第四十五話 ヒ、ヒロインが……
「あ痛たたた」
正座で痺れた足をさすった。日本人なので正座をした経験はある。でもマルセルとしては生涯で初めての正座だ。
ものの数分で痺れてきて、アリアからの説教が終わった頃には、立つこともできなくなっていた。隣では、正座を免れたカリーヌが涼しい顔で立っている。
おかしい、クリスにお菓子を上げたのはカリーヌも同じなのに、アリアの説教の矛先は俺だけに向けられていた。カリーヌに対しては、去り際に一言、先輩も気を付けてください、とだけ。
不公平だ、叫びたい。叫んだところで誰も相手にしてくれそうにないので、やめておく。喉を痛めるだけあほらしいというものだ。
痺れに耐えながら立ち上がる。これが主人公なら、バランスを崩してヒロインのおっぱいに飛び込んでいるだろうに、俺の場合、机の角に頭から突っ込んで一貫の終わりだろうな。
「大丈夫ですか、坊ちゃま」
「説教には慣れている」
情けない事実だ。両親からもラウラからも、直近ではお姉たまからも怒られている。
怒り終わった後のアリアはノートを提出し、お菓子を持って出ていった。頬をほころばせて部屋を出ていく様子には、ほっこりとしたものだ。
椅子に座り、大きく息を吐き出し、天井を見る。
グラードの件が片付いて以来、俺の周囲の環境はかなり良くなった。
親からは、帰宅を催促されること複数回。その度に「まだ心身の回復具合が思わしくなく、もうしばらくの療養を」と並べて、俺はグラードに居続けている。
公爵邸に帰ると、破滅路線に縛りつけられそうな気がするんだよな。
原作マルセルの本拠地であるグラードに居続けることもリスクがあるように思えるが、それでも実家よりはマシなような気がするんだから、俺にとって実家がどれだけの鬼門なのかと思う。
アリアとクリスとニーガンを雇い入れたといっても、親父殿がいると間違いなく即刻解雇するだろう。それどころか、奴隷商人に売り払ってしまうかもしれない。
獣人を見下しきっている親父殿に知られないよう、彼女たちを守るには俺の目の届く範囲にいてもらわなければならない。という、まっことのっぴきならない事情により、俺もグラードに留まり続けることになる。
シルフィードとクライブは帰ったので、グラードの屋敷にいるのは、アリアたち以外では俺とカリーヌだけだ。
そう、ラウラがいないのである。
親父殿の命令なのか、シャールズベリからの指令なのかは検討もつかないが、原作ヒロインの一人がいなくなったことは、実に実に喜ばしい。
ラウラがいなくなったら、ラウラ以外のシャールズベリの人間が送り込まれる可能性も高い。送り込まれた相手が俺の知識にない人間である可能性も考えられる。
脱破滅についての評価指標になり得るラウラがいなくなることは、リスクと言えなくもない。でもまあ、俺の精神安静的には、ありがたいと言える。ありがたいとしか言えないな。
クリスも原作ヒロインなので、差し引きゼロじゃないかって? ゼロなはずがないだろう。ラウラは現時点で俺に対して警戒を抱いているが、クリスは違う。
救出したことで好感触を持ってくれている。たとえ同じ原作ヒロインだとしても、俺に手を下した実績のある相手がいなくなる事実は、素直に喜ばしい。
ラウラにはこのまま公爵家から姿を消して、主人公の監視にでも行ってほしいものだ。ついでに上層部には、マルセルは危険要素のない凡俗です、とでも報告しておいてほしい。
グラードでの生活は順調だったと思う。アリアたちには、十分な給金と学習環境と衣食住を提供した。資金源は俺の小遣い、ひいては税金だから多少、複雑な気分になるが、今はまだ目を瞑ろう。
三人とは良好な関係を築くことができたと思うし、俺自身も魔法や剣の練習もできた。
学力ついては、俺自身はともかく、学ぶ意欲の高いアリアたちはすこぶる向上している。もちろん個人による差はあった。
たとえばクリスは、どちらかというと家事などの仕事で体を動かすことが好きなようで、勉強は嫌がることが多い。
俺の対応は、嫌がるクリスを引っ張って机の前に連れて行く、ような真似はしない。ケモ耳に触れる機会を、自ら減らしにかかってどうするのか。
俺がしたことは、学力は将来にとって絶対に必要になる、という説明だけだ。貴族の肩書が効いたのか、クリスも渋々ながらテキストを開いてくれた。その小さなふくれっ面には萌え死にそうになったが。
しかも一旦、机に向かうとその集中力と吸収力は凄まじく、通常なら一月はかかるカリキュラムを数日で片付けてしまうほどだ。
学力においてもっとも優秀なのがアリアだ。貧困層であったことから学ぶ機会を奪われていた彼女は、俺やクリスよりも学ぶことへの意欲が高く、その吸収力も桁違いだった。
一年もすれば俺の学力などあっさりと追い越して、仮に学院に行っても屈指の水準になるんだろうな。
姉妹揃って大きな魔法力を持っていて、特に風の魔法への適性が高いことがわかる。クリスは原作で強力な風魔法を操っていたのでわかっていたのだが、姉のアリアも同じ風属性だったということか。
火属性の俺とは相性がいいと喜ぶべきか、強力な風魔法の使い手が増えたことを脅威と感じるべきか。
姉妹の学力と魔法については何の問題もない。俺に対する警戒感や不信感も、今のところはさして強くはない……と思いたい。現時点では恐らく、俺の破滅ルートへの影響は小さい筈だ。
運命力とかいう、不愉快な力が働かないことを祈る限りである。
学力の伸びが悪いのはニーガンだ。ニーガンは勉強自体が嫌いな上に、机にじっと座っているよりも体を動かすほうが好きだというタイプで、ノートは真っ白か、落書きだらけという有様だった。
なんだか小学生にこんな男子をよく見た気がする。テキストにも落書きをしている様子は、典型的な授業中暇やで学生である。
反面、魔法と剣術と体術への関心は非常に高く、そっち方面の上達具合ときたら、思わず逃げ出したくなったほどだ。
魔法力だけで言うなら、貴族の俺のほうが明らかに勝っているが、剣術ではかなり迫られ、体術では五回に三回は負ける。体力面では既に完敗だ。
アリアとクリスはともかく、ニーガンは年長ということもあって貴族への怒りに憎しみ、不信が根深い。俺がせっせと築き上げた評判も手伝って、俺への警戒もまだ十分に解けていないことがわかる。
特に剣術や体術の練習の際には、木剣や拳に貴族への怒りが乗っているように見えて仕方ない。
うん、ニーガンの態度や言動が好意的なものに変化するようなら、俺の脱悪役ルートの目安になるかもしれない。今のところ、大した変化はないけどね。
全体として、今回の療養は成功だったと思う。差別対象である獣人を助けたことは、カリーヌからの信頼アップに繋がった、はず。
原作では死んでいたアリアを助けることができた上に原作ヒロイン、つまりは俺を倒しにくるはずのクリスからの好感度を得ることもできている。
執拗にマルセルを追い詰めてきた銀仮面も含めて、決定的な破局には至っていない。いや、味方に引き入れることができていると評価していいのではなかろうか。
どういう理由からか、俺を警戒しているラウラと距離を置くこともできたし、監察官のキャロラインの目からも逃れることができている。
原作における最大の敵役、黄昏の獣たちの尻尾の先端くらいは見つけることができた。接点はできてしまったが、少なくとも良好とか友好とかの言葉からは縁遠い筈だ。
唯一、唯一の問題点として見受けられるのは、
「ニーガン、稽古お疲れ。はい、タオルと冷えた水ね」
「ありがとう、カリーヌ先輩」
これだ。カリーヌとニーガンの距離が非常に近いのだ。
初対面こそ警戒から離れていた二人は、共に働くうちに早々に打ち解け、どころか急激に距離を縮めていった。
おやぁ? 原作では最後の最後まで俺の味方でいてくれたカリーヌが、俺の宿敵ともいえる銀仮面と仲がいいなんて。
カリーヌは俺のヒロインじゃなかったの? ハゲの悪役貴族より、スポーツマンタイプの美形のほうがいいのか?
『ええに決まっとるやろ、んなもん』
「ですよねー」
カリーヌは俺の味方のはず。カリーヌと仲良くなるのなら、銀仮面だって俺の味方になってくれる可能性が上がる、はずだ。そう思うようにする。
やだな、泣いてないよ。目から流れているのは、ただの汗さ。運命とかを憎んだりなんかしてないんだからね。
そんなことを考えていたら、登校禁止期間が終了した。
こうして俺は、マルセルが悪役としてもっとも輝く場所、原作の舞台へと戻ることになったのである。