幕間:クライブ編 ~その二~
『ギャオオオオォォォオッ!』
叫びを上げるレッドベア。苦痛に涎を撒きながらも戦意を失わないレッドベアは、噛みついてくる。クライブの右肩にレッドベアの牙が突き立てられ、ミキ、メシと音がした。肉を、骨を噛み千切らんとする音だ。
クライブは慌てなかった。両腕を地面と水平になる程度の高さにまで持ち上げ、鼻から空気を吸い込み、ニヤリと笑う。
「そいつぁ、悪手でおじゃるよ。森の頂点捕食者よ」
一瞬だけ息を止め、全身に力を入れた。筋トレの結果として太くなった血管を流れる血液の量と速度が急加速する。同時に筋力強化に回している魔力の量も爆発的に増加。
モリィッ!
クライブの筋肉が肥大化し、レッドベアを弾き飛ばした。吹き飛んだレッドベアを尻目に、クライブは肩に突き刺さったままの二本の牙をつまみ抜き、一本を握りしめる。ペキポキと小気味よい音が手の中でする。再びクライブが手を広げると、粉末状になった牙が風に流れていった。
もう一本の牙は口に放り込む。バリボリ、と音を立てて噛み砕き、嚥下する。別に食材でもなんでもないので、美味しいわけではない。ただ、相手に対する威嚇としての役割を果たしようだ。
『グ、グルゥ……』
レッドベアの口元は赤く濡れている。腕も牙も折られては戦意を失う他ない。一歩二歩と後退る。
戦いならここで終了。だがクライブの目的は逃走ではなく狩猟だ。獲物を逃すなどあり得ない。クライブは高々と右腕を突き上げ、右腕に強力な魔力が集中する。
「どっせい!」
クライブは右腕を力に任せて振るう。斬撃に魔力を乗せて放つことは珍しい技術ではない。拳圧を放つ使い手もいる。そしてクライブが放ったのは、あえて言うなら腕撃。
風の魔法ではない。筋肉愛に目覚めてからは、風魔法への取り組みは熱意を失い、家への義務感からダラダラ続けているだけで習得速度は著しく下がっている。
だが生まれついて風の魔力を持つオルデガン伯爵家の人間ゆえ、扱う魔法力そのものが風の属性を帯びている。
強力な風の魔法力を帯びた腕撃が飛び、レッドベアの首を正確に捉える。強烈な衝撃にレッドベアの頸椎は砕け、足は巨躯を支える力を失い、音を立てて地面に倒れ伏した。
クライブはたった今自分が刈り取った獲物を見下ろし、モスト・マスキュラーのポージングを決めた。自らの筋肉と力を誇ることたっぷり五秒。
「……虚しい」
吹き抜ける風に撫でられた三段ロール髪と共に、クライブは呟いた。大物を仕留めながらも、クライブの胸に去来するのは達成感などではなく、無力感や寂寥感ばかりだ。
筋肉は正義だと信じ、鍛え続けてきた。親からは学業や、家が得意とする風系統魔法の練習を強く言われても、筋肉が太く大きくなる度に全身に満ちる喜びには抗えなかったのである。喜びの度に、更なるトレーニングに打ち込む動機となった。
しかし、だ。
鍛えた筋肉は、確かに雑魚共を蹴散らす分には役に立つ。筋肉ほどではないが練習してきた風魔法も、それなりに有用だった。
自らの力を確信してきたクライブを襲ったのは、大事なところで役に立たなかったという厳しい現実であった。
あのとき、自分たちの前に立ちはだかったあの男。剣を自在に操る、見るからに貴族ではないと知れる男を相手に、クライブは手も足も出なかった。渾身の力を込めて繰り出した一撃すらも届かず、簡単に負けてしまう。
負けた上に、止めを刺されることもなかった。眼中になかったわけだ。
これ以上、いや、これ以下の恥と敗北があるだろうか。単に敗北を喫するだけでは済まない、まさに歯牙にもかけられなかった。
クライブはこの完全敗北を機に自身を見つめ直す。鍛え続けた筋肉よりも、風魔法のほうが遥かに役立った。感知でも攻撃範囲でも速度でも、筋肉は風魔法に及びもつかなかった。
過去から、敗北から学んだクライブは、オルデガン家の得意とする風魔法の習得する方向の発想は、だがまったくしなかった。
筋肉をより鍛える方向に舵を切ったのである。恵まれた環境である高位貴族の実家を出て、あろうことか山籠もりを始めたのだ。
呆れるばかりの結論と行動に、これまでクライブに寛容だったオルデガン家も堪忍袋の緒が切れる。最初の山籠もりはすぐ親に見つかり連れ戻され、自宅療養の形で家に置かれることになった。
これだけでも普通は大人しくしようという気になるところ、クライブはそれを選ばない。家から脱走するのである。山籠もりを敢行しては連れ戻されることを複数回に亘り繰り返したところ、遂にオルデガン家はなにも言わなくなった。
実家から見放された形となったクライブだったが、このことを気に病むこともなく、どころか喜び勇んで山籠もりに向かったのだ。
当初は学院を休学、もしくは退学をすら選択肢に入れていたクライブだったが、尊敬する友人が魔法騎士を目指していることを踏まえた行動を採る。長期休暇を利用しての山籠もりだ。
退寮して、山から登校することも考え、ニコルとの接点が減りそうなので取りやめた経緯がある。
すべてはマルセルに追いつくため、ニコルを守る力を身に着けるため、最終的にはニコルに告白し両想いになるために。
「ええい、まずはメシでおじゃる、メシ!」
頭を振り、倒したレッドベアを担ぎ上げる。レッドベアの平均的な体重は五百キロから六百キロに及ぶ。クライブが倒したのは平均的な個体よりも一回りは大きい。
自重もよりもずっと重いレッドベアを、クライブは軽々と担いで歩き出す。目的地は近くを流れる川だ。川に到着すると、クライブはナイフを使わずに右の手刀で素早く血抜きを行う。
貴族らしからぬ手際の良さで熊を捌き、近くの岩をこれまた手刀で斬り飛ばして大皿にし、大皿の上に熊の刺身を並べる。一連動作は迷いなく実にスムーズだ。
マルセルがしていた「いただきます」の所作の後、刺身に手を伸ばす。山籠もりの前に買い集めてきた調味料を使い、悠然且つ猛然と熊肉を平らげていく。
友人のシルフィードのような美食家ではないクライブも、美味しい食事には興味がある。それが筋肉のためになるとなれば尚更だ。
クライブのお気に入りは、最近、一部の好事家の間で話題になっているワサビだ。山菜なのか調味料なのか、クライブにとってはどうでもいい。熊肉を美味く食べることができれば、それで満足だ。
「くーっ」
鼻に突き抜けてくる感じが病みつきになっている。手製の岩皿狭しと並べられたレッドベアの刺身を、本格的に口に運んでいく。貴族としてのマナーも忘れた早食いで、刺身は二十分ほどで平らげてしまった。残りは干すなり燻すなりして保存食行きだ。
「ぷぅ」
殻になった大皿を満足げに見下ろす。腰にぶら下げていた二本のボトルのうちの一本を取り、煮沸済みの水を一気に飲み干すと、大きく息を吐き出す。
二本目のボトルに手を伸ばす。ボトルから取り出したのは色とりどりのタブレットだ。数十錠にも及ぶ錠剤を手のひら山盛りに乗せ、一気に口に放り込む。本来はそのまま飲み込むものもあるが、クライブはボリボリと噛み砕いてから飲み下す。
オルデガン家が得意とする色々な薬物を、親には無断で持ち出してきて、更に独自の改良を加えた作り上げたスペシャルブランドだ。疲労回復にも、筋力増強にも優れた効果を発揮する。筋肉の成長にも役立つ成分がたっぷりと含まれていて、ただし魔法力向上には欠片の役にも立たない。
「ぐっ、ふぅ……ぉ、ぉお、っほぉぉおおおぉぉお」
口腔内に残っていた最後の錠剤の欠片を飲み、クライブが目を閉じて天を仰ぐこと数十秒、クライブの全身が細かく痙攣し始めた。
細かく小さな痙攣は少しずつ大きく、全身に広がっていく。目は眼球がどうして零れ落ちないのかと不思議なほどに開かれ、口の端からは偶蹄類もかくやと思われる量の涎が落ちてくる。
誰が見てもどう見ても普通じゃない状況だ。