8
僕らはクラスメイトのリハーサルが終わるのを見計らって、教室から逃避行した。
駐輪場につくと、右ポケットから自転車の鍵を取り出し、ロックを外す。
カチンと言う軽快な音と共に、ロックの鉄が消えていく。駐輪場から自転車を出すと、自鞄をカゴに投げ入れた。
雫は僕らが吐き出した吐瀉物の方を愛おしそうに見ていた。コンクリートの地面にしみ込んだそれは、ここまで酸っぱい匂いが漂ってくるほど存在感があった。
雫に声をかけようとすると、こちらを向いてニッと笑った。
「あれは、私たちの子供。もう、逃げられないんだ。」
「あれが?」
「そう。あれのおかげで、私たちは自由になれたんだ。」
「そっか。」
シリアスにその奇妙なシミを見る僕をよそに、雫は自転車の荷台に飛び乗り、はやくはやくと急かす。
彼女の頬は赤く染まっている。
僕は自転車に跨り、サドルをめいっぱい踏む。
最初の一回しが重い。
まだまだ重いサドルを、ひたすら踏む。
二人分の重量を運ぶのはやっぱり重いし、風圧は苦しい。
僕の腰に手が回され、背中に若干の熱を感じた
「・・・今日、うちにきてよ。作戦会議するから。」
「いいの?」
雫の家に行くのは、初めてだ。
頑なとして彼女は自身の家庭環境を見せない。
だから、彼女自ら来てほしいと言うのは、どこか引っかかった。
「今日は、特別だから。」
嫌な予感がした。雫が僕に何か期待している、そんな予感が。
雫の家は、高校から自転車で10分ほどの位置にあった。
大型ショッピングモールの駐車場を抜け、河川敷にかかった橋を渡ったすぐ右にある古びた木造建築がそれだった。
家につくと雫は、僕の腰に巻き付いていた手を放し、自転車から飛び降りる。
急に軽くなった自転車に一抹の寂しさを感じつつ、僕も自転車を降りた。
「ここが私の家。おばあちゃんとお母さんとお父さん。そして、私の家。」
駐車場の奥に石階段があり、そこを上がった先に扉が見える。
雫は簡潔に説明したが、この家にはどこか、得も言われぬ疑問が渦巻いているような気がした。
車が二台ギリギリ止まれるような駐車場の奥にある石階段を上る。
上った先には申し訳程度の庭があり、扉の横にスケボーが立てかけられていた。
雫が迷いなくインターホンを押す。
自分の家に帰るのにインターホンを押すのか、と疑問が生じたが、それを遮るように音を立てて扉があいた。
Tシャツにグレーのカーディガンを着た、仏頂面の老婆が姿を見せる。
にこやかな微笑みはどこか嘘っぽい。
扉の前で待っていたとしか思えないほど早く開いた扉と相まって、この老婆に猜疑心を湧かせずにはいられなかった。
「おばあちゃん、ただいま。」
「雫ちゃん。おかえり。」
ただそれだけのやり取りをして、老婆はそそくさと左の座敷に引っ込んだ。
その間、老婆は僕に一瞥もくれなかった。
雫は何も言わずローファーを脱いで、左の急な階段をのぼった。
僕は奥から聞こえる、お茶が沸騰する音に向けて一言、お邪魔しますと言い、雫に続いて階段を駆け上がった。
階段を上がった先には、引っ越し直後のような部屋があった。
その真ん中に彼女は屹立している。
階段を上がってきた僕を見ると、電源が入ったように笑った。
「この部屋、全部私のだよ。いいでしょ。」
「・・・随分と味気ない部屋だね。」
周りを見渡しても、嗜好品が何も見当たらない。
家具屋で一番安く売られていそうな白いベッド、薄いベージュの本棚、勉強机とゲーミングチェア。
本棚にいくつかの文庫本が積まれている以外に、この部屋に彼女を表す要素は無かった。
この部屋に、彼女の残り香はほんのわずかに香るばかりだ。
雫はおもむろに、着ていたジャージを脱ぎ始めた。
その下に着ているシャツが少し汗ばんで見えた。
お茶が沸騰する音がここまで聞こえてくる。
雫のあばらがむき出しになる。
彼女の上半身は真っ白で、浮き出た骨が妙に艶めかしい。
雫はこちらに手を広げ、優しく微笑んだ。
僕はそれに答え、雫に歩み寄る。
抱き合って、ベッドに倒れこんだ。
ベッドがギシギシと音を立てる。
頭の奥がチカチカするような感覚に襲われ、視界が点滅するようだ。
僕の首筋に、雫のナメクジが這った。
僕は天井を見上げ、シミの数を反芻した。
言葉が溶ける。思考が溶ける。心が溶ける。
溶解して、一つになる。
僕の体は、寄生虫でいっぱいの、中間宿主みたいだ。
自分の体の内側も外側も気持ち悪い。
ぐっすり眠っている雫の頭に、そっと手を置く。
布団の匂いは湿って、雨になっていた。
雫は僕のものになってしまった。
「こうじゃない、違う。もっと、美しいものであったのでは?」
願うようにつぶやいた。
雫のシーツを奪うようにして包まる。
その時見えた雫の寝顔は、残酷にも安らかだった。




