生ぬるい日常
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「荒幡さんが押しちゃってよ、ね? 判子なんて普段押しなれてないから、下手したら紙汚すだけだし」
外で鳴く蝉がうっとおしい。
そこまで必死になって訴えたい何かがあるのだろうか、無いなら今すぐ鳴くのをやめてくれないだろうか。
ついでにこの薄い膜を被ったような鬱陶しさも誰か取り払ってくれないか。
荒幡諒子は冷房の効いていない部屋の茶色い皮のはげかけたソファに浅く腰掛けながら後藤建築の経営者、後藤修二の声を上の空で聞いていた。
「荒幡さん、本当にちょっとだけ返済をして、来週になったら、また元どおり一千万貸してもらえるんだよね」
「はい。金融庁はきちんと融資が返済されているかを表面的に見て判断するんです。数日でも、融資が完済されていれさえすれば不良債権と見なされません。また近々また伺いますから、そこで同額をご融資させていただきます」
今月何度も繰り返してきたその台詞は、もう舌が覚えてしまったかのように滞りなく諒子の口から滑り出ていった。
出された麦茶は冷たくなくただ生ぬるい。
そして会社の経営と同じくだらしないいい加減な味がした。
涼しくもない部屋に冷たくもない麦茶。
こんな締まりのない会社だから経営も放漫になるの。銀行から返す当てのない金をだらだらと借り続けて、最後には焦げ付かせる。
そんな会社なら早く畳んで次の手を考えたほうがよっぽど社会のため。
荒幡諒子は胸の中でそう言うと、後藤から印鑑を受け取り、馴れた手つきで印鑑を押した。
契約書に行員自らが印鑑を押すなど、法令違反も甚だしく、
決してあってはならないと新人研修で叩き込まれたが、
いざ支店に配属され、営業に出されたらそんなコンプライアンスは机上の空論よろしくすっかり無きものにされた。
特に中小法人営業部の諒子が担当した中小零細企業の経営者たちは、署名こそ自分でしたが、
押印は諒子にさせることが多かった。
後藤と書かれた印影が下に敷かれた緑のゴム版が透けるほどの薄い紙に、はっきりと朱くつくのを確かめた。
そうそう、これで一つ片付いた。・・・・・・わたしとしたことが、確認が甘かった。本当にいい加減にしろ。
「社長、日付が違います。今日は八月一一日です。お手数ですが書き直しを」
つづく