第四十九話 ニコルとは
原作では一切描写されることのなかった、マルセルの登校再開初日。はっきり言って、以前と比べて変化なく終わったと思う。
訂正しよう。変化はあった。いい変化であるとは間違っても言えない変化だけどな。
周囲は俺に対し腫れ物に触るかのように過剰に気遣い、コソコソと視線と小声だけを向けて、少しでも俺と視線が合おうものなら、物凄い勢いで首の角度が百八十度も動くのだ。
もう、視線が合う合わないどころの話じゃない。視線が交差しそうになる前段階で、生徒たちの首は動いていた。もしかすると未来予知、最低でも気配感知の魔法でも使っているんじゃないか、と思う水準ですらある。
視線は俺の、特に毛髪をさっぱりすっぱり失って光り輝く頭部に集中していて、小声には嘲笑の比率が非常に多かった。
転生してから努力を続けてきたと思っているが、俺の努力は本当にそれこそ、何らの結実もなかったことが示されたというわけだ。ふ、泣けてくるぜ。
授業はどうだったかって? そんなものに苦戦するはずがない。マルセルとしての知識もある上に、こちとら現役大学生だったんだぞ。退屈すぎて寝てしまいそうだったよ。
思わず欠伸をしてしまったら、教師が体を震わせたのは、「つまらない授業をしてしまった。クビにされるかも」とでも思ったのだろうか。
だとしたら、我が身の不徳を恥じる限りである。悪役評価を覆すにはまだまだ時間がかかりそうだ。
『ボーっとしてどないしたんや? 間抜け面がより締まりのないアホ面になっとるで』
「もうちょっと言葉を選んでいただきたい!」
アディーン様が話しかけてきたのは放課後、俺がいるせいで半径十メートルに亘って誰も寄り付かない中庭で一人、口を半開きにして中空に視線を送っているタイミングだ。アディーン様の言い方だと、考え事をしていたはずなのに、頭を空っぽにしていたように聞こえるじゃないか。
『わーった、わーった。ほんで、なにを考えとったんや?』
「ニコルのことですよ」
『ニコルゆーたら、さっきのメイドのことかいな』
「ええ、俺もかなり好きなキャラでした」
ニコル・ロッサは主人公と同じく平民出身で、貧しい家の出ながら平民にしては高めの魔法力を持っていたことで、ここ魔法騎士学院に入学する。
貴族のように入学前から家庭教師がついて勉強ができるような家庭ではないため、入学時点での学力は低い。だが高い吸収力と学ぶことへの貪欲さから、入学後一ヶ月にして、抜き打ちの小テストで満点を取るようになっていた。
そんな彼女が食堂で働いているのは、偏に生活費の足しにするためである。
ここミルスリット王国は周辺各国と比べても頭一つ抜きんでた国力を誇り、経済的にも豊かなため、学生の生活自体は保障されている。
衣類は定期的に、朝夕の食事は無料で提供、医療だって学院付きの魔法騎士に診てもらえるのだ。もちろんこれも無料で。
ただし学生の家族についてはこの限りではなく、ニコルは貧しい実家の生活を支えるため、給金の良い学院食堂で働いているのだ。
原作のマルセルは「誇りと名誉ある魔法騎士学院の生徒が飯炊き女どもと同じ場所で働くなど、断じて許されることではない。どうしても働きたいなどと戯言を口にするなら、魔法騎士を諦めてしまえ!」などと口汚く罵るのだ。
しかも罵るだけでなく教師に働きかけて、露骨に排除しようと試みるのである。
原作初期の時点では、サンバルカン公爵家の権力におもねる教師たちも多く、またサンバルカン公爵派閥の生徒たちもご機嫌取り目的で動いたため、ニコルは苛烈なイジメに遭っていた。
それでもニコルは魔法騎士になるという夢を諦めなかった。耐えるばかりではなく、ときに反撃もするほどで、マルセルは引っ叩かれたこともある。
叩かれたマルセルはニコルを退学処分にするだけでは気が済まなくなり、決闘を押し付けるまでの大騒ぎを起こした。
権力を濫用した決闘は学院側に受理され、だが決闘当日になってマルセルが強烈な腹痛と下痢に襲われ、マルセルの不戦敗になったのだ。
ニコルを不憫に思い、マルセルを嫌った食堂のメイドたちがマルセルに一服盛った結果である。
可愛い女の子で、才能もあり、努力家で、苦労しつつも腐らないニコルは初登場時から人気が高く、加えて序盤で悲劇的な死を遂げたことから、だからこそファンの間では大きな存在感を持っている。
そう、来週に行われる初実習。
原作通りだと、ニコルは主人公と同じ班となり、実習中に主人公を庇う形で死亡するのだ。
ニコルの死により己の力不足と現実と厳しさを思い知った主人公は、必死になって訓練に勉学に励むようになる。
ニコルの死以前は、「立派な魔法騎士になる」程度のぼんやりとした目標しか持っていなかった主人公は、ニコルの死以後「人々を守り抜く」「二度と犠牲を出さない」と固く誓うのである。
主人公の道を決定づけた人物と言ってもよく、死亡後もニコルは回想や夢という形で何度も主人公の前に姿を現す。
マジで少年漫画かよ、て感じの重たい話なのだが、話が進むと、このニコル死亡にはマルセルがかかわっていることが判明する。
主人公に恥をかかされたと認識していたマルセルは、同じく自分を叩いたニコルも一緒に、実習中の事故に見せかけて痛めつけてやろうと画策したというのだ。
マルセル自身は別の場所での実習に出ていたため、付き合いのある無頼者に命令して襲わせたとのこと。
『クソやな自分』
「返す言葉もないが俺ではないと声を大にして言わせていただきたい!」
余談だがシルフィードは原作五十五巻において、死亡したニコルを蘇生することで主人公を懐柔しようとするが、かえって主人公とその仲間たちを激怒させる結果となる。
まったくもって「命を弄ぶ担当」に相応しい下劣な手段であるにもかかわらず、シルフィード本人はいい考えたと思っていたとところが尚のこと救いがない。どうして僕の心遣いがわからないんだ、と喚く様に、決して悪役三人組と主人公たちはわかりあえないのだと思ったものだ。
『発言は自由や。声を大にしようが特大にしようと構へんで。周りに聞こえんようにしたほうがええとは思うけどな』
「なぜですか」
『んなもん、自分がいくら言うたところで、責任逃れか責任押し付けのためのもんやと思われて終いやないかい』
「仰る通りです。けどまあ、大丈夫ですよ。無頼者の情報はマルセルの記憶の中にありますけど、今の俺はおニューマルセル。連中とは連絡を取ってませんから、このイベントは起こらないでしょう」
うんうん、と頷く俺。悪い仲間とは縁を切る。ドラマでもよくあるように、これも悪役からの脱却に必要なことだ。
空中でアディーン様は小首をかしげた。どうやら俺とアディーン様の間で見解は統一されていないようだ。
『自分、なんや忘れとんちゃうか』
「へ?」
『自分が使うとるあの連中、将来的な身分を保障しとったやないか』
「え゛」
その情報、初耳なんですけど。
『なんやったかな、自分の言う通りにしとったら十分な金も支払うし、将来、自分が大人になったら騎士として取り立ててやるとか言うとったやろ』
「え゜」
『言うたらなんやけどあの連中、自分への忠誠心、結構持っとるで? アクロスは自分をぶっ飛ばしたんやし、ニコルやったら、皿を拾わせやがってとか勝手に解釈するんとちゃうか?』
「ちょちょちょっちょちょっちょ」
『チョウザメがどないしたんや? ああ、キャビアやったか、確かに美味そうやな』
「違いますからね!?」
『わかっとるわい。無頼者やろ? 先走ってもおかしないんちゃう? 連絡打ち切ったんやったら、尚更、手柄を立てよう思て焦るやろうし』
「え‴」
『さっきから自分のそれ、どない発音するねん』
アディーン様の指摘に、俺は凍り付くことしかできなかったわけで。悪い仲間と縁を切ろうとすると、かえって近付いてくるのも鉄板かよ。