにした。暖かく明朗なはずの南仏の空気が、刺々しく冷え込んでいくのを感じた、と彼女は言う。
「リビングに踏み込むと、ガキが二人とも倒れていた。一人は腹の辺りを掻っ捌かれて、もう一人は顔を直接抉られていた。だが、そんなことは俺にはどうでも良かった。俺が見ていたのはひとつだ─時折、ぴく、ぴくっと最後の震えを漏らすガキの上に乗っかって、その臓物を貪ってやがったケダモノ」
「それは、」
「そう、アレだよ。─人狼ってやつだ。人の形をして、その癖、女子供を好んで喰らいやがるケダモノだ。─同じことをした獣なんだ」
がつっ。今度こそ、異音が彼女のすぐ近くから聞こえた。恐る恐る、その方向を振り向くと、
「そこにいたのは、確かに人狼という他ない、異様なものだった。身長は二メートルを超すぐらい、丸太の様に太い脚が、パツパツになった布のズボンを履いていて、くるぶしのところからは針金の様に硬い毛が飛び出していた。その上には、巌のように固く膨らんだ胸板が、これまた似合わない布の服に包まれていた。上に乗っかった頭は、人間と明らかに骨の形が違っていて、月の光を受けて鈍く反射した毛に、鉄甲のように覆われていたわ。その鉄甲の真ん中には、爛々と光る赤色の目があって─あの、物乞いをしっかと見据えていた」
九鬼が一言もなく、ただ車椅子の上で震えていると、物乞いは冷静にその前に立ち塞がって、その人狼に何か言っているようだった。杖をついてよろよろと立ち上がる彼の姿は、もはや死を目前にしたもの─もはや半死者の様にさえ見えた。
「お嬢さん、安心しなよ。今、あの人狼と話を付けたんだ。あんたは、ただここを通りかかっただけの、無関係な女だよ。俺たちのことには何の関係もないのだって。だから、このまま宿に帰りなよ。明日の朝になる頃には、みんな決着が付いてる……だが、そうだな、折角だからヨウ、これを持って行ってくんなよ」
物乞いは懐から、後生大事に抱えていたらしい、古びた革表紙の本を九鬼に差し出した。彼女はそれを受け取りはしたが、何一つ言葉を言うことはできなかった、と苦々しく笑った。
「それで、そのあとは」
勢い込んで私が尋ねても、彼女は目を閉じて首を横に振った。
「私は車椅子の向きを変えて、そのまま全力で逃げ出した。後ろから聞こえた、何かを砕き、貫くような音の正体なんて分からない」
ただ─ただ翌日。震える声で彼女は言った。
「モンテカルロの路上には、誰のものとも知れない血溜まりが出来ていた。そして、山に向かって消えていく、『ヒト』の足音もね─」
その後。九鬼は託された古い本を開き、中身を確認した。やはりと言うべきか、それはあの物乞いの日記であった。最初はひどく下手くそな綴りのオック語から始まり、やがて洗練されたフランス語になり、そして最期の一日。彼女と巡り逢う直前の記述で、全ては終わっていた。
「彼は家族を失った後、一人で執念深く獣を追った。ある時は山野に混じり、ある時は街へ行き。数十年の気の遠くなるような時間の果てに、彼は遂に、人としてパリに溶け込んだ獣の尻尾を掴んだ」
「そして、仇を討ったの?」
「違うわ。彼は『同じことをした』の。捕まえた獣の家に入り込んで、そして、その妻と子を殺した」
「……」
「その結果、彼は復讐者と同時に、仇敵として付け狙われることにもなった。お互いに追いつ追われつ─戦い続けた。しかし、どちらも生き物、やがて老いて、死を迎える時が来る。彼は言っているわ。『本能が教えてくれる。明日、モンテカルロの街角で、全ての決着がつくだろう』と」
「それで、どちらが勝ったんだい?」
「さあ─何しろ、残っていたのは、『ヒト』の足跡だけだもの」
九鬼が窓の外に目を向けた時、月は少しずつ、西に傾き始めていた。紺碧海岸の夜を思わせる澄み切った夜空の中に、彼女が何を見出していたのか─私には知る由もない。唯遠くに聞こえる、何かの吠え声だけが、ねっとりと耳の奥に残っていた。