第四十四話 休憩室にて
その一室は私室ではなく、使用人たちが休憩するために用意されている部屋だ。
聞くところによると、他の屋敷では貴族とその使用人の生活スペースはかなり厳格に管理されているとのことだが、ここ、グラードの屋敷は規格外に緩いらしい。なにしろ雇い主の貴族が嬉々としてこの休憩室にやってくるくらいだ。
「おねえちゃん、できたよ!」
「え? もう、できたの? お姉ちゃんはまだなんだけど」
休憩室の中央に置かれている大きな机の上には、筆記用具が三人分置かれている。使用しているのは二人。アリアとクリスの姉妹だけだ。ニーガン用のノートやペンは、姉妹に比べると不使用感が強く漂っている。
「カリーヌおねえちゃんにみせてくるね!」
「あ、ちょ」
言うや否や、クリスはノートを持って勢いよく休憩室を出て行ってしまう。
「まったく、また怒られても知らないからね」
姉の呟きは、妹の耳に届く遥か手前で消えてしまった。
カリーヌやマルセルなら、見つかっても怒ったりはしない――むしろ、よく頑張ったね、と褒めてくれる――だろうが、ラウラに見つかると注意は免れない。
昨日も同じ間違いを犯したばかりだというのに、クリスは微塵も気にした様子がない。クリスの行動力を支えるものは、課題終了後に貰えるおやつの数々だ。
貴族の屋敷に相応しく、これまでの人生で食べたこともないようなものばかりが用意される。クリスが心と胃袋を鷲掴みにされるのも無理からぬことだ。
もちろん、学ぶことの楽しさが起源にあることは言うまでもない。
十歳未満の貴族の子弟向けの教科書にノートに筆記用具を目にしたとき、姉妹の高揚は自分でも信じられないほどの強さであった。
教えるのはまさかのマルセル本人。これにはカリーヌもラウラも驚いていた。更に驚くべきことに、マルセルの教え方は非常にわかりやすかったのである。
計算では数字を書いて公式を教えるだけでなく、果物やおやつを並べて丁寧に教えくれた。
運動では自分が汚れ役になるのも厭わず、クリスのタックルを受けて池に落ちたことも一度や二度ではない。工作では手ずから見本を作り、アリアたちが作ったものを見てがっくりと肩を落としもした。
「ほんと、夢みたいな生活……」
見直しの結果、計算が間違っていた式を消しながらアリアは呟く。この問題を含めて残り三問で、教科書一冊分の勉強は終わる。
驚くべき吸収速度であることを、姉妹は共に理解しておらず、だからこそマルセルたちが大きく目を見張る理由がわからなかった。
獅子人族の少女、アリアは両親の顔をはっきりとは覚えていない。知っている家族の顔は妹のクリスだけだ。
獣人狩りを行う貴族たちから逃れて生活する中、不衛生な環境でクリスを出産せざるを得なかった母親は、病に倒れた。
父親は獅子人の一群を率いる族長であったと聞かされてはいても、実際に父が勇敢に戦った姿など見たことがない。
アリアが家族について知っていることは少なく、確かな話として知っていることは、父親は自分たちを守るために貴族に立ち向かい、殺されたということだけ。
獣人として王国に生まれ落ち、散々、苦労してきた。王国に生まれながら、王国民としての扱いを受けることはなく、交換可能な労働力として搾取され続ける。
労働力としてならまだいい。安易な暗殺の手段として、使い捨てられることすら珍しくない。アリアとクリスはまだ幼いが、子供がいい、あるいは子供でないとダメだという変態もいる。
獣人をあらゆる意味で利用しようとするあらゆる連中から、姉妹は必死で逃げてきた。
他の獣人の仲間たちと底辺で、それこそ汚泥をすすりながら生き抜いてきたが、貧困と差別と迫害の渦の中で散り散りになる。家族としても仲間としても、彼女に残されたのは妹だけだ。
豊かな公爵領で、庶民の暮らしは苦しくなっていく。理由はサンバルカン公爵が実施する増税だ。庶民の生活水準が低下すれば、元より劣悪な獣人の生活は更に酷いものになることは自明。
なんとか抜け出そうと足掻いても、貧困の手は異常に長く、しかも二本どころではない数で、複雑に姉妹を絡めとっていたのだ。
懸命に学べば、あるいは世界に変革をもたらすだけの知識や経験を得られたかもしれないが、学ぶ機会すらアリアはなかった。
ボロボロになって捨てられていたノートを拾ったことがあったが、文字が読めないので意味がなかった。明らかに自分と近い年齢の子供が書いたらしき文字を読めなかったこと、これががたまらなく悔しかった。
学校に通って学びたい、少しでも栄養のあるものを食べたい、せめて屋根のあるところで寝たい、程度の願いすら叶うことはない。
どれだけ頑張っても、どこまで逃げても、最低限の人としてすら認めてもらえることはないのだと、絶望していた。
この日だってそうだ。獣人だというだけで攻撃される。獣人には価値があると言う。獣人は痛めつけてもいいと言う。好き勝手なことを口にしながら、結局は同じことをしてくる。
仲間たちは獣人の誇りを忘れるなと言う。でも誇りが一体、何の役に立ったというのか。下手に獣人の誇りを振りかざした結果は、元人を自称する加害者共をより刺激するだけだ。
抵抗する気力はすっかり消え失せ、諦念と共に、状況がさっさと過ぎ去ることだけを願っていた。
現れたのはあまりにも予想外の人物だった。
獣人を蔑み虐げる貴族、その筆頭の公爵家の人間。公爵領の獣人を苦境に追い込んでいる張本人。怒りと憎しみの対象。殺せるものなら殺してやりたい、と考えていた相手が唐突に現れ、言ったのだ。
民は守る、と。薄汚いと蔑まれ続け、自分自身でさえ「自分は卑しい獣人だから」と思い込もうとし始めていたところだったのに、
――――つまりお前は俺の民だ。誰であれ、民が虐げられているのなら見過ごすつもりはない。
そんなことを言ったのだ。
才能は未だ見出すことはできず、財産は持っておらず、権力など持ちようはずもない、そんな取るに足らない存在を、守る、と言ったのだ。
今まで誰かに助けられることはなかった。同じ獣人ですら、後になって慰めてくれたり怒ってくれたりすることはあっても、巻き込まれることを恐れてその場で助けてくれることはなかった。
仲間意識の強い獣人が、我が身可愛さに仲間を見捨てる。それほどまでに、公爵領の獣人たちは、自分たちは追い詰められ、気概すら奪われていたのだ。
なのに公爵家の人間が、貴族の筆頭が、自分たちを虐げる世界を作ってきた連中が、その後継者がまさか助けに来てくれるとは。
正義の味方が颯爽と現れて助けてくれることを、夢想することはあった。少なくとも最初の頃は。
困っている自分たちを助け出してくれる、本物の英雄がいるものだと縋っていた。
王国などと敵対している獣人国家の王様あたりが唐突に現れて、あらゆる苦難から自分たち姉妹を救ってくれるのではないか、などと甘ったるい夢を見たこともある。
夢を見なくなってから、僅かばかりの期待すら抱かなくなってから、どれだけの歳月が過ぎたのか。
だからこそ、貴族に助けられるなど想像の遥か外側。見返した顔は、正義と信念に満ちた強い顔をしていた。瞳には強い意志が漲っていた。
この人ならもしかして。
一瞬だけだ。誰かに、なにかに期待することを諦めていたアリアの内側には、本当に一瞬だけ、安心や期待を抱いた。
「おねえちゃん、わかさまからもらってきたよ!」
出たときそのままの勢いで戻ってきたクリスの両手には、溢れんばかりのお菓子があった。
妹をあまり甘やかさないで、と以前にも言ったことだが、どうも雇い主にはきちんと浸透していないようだ。お菓子を渡すついでに、頭を撫でて、更についでに獅子人の耳を触ろうとしているのだろうか。
「まあ、クリスもしっかりしているから、そうそう触らせたりはしないだろうけど」
「おねえちゃん?」
「カリーヌ先輩に会いに行ったんじゃなかったの?」
「いっしょにいたんだ。みてもらったよ」
そうかそうか。大量の菓子の理由は、二人から貰ったからか。アリアは得心に頷いた。
「それじゃ、お姉ちゃんも見せてくるから、ちょっと待っててね」
「はーい」
と言ったところで、クリスがお菓子を我慢できるはずもない。戻ってくるころにはすっかり平らげて、姉が受け取ったお菓子に強い興味を示すはずだ。
とりあえず雇い主と先輩には、妹への対応についてもう一度、きっちりと話をしておこう。
アリアはノートを持って休憩室を出て行った。