3
養護教諭は体育の時間の間、保健室で僕らを匿ってくれた。
雫はやけに安心したように、ぐっすり寝ている。
僕は彼女の顔と向き合うように、ベットの右側にパイプの丸椅子を置いて座っていた。
後ろにもベットがあり窮屈だったが、そこ以外には、この空間の中で僕の居場所が無いような気がした。
チャイムは数分前、既に鳴っている。
体育は既に終わったのか、着替えた女子生徒らが、駄弁りながら歩いて教室に戻っていく様子が聞き取れた。
僕は読んでいた文庫本をパタンと閉じる。しおりは挟まなかった。
養護教諭は何も言わない。ただ僕らをじっと見ている。
もう、この場所にお前らは居るべきではない、とでも言うように。
僕を見る目は、思いの外冷ややかになっていた気がする。
本をポケットに無理やり押し込み、雫を起こす。トントンと肩を叩くと、その目を大きく開け、ジロジロと辺りを見渡した。
「もう、時間だよ。」
「教室に戻るの?」
「そうだよ、塹壕はもうないからね。」
雫は深く深呼吸をして、一息でベッドから飛び起きた。
靴を履き直し、養護教諭からジャージを受け取る。まだ暑いにも関わらず、躊躇なくそれを着た。
するとまた、思い出したように腕を捲った。
「暑くないの?それ?」
微笑みながら聞く養護教諭に、「暑くないですよ?」と答えながらシャツの襟元をパタパタと仰いでいる。
雫は養護教諭に挨拶もせず、保健室を後にした。養護教諭に一礼して、僕もそれに続こうとすると、おい、と養護教諭に呼び止められた。
「私は勘違いをしていたよ。」
「何をですか。」
振り返った僕は、彼女が見せる悲しげな表情に、本気で嫌悪しながらそう答えた。
それは僕が嫌いな母親の表情と酷く似ていたからだ。
「私は期待してたんだよ、雫は君が救ってくれるんだと。」
「僕は、今の雫に救われました。」
僕は力いっぱい扉を閉めた。
大きな音を立て、扉は半開きになった。
そこから養護教諭の顔が見える前に、僕は静かにこちらを向いていた雫に向き直る。
短い休み時間を、精一杯楽しもうとする雑音が、そこら中から聞こえてくる。
雫は興味なさそうにこちらを見ていたが、僕が雫との間合いを詰めると、教室に向かって歩き出す。
階段を登る足音は響いていた。
階段の途中で雫は立ち止まった。
するとその場に座り込み、体操座りのように膝を抱える。僕もその場に座った。
しばらくして、3限の始まりを知らせるチャイムが鳴った。
「ね、今日さ、一緒に帰ろうね。」
チャイムが鳴り止むと同時に、弱々しい声で彼女は言う。
縋るように俯いた雫を抱きしめたかったが、「うん」と頷くだけにとどめた。
授業が始まったからか、5分休み特有のやかましさはなりを潜めていた。
「あ、そういえば今日、最後の文化祭準備だ。」
「そうだね。」
「今日はどこでサボろうね。」
「どこでもいいよ。」
うーん、と考える彼女はわざとらしい。あ、と思いついた様に言い、コンビニ行かない?と雫は提案した。
微笑み、僕はその提案に同意した。
教室に戻ると、制服に着替え席に座っていた同級生達が一斉にこちらを見た。
その無数の視線に焼かれないように、僕は雫を見る。
雫は背筋を伸ばし、見せかけの威勢を連れていた。
僕は、そんな彼女の影に隠れる。
席に座ると、左の席に座っていた同級生が強張ったように見えた。
さらに隣の席の雫は、机に突っ伏している。
「じゃあ練習問題。これを解いてみてください。」
3限は数学だったようだ。
丸メガネをして、ヨレヨレのスーツを着た中年の男性教員は、僕らに我関せずの様子で授業を進めた。黒板の半分は白く染まっている。
カリカリカリカリ。
同級生らはシャーペンを机に突き立て、取り憑かれた様に問題を解いている。
その様子を見たくなくて、僕は目を閉じた。
右隣りから消しゴムの音が聞こえてくる。その力強い消し方は、そのまま彼の性格を表しているようだ。
右隣りの彼は国立大学に行きたいらしい。隣の席だから、否応なしに情報が入ってくる。家が貧乏で兄弟もいるから、自分の負担は少しでも軽くしたいらしい。なんと親孝行な人間だろう。
カリカリカリカリ。
耐えられず左に顔を向けた。すると、上品な筆圧が聞こえてくる。
右隣りの彼女は薬剤師になりたいらしい。
父親の職業に憧れているとか。
カリカリカリカリ。
シャー芯を削る力が、その微弱な音が、耐えられない。
目を開け、雫を見る。机に突っ伏したまま動いていない。
雫を見ていると少しは気分も紛れる。
だが、その前に陣取っている同級生がノイズだった。
僕はひたすら耐えた。
どうしようもなく輝く努力は、紫外線となって僕を焼いた。
夢を叶えようとする筆圧は、掻きむしりたくなる嫌悪感を湧かせた。
この空間で、雫だけが共犯者だ。気の遠くなるような40分間、僕は雫をただ見ていた。
カリカリカリカリカリ。




