蠢き
水曜日に諒子そっくりな女をシラキ産業の前で見かけた、という話を複数の行員がし始めたのは、
諒子がシラキ産業へ訪問してから一ヶ月ほど経った九月半ばである。
しかも、普段諒子が戦闘服として着用している黒のパンツスーツではないというところが、
その目撃談の共通する点であり、同時にその女は自分ではないと主張する諒子の「物的証拠」でもあった。
「何度も言っていますが、わたしは水曜は必ず早く帰るようにしています。人違いです」
涼しく応える諒子の横で、新規開拓班の三上が首を横に捻った。
「ワシは目がええんじゃ。あの丘の界隈は八月から力入れてまわっちょるけんど、二回も荒幡を見たぞ」
昼間はきれいな標準語を扱う三上だが、営業室で使う広島弁は、三上本人の灰汁が強く出ているようで諒子は好きになれなかった。
「そもそも水曜日に七時ですか、八時ですか? そんな遅くまで外にいていいんですか? 疲れた目で見たんじゃ見間違いもおきるでしょう」
「新規開拓は、得意さんまわりとちごうて、最後の一押し、粘り腰が肝心なんじゃ。あと一押しって時に、社内規則なんかに縛られとるあほはおらん! 知ったような口は叩くな」
「荒幡さんじゃないですよ」
見かねた太田秀二がかばった。
「今どきのスタイルの良い女の子ってスーツ着てると似て見えるじゃないですか。リクルートスーツ着た子たちなんて、みんなおんなじように見えるでしょ」
「いーや。ワシぁ、この目でしっかりと見た。歩き方も、営業所に頭を下げて入る時の仕草も荒幡そのまんまじゃった。一度目は車で坂を下って来るときに、下から上がって来るお前とすれちごうた。」
「どうしてそこで荒幡に声をかけなかったんだ?」
課長席から渡瀬が声を飛ばす。
「課長、あそこは夜でも車どおりがおおいんじゃけん、あぶのうて車を停めるなんてこたでけん」
「そんで二回目は、あの店へ入るところじゃ。ぺこりと頭を下げて入りよった。その角度も荒幡そっくりじゃ」
諒子は自分に似た女の話よりも、三上が自分のお辞儀の角度まで記憶していることが許せなくなり、カバンを持って立ち上がった。
挨拶もせず音を立てて営業室を出た。
時刻は五時を少し回っていた。
即刻うざったい営業室を飛び出してどこかでビールでも飲んでやりたい。
ーなぜそんな不穏な噂が立つの?
沈着な諒子にしては珍しく憤慨していた。
動かぬ事実として、諒子は最初の訪問以来シラキ産業へは出向いてはいない。
コツコツと自分の靴音が響く長い廊下を歩きながら、
諒子は自分に似たその女を確かめてみようと決めた。
諒子は弾き返すように、ドアを勢いよく開けて外に出た。
出遭ったその日から毎晩のように見る白木との密会の夢は、
逆に諒子を白木から遠ざけ続けていた。
置き忘れてきたハンカチも取りにいっていないし、その後電話も一本もかけてはいない。
どのような顔で白木に向き合えばよいのか分らなかった。
また訪ねていって何を話せばよいかも分らないのである。
実物の白木に会ったら、自分を保てなくなるかもしれない。
電話越しに白木の声を聞いたら何も考えられなくなるかもしれない。
そんな恐れが諒子にはあった。
諒子の動きを奪うほど強く抱く冷たい腕は、時には硬く、また時には軟らかい。
そこに青く走る血管。
熱さと冷たさ、強さと弱さ。
相反するものを白木の身体は同時に持っていた。
そして、唇や舌、大きな掌から伸びる長い指は、夢の中でも確かな熱を持っていた。
またそれらは白木とは別に意思のあるもののように諒子を愉しませた。
白木の身体は、重厚な質感を持って諒子の中にあった。
諒子の奥にある部屋を一つ一つ開いていく丹念な彼の行いが、
夢の中のものとは諒子には思えないのである。
たとえ夢の中であっても自分が充分に満たされていれば、現実はそこそこで良いのではないか。
翻って考えてみれば、冴えない日々の連続でここまでわたしは来たのだ。
今までには抱いたことのない自堕落な考えが、
諒子を侵し始めていた。
実のない現実に欠伸をする代わりに、
諒子の身体はつぶさに白木を思い出すのだった。
その度に諒子の肌には鳥肌が立ち、体内に棲みついてしまった何ものかが蠢きだした。
つづく