5
僕は雫を、後ろから包み込むようにして座っていた。
雫の体は骨が直に伝わってくるし、くたくたのジャージは、彼女の匂いがする。
僕はあの日雫にされたように、頭を彼女の肩に乗せた。
首筋を嗅ぐと、くすぐったそうに体をくねらせる。
今の僕らには、二歩分のスペースは必要なかった。
「剣道って、暑いでしょ。大変だったね。」
僕は肩に頭を乗せたまま、雫のポケットに手を入れる。
雫の体温を初めて温かいと思った。
雫は、んーと考えた後、僕の顔に張り手を食らわせた。
「暑くないよ?でも、今はちょっと暑い。」
雫は左手をワシワシと動かし、イタズラっぽく笑った。
僕は薄く微笑み、雫を抱きしめる。
もう、そんな虚勢を僕に張らないでほしい。
4限の終了を知らせるチャイムが鳴った。
彼女は僕から無理やり抜け出し、座ったままの僕に、右手を差し出す。
「コンビニ行こ。」
僕を見下ろす澪は、自然に笑っている。
その顔は投げやりと言うより、全てを投げ出したいように疲れていた。
雫の手を取り、握り返してくる弱さを感じる。
この幸せは、きっとすぐそこに終わりがある、だからこそ輝くのだろう。
失いたくないから、苦しい。
大事にしたいのに、ゴミの様に吐いて捨てたい。
体育館から、屈託のない笑い声が聞こえてきた。
彼らの輝きも青春も夢も希望も、思ったよりも取るに足りない物なのかも知れない。
今は、そう強がれるだけの理由があった。
コンビニまでは少し遠い。
右を田んぼに、左を住宅に囲まれた道を抜け、交通量がやけに多い道路に配慮しながら、横の歩道を歩かなければならない。
僕らは並んで歩いていた。
雫はジャージを脱いで僕に持たせている。
ワイシャツ姿の雫は、腋の汗が目立って艶かしい。
僕は持っていたジャージを、ギュッと抱きしめた。
交通量の多い道路に差し掛かると、雫は僕の腕に自身の腕を絡ませてきた。
密接した体同士が、互いの熱を伝わらせる。
「明日と明後日は、文化祭。」
すると自分に言い聞かせる様に、雫はそう呟いた。
「じゃあ、明後日?」
僕は言った。
雫はこくりと頷く。
「私達が立てる中指は、世界に残ると思う?」
「少なくとも君と僕の名前は、その翌日の朝刊に載るよ。」
雫は驚くほど口角を上げて笑う。
「後少しだね。」
それは、人によっては、狂気と診断される物なのだろうか。
彼女の悲願は安っぽく、そして甘美で歪だ。
牙を折られた雫は、今にも崩れてしまいそうに見える。
だが、2本の心許ない足でちゃんと立っていた。
僕はその事実に目を背けたくなるほど、彼女を愛しく思う。
走行中の車が僕らを追い越す度、雫は体を震わせる。
どうやら雫は、文化祭2日目に僕と全てを終わらせたいらしい。
しかし、雫はまだ完成されていない。
雫の計画通りに彼女を終わらせるのは、僕の思い描く理想とは違った。
雫は現実に生きていて、僕は夢想に生きているのかもしれない。
詳細を良く聞いていなかったので、この話になる度に、僕は彼女に空返事で返している。
虚勢も張れない雫は酷く幼く、怯えていた。
僕の気が変わらないうちに、生き急ごうと必死な雫は、僕の左腕を強く抱いた。
コンビニに辿り着くと、僕らは一個ずつ菓子パンを買う。
僕はメロンパンを、雫はコッペパンを買った。
僕らはだだっ広いコンビニの駐輪場で、ボロボロとカスを落としながら食べる。
黙々と食べ進めていたが、雫はちょっといい?と遠慮がちに切り出した。
「私、3時間目寝てた時に、夢を見たんだ。」
僕はメロンパンを一口大に千切りながら、口に放り込む。
雫は口いっぱいにコッペパンを頬張り、次の言葉を待つ僕を、じっくりと焦らす。
「黒いモヤがかかったような世界で、今にも爆発しそうな風船が、私の目の前にあったんだ。私はその前で腰を抜かして、立ち上がれなかった。膨張する風船から、必死に逃げようと私はもがいた。そしたら奥に、ケンジが見えた。」
雫は残りを口に押し込み、また僕を焦らす。
僕らの目の前に車が止まった。
黒塗りの車から出てきたサラリーマン風の男は、僕らを一瞥し、軽快な入店音と共にコンビニの中へ入って行った。
「ケンジは私をジッと見てた。なんか、複雑な顔で。で、もうダメだって時に駆け寄ってきた。それでーーー。」
考えを振り払うように、雫はブンブンと頭を揺らした。
「忘れて。やっぱなんでもないよ。」
雫はポリポリと首筋を掻いた。
強く掻いたせいで赤くなっている首筋を、僕は優しく撫でた。




