第七十一話 悪役だって勝つ
右手をピストルのように。左手は右手の手首を掴む。閉眼し、俺の内側に話しかける。
哲学的なものではなく、マルセルの中に封印されている十二使徒との対話。
原作だと主人公が長い時間をかけて、ようやくこの段階にまで進んでいた。対話の席に着いただけであり、対話が実を結ぶのはもっと先の話だ。
この対話の先で、主人公はアディーン様の力を少しずつ使えるようになっていく。
俺の内面世界に巨大な、王都の城よりも遥かに巨大で、あまりにも重々しい扉がそびえ立つ。人の手では到底、開けることなどできそうにない扉。
難攻不落。この言葉をあまりにも強くイメージさせる。
そっ、と手を添えると扉は信じられないくらい軽く、だが少しだけ開いた。
――――っ!
その微かな隙間から、圧倒的な魔力が溢れだしてきた。濁流のような、氾濫のような、とてつもなく暴力的な魔力。小さな人間など容易く呑み込み押し潰す。
精神世界の中でなら、人の意識など一瞬で消し潰される。
世界を一瞬で変える魔力の大奔流の只中、俺の目は、見るという意識は、扉の隙間にだけ向けられている。
その隙間に指、いや、巨大な爪が一本、引っかかった。内側からこじ開けようとしているのか。
そうでないことは俺だけが知っている。
氾濫の中、手を伸ばす。肩の骨が砕け、上腕の骨が外に飛び出て、前腕は滅茶苦茶に、指は一本残らずひしゃげ、尚も腕を伸ばす。
あの巨大な爪は扉にかかったまま動かないのだから、こちらが手を伸ばし続けるしかない。
進もうとするたびに、体が、骨が、血管が、内臓が、神経が失っていく。
意識さえもが千切れ飛んでいく中、俺は恐らく笑ったんだと思う。笑うしかなかったんだ。
痛みに顔をしかめても、苦しみから逃れようと歯を噛みしめても、なぜか届かないような気がした。そして、恐らく笑ったのは俺だけではなかったようだ。
――――ほんま、何やねんな。まさか最初の一回で成功さすとか。原作知識やったか? 鬱陶しーてしゃあないわ。
途端、流れが止まった。
周囲には水泡のように浮く魔力の塊が漂う。全方向から襲いかかってくるかの圧力も消え失せた。最後にもう少し、腕を伸ばす。俺の腕が、僅かに引っ掛かっている爪に触れた。
瞬間、俺の全身から凶暴なまでの光が生じる。可視化できるほどに強力な魔力。ラウラもシルフィードも《スレイヤーソード》も、俺自身も驚きに目を見張る。
これが俺の考えた切り札。魔装でもなく属性融合でもない。魔装を纏うことではない。俺だけで属性融合を行うことではない。
魔装を纏うことで俺自身の魔力を最大にまで高め、俺自身の魔法とアディーン様の魔法とを融合させることこそが切り札。
アディーン様との対話ができるのなら、協力を要請することも容易い。
引き受けてくれるかどうかは微妙だったし、その場合は、魔装を纏ったままでの最大出力に賭ける他なかったから、相当に危うい橋を渡る羽目になっていただろう。
同じ属性融合であっても、前に俺が失敗したものは俺だけで行ったもの。今回は俺とアディーン様の二人がかりで融合させる
まさかアンパンで協力を取り付けることができるとは予想外だったけどね。
「集え炎 束ね 携え 敵を討て」
手で作ったピストルの、人差し指の右側に炎が生まれる。
『猛き風よ 吹き荒れろ 吹き荒べ』
アディーン様の詠唱により、右手人差し指の左側に渦巻く風が現れた。どちらも中級程度の威力の魔法に過ぎないが、融合魔法として成功した場合、威力は桁違いのものになる。
「バ、バカな!? どうなってる! 二つの魔法の同時発動だと!?」
「ぶふ!? ままままさか、あれは!?」
「そんな! あり得ない!」
この場にいる俺以外の全員にとって、同時に二つの魔法を行使している状況は驚きの対象だ。
ラウラは常の冷静さを欠いた様子で、シルフィードは治療への集中を欠いて、百戦錬磨の《スレイヤーソード》すら瞬間的に敵意を手放していた。
ギコ、と右の炎と左の風が混ざり合う。弓道もアーチェリーも拳銃も心得のない俺だが、彼我の距離は三メートルに満たない。的たる《スレイヤーソード》は十分に大きいとあれば、外すことのほうが難しい。
今の俺が使う魔力は自身のものだけではない。俺の中にいるアディーン様の魔力も使う。
もちろん強大極まりない十二使徒からすれば、俺が使っている魔力など、まさに巨象の体毛一本程度でしかない。それでも人の分際を遥かに越える魔力が、俺の体から吹き上がる。
「まさかっ!? 魔力の量が増えた!?」
悪役三人組を含むこの場の全員を倒せると目論んでいただろう《スレイヤーソード》の顔色が露骨に変わる。
それはそうだ。魔力量の増加は訓練の果てに辿り着くもので、その場その場ですぐにできるようなものではない。ましてや増幅幅が尋常から程遠い。
俺自身の努力ではなく、アディーン様の魔力なのだから、ちょっとズルをしている気分になることが玉に瑕だが、この際だ、細かいことは言いっこなしでいく。
《スレイヤーソード》ほどの実力者ならわかるはずだ。もはや優位などないことを。この魔力なら己を容易く打倒しうることを。
「小僧がっ!」
利き腕なのだろう、右腕を振り上げ、ようとして《スレイヤーソード》の動きが止まった。クライブの一撃で奴の右腕と柄は砕けている。大きく舌打ちをし、剣片の集中する左腕を掲げた。
利き腕と柄を失っても、魔装による供給魔力量を増やすことで、剣片の動きは自由自在に操作する。大地を削り消し、主人公や主要キャラを散々に苦しめた《スレイヤーソード》の技術の深奥は、しかし発動しない。
「なんだと!?」
正確には発動しているが、十全に機能していないのだ。
シルフィードが言っていた。ここからの僕は回復にかかりきりになる、と。治療に取り掛かる前、シルフィードは地面に落ちた剣片を土に取り込み、動きを抑え込んでいた。
ついさっき、地面を大きく削ったときにも、土中に混じり込んだ剣片を相当数、抑え込んでいるのだ。治療中の今も、土に残っている魔力が剣片の動きを阻害している。
《スレイヤーソード》の左腕に集中する輝きが鈍ったことは気のせいなどではなかった。
「ちぃっ!」
激しい舌打ちをして、《スレイヤーソード》が腰を落とす。大地を激しく揺らして突進してくる。左拳には圧縮された剣片。
大地をも広範囲に消す一撃俺に迫り、ガラスが砕けるような音だけを上げて、すべてが弾け飛んだ。《スレイヤーソード》の渾身の一撃は、俺を覆う魔力の膜を破ることができなかった。
「なっ!?」
あり得ない、と《スレイヤーソード》が目を剥く。驚いて、だが手を止めるほど経験に浅いわけでもない。危険性を察知し、大きく間合いを取りながら、続く二撃目、三撃目を振るう。剣片は無数。剣速は疾風。それが連続。
本来なら俺には防ぎようなどない筈のない斬撃は、いずれも立っているだけの俺の防御を破れない。
右手で作ったピストルの指先を《スレイヤーソード》に向ける。左手は右手首を掴み、狙いを固定――火と風が融合された魔力を解放した。
本来の融合魔法なら、あまりにも強力すぎる威力で《スレイヤーソード》の肉体など跡形も残らない。だが俺のこれは、アディーン様の協力を得たことで、完全制御下にある融合魔法だ。
着弾と同時に、術の構築が解け、四散する。暴風を伴う熱波が広がり、《スレイヤーソード》も、奴が操る剣片を瞬く間に飲み込む。
「ぐぁぁっぁああああああ!」
大地を揺るがす熱波が治まってから数秒、《スレイヤーソード》はグラグラと大きく揺れ、やがて、音を立ててその場に崩れ落ちた。
悪役が、やられるだけの引き立て役が、勝ったのだ。