第七十六話 従魔が欲しい
停学という外聞の良くないイベント体験中のある日、俺は石の床にチョークで巨大な魔法陣を書き込むことおよそ二時間、何度も書き損じながら、ようやく最後の文字まで終わった。
立ち上がり、背を後ろに逸らす。よほどに凝り固まっていたのか、背中と腰が伸びた感じが実に気持ち良い。
チョークを握り続けてすっかり白くなった手を、パンパンと叩く。チョークの粉が取り切れるはずもなく、指に残っている分はズボンで拭く。
行儀が悪くとも、今この場には俺を注意する人間は誰もいない。監視者のラウラも、鬼家庭教師のキャロラインも、アリアとクリスも近くから離している。
地下室にいるのは俺と、欠伸をしながらプカプカと浮いているアディーン様だけだ。ポリポリとメザシまで齧っている様は、どう見ても堕落した猫である。
『お、準備でけたんか?』
「時間がかかりましたが、ようやく、ね」
別に秘密にするようなことではないのだが、原作ではなぜか本人と師匠か、または本人だけで行う描写しかなかったので、何となく一人ですることが当然であると思っていたのだ。
従魔契約。
俺がこれから行う術式である。作中の魔法騎士は全員が従魔を持っていて、当然ながら主人公もライバルも従魔と契約している。
主人公は鷲、ライバルは豹、ビヴァリーは狼、ラウラは蛇だ。
マルセルはというと、従魔を召喚した場面は一度もなく、そもそも従魔と契約しているかどうかへの言及すらない。
悪役三人組ではっきりと従魔を持っているとわかっているのはクライブだけで、彼は牛種と契約していた。やたらとマッチョなミノタウロスを喚んで、主人公たちと戦った場面がある。
『ほんで? 自分はどんなんと契約したいねん?』
「特には決めていないのですが、原作での汎用性の高さを考えると、飛行能力はやはり捨て難いですね」
『なんや、鳥かいな。それとも竜か? ほんまもんの竜種とは無理やろうけど、ワイバーンみたいな亜竜とやったら、今の自分でも契約できるかもな』
「ワイバーンですか」
顎に手を当てて、飛竜を駆る自分を夢想する。たとえマルセルでも格好よく見えるのだから、かえって困る。
原作での出番は非常に少ないが、この世界には竜騎士という職業が存在する。ワイバーンに騎乗する魔法騎士で、高い機動力を誇り、一撃離脱を得意としている、とされている連中だ。
俺としても憧れる気持ちがないではないが、原作で活躍している描写の量を考えると、どうしても鳥と契約したくなる。
主人公が沈みかけた船を助けるため、巨大なロック鳥を召喚したときは「おお」と驚いたものだ。ロック鳥を駆る主人公が猛スピードで海を渡り、ロック鳥が船を掴み上げた瞬間、同じことをしたいと思いもした。
今日、それが叶うかもしれないとくれば、興奮を抑えるのは困難である。
「最悪、空を飛べるのなら何でもいい」
『鳥がええ言うたり、何でもええ言うたり、はっきりせんやっちゃの』
「いえ、飛行種という点ははっきりしてますよ」
もっとツッコむと、いざというときの逃走のための手段が欲しいのだ。地面を走る種類よりも、飛行種のほうが俺の生存確率を上げてくれそうな気がする。
脱破滅、いや、これは離脱破滅のために必要なことなんだ。
『もしかして上手い事言うたつもりなんか?』
「……」
顔が熱くなったのはきっと気のせいだ。
二時間かけて描いた、準備も含めると更に五倍の時間をかけた魔法陣の前に立つ。原作にない展開、遂に俺にも従魔ができるのか、と心が躍る。
従魔契約は二段階にわけられる。
第一に系統契約。例えば鳥系統であり、犬系統だ この系統契約を成した上で契約者が実力を増していき、信頼を醸成し、信頼が絆と呼べるほどに強くなれば、個体契約へと移行することができるようになる。
個体契約とはその名の通り、特定の従魔と契約することを指す。
主要キャラは鳥系統全体と従魔契約を結んでいるが、主人公は鳥系統の内の鷲と従魔契約を行っている。
鳥系統全体と契約できるほどの器は持っていなかったが、これは主要キャラが抜きんでた天才であるというだけで、本来は系統すべてとの契約などできるものではない。
ただし主要キャラは系統全体との契約止まりで、特別な絆を持つ個体契約はできず、これは最終盤まで変わらなかった。
鷲と契約した主人公は、最終的には史上初めてフェニックスとの個体契約を成功させるのだ。
主人公はフェニックスにマアトと名付け、後にマアトは成体であるフェニックスロードにまで成長し、最終的には聖フェニックスにまで到達する。
『アクロス』のフェニックスは鶴のように首の長い火の鳥みたいなタイプではなく、炎を纏った猛禽、あるいは炎が猛禽の形を採っているかのように描かれている。
主人公は十二使徒アディーンと聖フェニックスの、伝説の存在二体と同時に契約するというとんでもない人物へと成長を遂げるのである。
ライバルはライバルで豹系統の従魔と契約している。
猫系統すべてとの契約ではないが、そんなことは大した問題ではない。重要なのは彼も、史上初めて暗黒豹と呼ばれる伝説上の存在と個体契約を成す点である。
問題というか、ポイントとなる点は、契約できる従魔は、術者本人が望んだ系統と契約できるわけではなく、本人の性質や適性によって決まるものである点だ。
物語の主人公で太陽のように人々の心を照らすアクロスがフェニックスを、自らの目的のために牙を研ぎつつ一人ででも動くエクスは暗黒豹を、それぞれ得た。
さて、マルセル・サンバルカンはどんな従魔が得られるのだろうか。
ここで気になる仮説がある。原作ファンらの間で従魔のことが話題に上ったことがある。原作に出てこない、しかし人気の高いキャラにはどんな従魔がいるのだろうか、というものだ。
大いに盛り上がった話題は途中から脱線を見せ始め、ここまで言えば皆まで言わずともわかるであろう。人気者には程遠いにもかかわらず、マルセルにも従魔がいるのではないかとの話が湧いて出てきたのである。
クライブの従魔が牛種であることは既に述べた。ステーキを食べているのは共食いだとか笑われていたっけな。
シルフィードは見た目から豚種の従魔だと一方的に断定されていたが、作中でシルフィードが従魔を使うシーンは遂になかった。今となっては、豚種であってもまだマシだろうと俺は思う。
なぜならこのとき、マルセルが契約しているとされた従魔はゾンビだと断定されたのだから。
性格とか根性とか性根とかが腐っているから、契約できるのは腐乱死体の魔物だけだとネット上で笑いものにされたのである。
ゾンビなんて単語がSNSのホットワードランキングの上位に出てきたときなど、逆にどれだけ人気があるんだと笑い転げたよ。
スケルトンのような骨の魔物ではなく、腐肉のついたゾンビである点がミソだ。腐った死体やゾンビウルフのような、腐臭漂う醜悪なアンデッドなら確かにマルセルにぴったりだと同意したのは、もはや質の悪い冗談であってほしい。
「もし本当にゾンビと契約することになったらどうしよう……いや、可愛い女の子のフレッシュゾンビならまだ救いはあると思いたいっ!」
『自分、死体に欲情するとか……ドン引くで、ほんま』
「違います! アンデッドが従魔になる可能性を危惧しておりまして」
『それも原作知識ゆーやつかい』
正確にはちょっと違うが、まあ、似たようなものである。
原作ではアンデッドを召喚して扱う死霊術の使い手が出てきたことはあったが、アンデッドを従魔にしている奴はいなかった。このことを踏まえると、俺がアンデッドと契約する可能性はないように思える。
『ワイの知る限り、アンデッドを従魔にした例は……あるな』
「あるのぉぉおっ!?」
俺の知識にはないビックリ事実だ。ちょっぴり生きる心地がしなくなったのは言うまでもない。プカプカ浮かぶアディーン様は、腕組みをしながら大仰に頷いて見せた。
『ああ。ゆーてもかなり昔の話やけどな。ダリュクスの奴が死んでから二百年くらい経ったころや。ええと、なんちゅう名前やったかな。せやせや、確かイカルスたらゆー名前やったはずや。一言で言うたらボケナスが出てきたんや』