上 ~ 妻 ~
あらすじをご確認ください。
よろしくお願いいたします。
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誤字を訂正しました。
誤字報告ありがとうございます。
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巷では愛されない結婚、肉体関係がない結婚のことを『白い結婚』と呼ぶのだという。
では、政略的に姻戚関係になるのが手っ取り早いと判断され、いい頃合いの年齢であっただけの私たちが、家の存続のために肉体関係を持ち子をなす結婚のことは、なんて言うのだろうか。
さしずめ『黒い結婚』ってところだろうか。
私の祖母は隣国の侯爵家の娘だった。
その振る舞いは高位貴族にはごく当たり前のものだったけれど、冷たい雰囲気……緊張して固くなっていただけの様子が、高飛車だと嫌厭されたらしい。ついたあだ名が『悪辣姫』。
自国では良縁がなく、国境を越えて嫁いできた祖母だが、祖父は祖母を大切にし、穏やかな結婚生活だったと聞いている。
けれども、亡くなってから出てきた祖母の手記には、若い頃の悔恨と未練、そしてありとあらゆる言葉で恨みが書き連ねられていた。
祖母は隣国の社交界で凄惨な扱いを受けていた。
あくまで祖母の手記なので相手側の主張は分からないが、祖母がされてきたことが事実であれば、犯罪と言っても過言ではないいじめの数々だった。
私から見た祖母は凜とした貴婦人だったから、そんな扱いを受けていたことも、祖母がそんな気持ちを内に持っていたことにも驚いた。
祖母が周囲から嫌厭され、ましてや逃げるようにこの家に嫁いで来たなんて想像も出来なかったけれど、きっと祖母は悪くはない。たとえ悪いところがあったとしても、そんな扱いを受ける程のものではなかっただろう。
社交界の『ターゲット』なんて何かのタイミングでしかない。
祖母は祖国で運がなかった。
それだけのこと。
では、私は?
私も運がなかった。その一言だろう。
隣国との関係が悪化していき、国境では小競り合いが日常化していた。
停戦を実現するために、両国間で辺境伯家と隣国の貴族で姻戚となる案が持ち上がった。
だが、自国の兵をなぎ倒してきた辺境伯家に人質のように嫁ぐ貴族の娘はおらず、白羽の矢が立ったのが私だ。
隣国の由緒ある侯爵家出身の祖母の血を引く結婚適齢期の女性は私だけだった。
私の意志など確認もされずに、婚約者だった幼馴染みに別れも言えず、私は辺境伯家へ輿入れをした。
婚約もなく、顔合わせもなく、夫となる者との手紙のやりとりもなく。
最低限の結婚式で初めて顔合わせをした辺境伯家の嫡男の夫。
愛し愛される夫婦など政略結婚には奇跡でしかないことを重々承知していたのに、私は夢を見てしまった。
紫の眼のこの男が私を見る……私だけを見る、果てしない夢を。
当時は気が付かなかったが、夫はいつも私を見ているようで、私を透過して違う誰かを見ていたようだ。
蔑ろにはされなかった。
次期辺境伯夫人として大切にされていたと思う。
当時は他の人を知らないから比べようがなかったが、夫の閨は淡泊だった。始まりも終わりも淡々としていて、朝まで一緒にいたことはない。
私の体調を把握し、子が出来やすいとされる日に子作りをする。
粛々と繰り返される作業。
そうして私はほどなくして妊娠し、閨はなくなった。
この頃はまだ夢を見ていたから、それを寂しく思っていた。
そんな過去の自分を消してしまいたい。
腹が膨れてくるにつれて、なんと言えばいいのか、自分が自分でない生き物に浸食されていくような、生きたまま何かに捕食されていくような、母となる喜びとはほど遠いだろう感情が暴れ出した。
腹の中で動くようになったら、ソレをもっと感じるようになった。
私はソレを長年はりつけた微笑みの奥底に閉じ込めた。
そうしないと、泣いて叫んでしまいそうだった。
嫌だ。
助けて。
怖い、と。
独りでソレを抑えつけるのは、とても辛いことだった。
そして味わったことのない苦しみと痛みの果てに、私は紫の眼をした男の子を産み落とした。
可愛いとは、思えなかった。
ようやく腹からいなくなったこと、辺境伯家の血筋と祖母の血筋を引く後継ぎを無事に産めたことに心底安堵し、どんな手を使ってでも、二度と妊娠しないで済むようにしようと固く心に誓った。
蔑ろにはされなかった。
だけども、大切にしてもらえなかった私は、人としても女性としてもゆっくりと壊れていき、『母』という生き物になることが出来なかったのだと思う。
決定的だったのは、夫の視線だった。
夫の従兄弟の妻を見る視線。
夫が必死に隠す熱の籠もった視線は、言葉よりも巧みに私に事実を突きつけた。
夢はその時に死んだ。
夫は浮かれていたのだろう。
私の部屋から見える庭園で、従兄弟の妻と散策をしていた。
朝露の光る葉が美しい庭を二人で。
それは、朝まで共にいた、ということだ。
誰に見られても構わないのだろうな。
私の知らない『朝』の夫は、はにかんで幸せそうだった。
私の中の全てが粉々に砕けて崩れていった。
何も言わない私に見せつけたいのだろうか。
……それはないだろうな。
夫も私も、既にお互いへの興味はほんの少しもない。
この庭が、夫婦の寝室を間に挟んだお互いの私室に面している領主夫妻専用などと、気にもかけていないだけだろう。
そこから坂道を転がるように夫との仲は冷え切っていった。
会話らしい会話もなく、夫婦で出席しなければならない会でしか、隣に並ぶこともない。
従兄弟の妻はやがて紫の眼をした女の子を産んだと聞いた。
夫の眼の色と同じ。
夫の従兄弟の眼の色と同じ。
本家としてお祝いを贈った。
もっと感情が乱れるかと思ったが、もう子を産むつもりはないので、辺境伯家の血を引く子が増えたことは喜ばしいことだと思った。
夫は従兄弟の妻に飽きたのか、違う女性とまた夜会で消えるようになった。
ある夜会で、夫が現在のお相手の未亡人とどこかへ消えた夜。
私は私を見つめてくれる男性に肌を許した。
とてもとても満たされた。
こんなにも人肌は温かかったのか。
そして、こんなに簡単なことだったのか。
私の箍は外れてしまった。
夫が誰かと消える度に、私も誰かと消えるようになった。
バシン。
耳を抜け衝撃が脳を揺らしたのか、夫の怒声が理解出来なかった。
裏切りだの家名に泥を塗っただの辛うじて聞き取れたが、夫は一体何に怒って何を言っているのだろうか。
ちゃんと夫の子を産んだではないか。
なぜ頬を打たれなければならないのか。
あなたと同じことをしているだけ。
でも、私はあなたのように婚外子を持ったわけでもないのに、あなたが私を打つ理由が分からない。
そう言った私に夫は呆然とした後、更に罵倒しだした。
叩かれた頬はじんじんと熱を持ち、口の中には血の味が広がっていたが、不思議なことにとても穏やかに言葉が出た。「節操無しに言われたくありません」と。
私が喜んで嫁いできたとでも思っているのだろうか。
夫と会って、お互いだけを見つめ合う夫婦として寄り添う関係を夢を見た時期もあるが、先に背を向けたのは夫だ。
それからというもの、夫とは顔を合わせれば皮肉を言い合い、時には罵り合うようになった。
さすがに手を上げられることはもうなかった。恐らく手加減されていたあの一打で、私の歯は2本折れ、鼓膜が破れた。
いくら節操無しでも、辺境を守る騎士の夫が本気で殴ったら私は即死するのが分かったのだろう。
嫌味を言うために、夫の恋人のことなど身辺を気にするようになった。
夫は女の趣味が悪い。ついでに贈り物などの様々なセンスも悪い。贈り物一つもらったことがないことを気に病んでいた時期が懐かしい。
最近の恋人への贈り物は魚の置物だ。紅玉自体は大きくて美しいのに、なぜ魚の目に嵌めるのか。しかも両手で持てない大きさである。
要らないからすぐに売られていた。
わざわざソレを買い取って玄関に飾ってやった時の夫の顔は見物だった。
夫も私の相手を調べて難癖を付けてくるが、「ひょろい男がそんなにいいのか」なんて言われても、その通りだからなんのダメージもない。
相手に騎士だけは絶対に選ばない。
皮肉なことに、お互いのアラを探し、罵り合っている今が一番、結婚してから顔を合わせて会話が弾んだ。皮肉り合いが『会話』だとしたらだが。
そうやって過ごし、気が付けば義父である辺境伯が鬼籍に入り、夫が辺境伯を継いだ。
隣国の貴族の血を引く私が辺境伯夫人になったというのに、隣国との緊張は高まる一方で、小さな小競り合いは日常茶飯事になっていた。
この国に生まれ、隣国に伝らしい伝がない私には両国の架け橋など出来るわけがない。
ただ、子を産むために辺境伯家に嫁いできただけ。
この頃、私は愛人のところに身を置いて、滅多に領主館には戻ることはなくなっていた。
恐らく、近いうちに離縁となる。
隣国はいつもこの国にちょっかいを出しては痛い目を見ているのにまるで懲りない。最近の小競り合いでも賠償の話になると、辺境伯家と姻戚であることを持ち出して、支払いを渋る始末だ。
私の役目はここにはもうない。
かといって他にもない。
夫を当てこする楽しみはなくなるが、不健全な『黒い結婚』はもうお終いということだ。
離縁後の身の振り方はずっと考えていた。
修道院に入ったところで、引っ張り出されてまたいいように利用されてしまうだろう。
全部捨てる。
元々持ってもいなかったが、この身一つで国を出る。
いつ出て行ってもいいように準備が整ったというのに、王都から呼び出しがあった。
辺境伯夫妻揃って登城するようにとの王命だった。
すぐに夫と共に向かうことになった。
見送りには息子が来た。久々に会ったというよりも『見た』息子は、夫に良く似た顔立ちをしていたが、どことなく祖母の佇まいにも似ていた。
私を、私の目を見て抱き締めてくれた祖母と同じような凜としたものだった。
情が無いと言われても、ただ産んだだけの私は、息子の母にはなれなかった。
私から生まれて、この子も運がなかった。
私は謝らない。
あなたを産んだことを謝らない。
立派に成人して騎士としても次期領主としても有能さを発揮しているというから、自分の力で生きていくだろう。
恐らくは息子の代で隣国との戦端は開かれる。
息子は自分に流れる隣国の血を疎む日が来るかも知れないが、それも運のひとつと思って受け止めて欲しい。
見送りに来た息子に言葉一つかけずに、夫の今の恋人の三股をからかって馬車に乗り込んだ。
これが最後になるとたとえ分かっていても、きっと私は息子に何も声はかけなかっただろう。
王都への途上、襲撃を受けた。
応戦体制を整える間もなく、夫と乗っていた馬車が傾いた。
壁に身体が打ちつけられ、その拍子に小窓から見えた風景は遥か下の森。
落ちる。
そして助からないと悟った。
……それでもいいか、と、受け入れた。
瞬間、温かいものに包まれた。
不思議に思い見上げると、夫と目が合った。
夫が、私を見ていた。
私の向こうの誰かではなく、私を見ていた。
きっと夫も助からない。
最期になって初めて私を見た夫は何を思ったのだろうか。
私のこの感情は何なのだろうか。
もしも時代が違えば、国が違えば、この男は私を見てくれただろうか。
私はこの男を見続けられただろうか。
そもそも国と国との政略でなければ、私はこの男には嫁がず、穏やかな幼馴染みと静かに暮らしていただろう。
……全部『だろう』だ。
仮定は何の意味を持たず、答えも分からない。
でも、分かることもある。
夫とは子作り以外触れあうことのなかったが、その温もりは、嫌なものではなかった。
むしろ、私はずっとこれが欲しかったのだ。
ずっと、私を見て、私を包んで、私の名前を呼んで欲しかったのだ。
私の夢の中の夫のように。
黒い結婚と自分を揶揄して誤魔化そうが、願望は見えなくなっただけで、存在は消えてなくならなかった。
私は、この男が欲しかった。
政略結婚で、他の女を愛し、愛する女が手に入らない寂しさや憤りを埋めるように様々な女性を渡り歩き、決して私を見なかったこの男が、ずっと欲しかった。
最期くらい、自分勝手に好きに解釈しても許されるだろう。
共に生きているようで交わらなかった夫婦だったけれど、私を抱き締める温もりだけは真実なのだから、ほんの一瞬だけだとしても、私はこの男を手に入れたのだ。
そう思い、私は目を閉じた。
黒い結婚だったが、悪くはなかった、と。
唇に温かいものが触れた気がしたのは、きっと、遥か昔に死んでしまった私の夢の欠片が見せた最期の夢なのだろう。