群れず、颯爽と
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荒幡諒子は、四月横港銀行に入社したばかりの新入社員だった。
つい四ヶ月前に入行したばかりだが、仕事ぶりはすっかり板についている。
就職氷河期と呼ばれた時期が終わり、バブル期を凌ぐほどの売り手市場だった就職戦線もリーマンショックを受けて、一夜のうちに氷河期より厳しい時代に突入した。
名の知れた大学を出ていても内定を確保するのが簡単ではなくない。就職ができずに浪人する学生も増えた。
一流の理系大学を出た諒子は大学院にも進まずに就職することにした。
小さい頃から勉強で困ることはなかったが、だからと言って勉強が好きという訳でもなかった。
専攻したのは物理学だったが、「もういい」と思った。
友人がみな大学院に進む中で働くことを選んだのは、進学してまで究めたいものがなかったからだ。
「荒幡君は漂流しているみたいだね」
教授から言われた一言だ。
「ヒョウリュウ?」
言われたことがすぐには飲み込めず、諒子はそう聞き返した。
優秀だった諒子を教授は研究室に引き留めておきたかった。
その誘いを諒子は断り、銀行への就職を決めたのだった。
わたしは漂流しているのではない。彷
徨っているのでもない。
そもそも、わたしにとってにとって何かを積み重ねていくこと自体、価値がないんです。
諒子は何も言わずに黙って教授の前を去った。
銀行に入ったのも違う世界を見てみたいという積極果敢な気持ちがあった訳でもない。
理系の仕事は大まかに想像がついてしまった。
加えてそちらの仕事に就くことにすると大学や研究室の先輩のつてを使うことにもなりかねない。
自由になりたい柵から、相変わらず手足を縛られるのではないかと危惧した。
そこで文系大学生から人気の高い金融に触手を伸ばしてみたのだ。
選考が進んで行くにつれて分ってきたのは、まず銀行員に求められるのはコミュニケーション能力だと言うこと。
収益計算や数字だらけの決算書などは数学が得意な諒子には全く容易なことであった。
その求められる能力には自信があった。会話に熟慮はいらない。
ちょっとした演技力と場の雰囲気を掴む洞察力さえあれば、あとは面倒なことはない。
相手の興味を見つけ、顔色を見、時にはおどけて見せるなどすれば、すぐに相手の懐に入れる。
時には近寄りがたいと思わせる静謐で美しい諒子の外見も手伝い、表情豊かに饒舌に話し始めると、話し相手は皆意外な顔をして諒子の話に食いついた。
また諒子には容易く集団の中心的な地位を占めることもできたし、それが面倒だと思えば目立たぬ存在としてひっそりと生息することもまた容易だった。
喧嘩は滅多にしなかったが、すれば負けなかった。小学四年生のとき、給食で苦手なスープを諒子は残してしまった。
ところが「おのこしはゆるしません」という担任は、そのスープを飲むまで昼休みに入らせないと言う。諒子はその教師を見て決めた。
「誰が何と言おうと飲めないものは飲まないの」
昼休みが終わり、午後の授業が終わっても諒子は一人机の上にランチョンマットを敷き、その上にスープ皿を載せて一番後ろに席を移動させて座っていた。
やがて帰りの会が終わり、その教師と諒子だけが教室に残っていた。
こんなことになってもわたしは困らない。困るのはあなたよ。わたしは負けない。
結局音を上げたのは教師のほうで、スープを残したまま諒子は教室を後にした。
つづく