諒子の凪
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手形貸し付け返済誓約書。今月だけで十枚、諒子は得意先をその誓約書を回収して廻っていた。
新しい名の契約書が来月から出回るという通達を読んだ時は、諒子はさほど気に留めていなかったが、
先月一日に法人営業部の部員を集めて開かれた研修でその誓約書の説明を受けたとき、営業部員の多くは青ざめた。
不良債権処理に手間取っていた横港銀行は、公的資金の注入を受け、金融庁から経営改善計画に則って経営の合理化を図っていた。
その合理化が進みつつあったところにリーマンショックが世界を襲った。
不良債権化せずにギリギリのところで踏みとどまっていた企業の債権がまたたく間に不良債権化してしまうことを恐れた経営陣は、自分たちの銀行が破綻し国有化される前の手立てを考えざるを得なかった。
「二決算期連続で赤字の法人は、この誓約書にサインをもらって、融資の返済をさせ、それ以後は融資を実行しない。返済は一時的で、あくまで監査のための便宜的なものに過ぎないと先方へ説明をするように」
課長の説明が淡々と続く。
不良債権処理といえば聞こえはよいが、実際は経営者を奈落の底に突き落とすことも決して希ではない。
経営者と法人が一身一体である中小零細企業の場合は、合法的な殺人と揶揄される場合もる。
死んで得た保険金で借金の返済や家族の生活費を賄うのだ。
バブル景気が終焉してから毎年三万人の自殺者が出ているが、そのうちのある一定割合はこの種のものだ。
「銀行は株式を市場に公開している法人だ。利益を追求をするのが当然。メガバンクは株主の配当を稼がないといけない」
研修のあと、諒子を飲みに誘った太田秀二は諭すようにいった。
「雨が降っている時には傘を貸さず、晴れている時に傘を押し売りする。銀行は常にそう言って文句を言われるんだ。でもそれでも銀行員は金を貸さなきゃならない。返してもらえる見込みのない金は早々に返してもらわないといけない。一流の銀行員になるってことは、たくさん後ろ指さされることでもあるんだ」
酔いが回り始めた彼は、自嘲にも誇らしげにも見える笑みを諒子に向けた。
自分を慰めているような言い草を諒子は鼻で笑いたくなった。
わたしは滅入ってもいないし嫌気など感じてもいない。
自分がする仕事で誰が悲しんでもそれはわたしの責任ではない。
気負って生きている人を見るような目で見ないで。
諒子より二年早く入社した太田は、諒子と同じく一年目から大企業中心の法人担当で結果を残し、昨年度は新規開拓班に最年少で抜擢されたエリートだった。
スーツを有名ブランドで揃え、髪はいつも同じ形に決まっていた。週末は趣味のサーフィンで汗を流すらしい。
若い女子社員たちからは憧れの的で、事務職の容姿重視で採用される所謂「きれい枠」と噂されている同期入社の二人は、既に抱かれているらしかった。
二人で飲むことも今日が初めてではなかったが、いつも諒子をあからさまに誘うことはなかった。
「帰ろうか」
そう言って目の奥で探るように諒子の顔色を窺う。
そういうやり方が紳士的とでも思っているの?
それとも新入社員らしくなくないわたしを誘うことは「きれい枠」の女子を獲るほど簡単ではないと怖気づいている?
諒子の気持ちには漣すら立たなかった。
「はい。そろそろ」
と、諒子は乾いた声で応えた。