10
幅一人分程度の階段を、僕らは二人並んで降りた。
所謂恋人つなぎをしているが、お互いの手は冷たく、汗で湿っている。
一歩ずつ階段を降りるにつれ、雫の手に力がこもる。
すぐ右にある襖に向き直り、雫は息を整えた。
雫の手を握り返すと、彼女の強張った表情が僕の方を向いた。互いの目が合う。
彼女の眼には、もはや夜の海のような暗さも深さも無くて、透き通った藍色の魂が見えた。
それはもう、少年誌でも青年誌でもよくある、普遍的な魂だ。
僕は目を細めて、涙袋をぷっくりとさせた笑みを浮かべた。
それは僕の醜い心の発露だったが、雫ははにかんでそれを決意へと変えた。
雫が恐る恐る襖を開けると、そこには食い入るようにテレビを見る老婆と、長机に突っ伏した髪の長い女性がいた。
老婆はこちらをチラリともせず、落語番組を真剣に見ている。女性はピクリともせず、死んでしまったように動かない。
二人とも僕らの存在を感知しないように、ただ状態を継続させていた。
「・・・おかあさん。」
雫はひねり出したようなか細い声で呟く。
母親と思しき女性は動かない。
「・・・おかあさん。」
もう一度呟くも、やはり動かない。雫は動植物をいつくしむ様に、柔らかい顔で、唇を口の中へ巻き込んだ。
「あーははははははははは!!」
老婆が大声で、急に笑い出す。
僕も雫も、突っ伏していた母親さえも、背筋が伸びた。
雫の母親は起き上がった反動で、顔を守るように細い腕をクロスさせ、体を震わせている。
「・・・おかあさん」
さっきと同じトーンで、雫がつぶやく。
老婆の悲鳴のような笑い声で、隣りにいる僕にも微かにしか聞こえなかったが、雫の母親には聞こえたらしい。
僕らを見つけると、包容力のある笑みを浮かべた。
「雫・・・どこかにいくの?」
「うん。」
雫は僕の顔に視線を移し、雫の母もそれにつられて僕を見る。
雫の母は雫に似て整った顔立ちをしていたが、青ざめた唇と目の下に深く刻まれたクマが目立った。
全身から自傷癖の香りがする女性だ。
「・・・雫をよろしくね。」
老婆の狂った笑い声が響き渡る中で、透明な声が届いた。
僕はコクリと頷くばかりしかできなかったが、母親は満足したようにまた突っ伏した。
それを見届けて、雫は僕のシャツの袖を引っ張った。
それに促され、僕は逃げるように家を出た。
外に出ると辺りはすっかり真っ暗で、電柱の明かりが頼りなく揺らめいている。
空を覆う雲は僕らから月を奪い、彼方に見える雲の果てが僕らを誘う。
あそこにたどり着けるのは、僕らがまだ、幼稚な未成年であるからに他ならない。
互いの汗が混ざり合った手を放し、彼女は果てを指さす。
「あそこに、なにがあるの?」
「分からないけど確かなのは、あそこにあるものがきっと僕の全て。灰色の薄汚れた魂だ。見つける、きっと君を見つける。全部、全部、僕は取り戻すんだ。世の中はいつも、無気力に回る。僕はこの腐った輪廻を、断ち切るんだ。鮮烈で咲き切らない美しさこそ、救いであるはずなんだ。なぁそうだろ。」
「じゃあ、早くいかないとね。」
雫は石階段を降りて、僕の自転車の荷台に座った。
僕は石階段をひょいと飛び降りて、自転車に跨る。
雫の体温が、背中全体に伝わる。
雫の間の抜けた、しゅっぱーつ、と言う掛け声で僕は自転車をこぎ始める。
雫の家はどんどん遠のいて、いずれ見えなくなる。
雫の物語はこれで終わり、僕の物語もすぐに終わる。




