第四十二話 見下ろすものたち
グラード地方にはハイキングに適した山や丘がいくつかある。その内の一つは倉庫を見下ろせる位置にある小高い丘で、慌ただしく動き回る官憲や救出された子供たちを、酷薄そのままの目で注視する影があった。
一見すると旅人を思わせる、薄汚いフードを羽織っている。僅かに覗く身体ははっきりと筋肉質で、目付きの鋭さも相まって熟練の強さを感じさせた。
「ワルサーのバカめ。せっかくの資金源を潰しちまいやがって。役に立たない奴だ」
苛立たしげに地面を蹴りつける。他にも資金源となる子供が何人もいたのに、誰一人として確保することができなかった。
「資金繰りは、まあいい」
彼の所属する組織にとって、ワルサーはいくらでも替えのきく部品だ。
資金減の一つが消されたのは確かだが、他にも国中、いや大陸を覆う規模での資金網がある。ワルサー一人がいなくなったところで、巨象の体毛一本を抜いた程度のことでしかない。
フード男は冷淡で、冷血な性だ。資源扱いされて売り払われる奴隷たちへ思いを馳せることはない。だから男にとって資金についてはどうでもよく、しかし別の面では無視しづらい失点があった。
「せっかく貴族がいたのに、一人も殺すことができなかったとはな」
それも希少価値の高い高位貴族の子だ。貴族の子供を誘拐なり殺すなりしていれば、貴族と平民の対立を煽る材料にもできたろうに。実際に他の地域で貴族子弟誘拐や殺害に至り、社会の分断をより深くすることに成功した事例もある。
公爵領で同じことができたなら、彼と彼の組織にとっては十分に納得できる成果になっていた。なにしろ悪名高いサンバルカン公爵家。息子が殺されたなら、苛烈な報復に出るだろうことは想像に難くない。
彼の組織が少しだけ後押しをしてやれば、内戦状態にまでもっていくことも考えられる。血と戦乱は怒りと憎悪を生み、怒りと憎悪は悲しみと、同時に勝利の高揚を生む。
貴族たちであれば平民共を叩き潰したという名目で、平民たちであれば反乱を成功させたという名目で。
いずれにしろ敗者にはより深い憎しみと怒りと、争いの火種を残すことになる。
王国に、帝国に、共和国に、自治区に、少しずつ少しずつ火種を撒き、燃える範囲が広くなっていくよう仕組んでいく。
いざ着火させたなら、二度と取り返しのつかない、誰にも消すことのできない大火となって、世界全体を巻き込み飲み込む。
「ちっ」
男は先程より強く地面を蹴りつけた。小石が宙に跳ね、地面に落ちることなく消えた。否、抉り消されたのだ。
「随分と荒れているナ」
「《カラドボルグ》様!?」
現れたのは同じくフードを被った、体躯においては一回りは小さい人影、それも女の声だった。フード男の体温は、女の出現だけで急激に下がった。
フード男とて荒事の世界に生きている身だ。命のやり取りには慣れているし、常に勝ってきた自らの力にも自信がある。
この組織に所属する前から腕自慢といえるだけの技倆を持っていた。組織に所属してからも訓練を、そして実戦を欠かしたことはない。己の実力は、世界を見渡しても上位に入るものだと考えている。
同時に、世界最強ではないことを痛感していた。強さを求めるあまり、世界に争いと混沌をもたらさんと目論む組織へと入り、そこでのし上がることを信じて疑わなかった。
今や自己に対する過信であり妄信であったことを悟っている。
組織に入った最初の頃、強者を出せ、と居丈高に要求した。まだ早い、などと弁舌で濁すつもりなら即刻、組織を抜けるつもりだったが、組織の側は直ぐに相手を用意してきたのである。
いや、要求から時間を置かずに相手が来たことから、最初から用意されていたのだろう。フード男の思考が読まれていたのか、組織に入る人間の多くが要求することだからなのか。
姿を現したのがこの《カラドボルグ》、今もこうして目の前に立つ女だ。フード男が挑んだ三年前はまだ、《カラドボルグ》ではなく別の名前だったが、いずれにせよフード男は完敗を喫する。
当時は二回りも小さかった《カラドボルグ》に、手も足も出なかった。以来、フード男は《カラドボルグ》に師事するようになり、またいずれは越えることを目標に何度となく挑み続けているのだ。
結果、二ヶ月前には右目を失う結果となったが、フード男は気にしていなかった。右目を失ったのではなく、隻眼を手に入れたのだと考えている。隻眼になったことで更なる高みへと昇って見せる、と決めていた。
「なぜ貴女がここに? 本部にいるはずでは……」
「かわいい弟子の様子を見に来くることが不思議カ?」
「本物の《カラドボルグ》様がそんなことを口にするはずがない。偽物か」
「よかろウ、戦争ダ!」
ブン、という唸りと共に《カラドボルグ》の拳が放たれ、フード男は余裕で避けた。
「この沸点の低さは本物ですな」
「貴様はどこで判断しているんダ」
まあいイ、と《カラドボルグ》は嘆息した。
「任務は失敗、カ」
「申し訳ありません。マルセル・サンバルカンめに邪魔をされました」
「予想外の名前だナ。まさカ、悪名高いあの男が介入してくるとハ。力を求めて接触してくるタイプだとばかり思っていたガ……情報収集に手抜かりがあったカ?」
「我が組織の情報部門はそこまで無能ではありません。事実、公爵領内の市民一人一人に至るまで、マルセル・サンバルカンの評価は一貫しています。曰く、無能。曰く、クズ。曰く、悪徳貴族の体現者。他にも、神が作った最大の失敗作、最低最悪最劣のゴミ貴族、人間の成れの果て」
「お、おゥ……凄いナ」
そう、マルセル・サンバルカンについての情報に誤りはなかったはずだ。獣人を助けに来ることなどあり得ない。獣人のために力を使うなど考えられない。獣人を受け入れるなど、例え神でも予想できないに違いない。
だが現実として、マルセル・サンバルカンは獣人を助けるために動き、実際に助けてのけたのだ。これはなにを意味しているのか。
「情報部門の怠慢でないというのなラ、奴はこれまで姿を偽っていたということになル。組織の目をも欺く精度デ」
「偽ることに何の意味があるのでしょうか? 民衆からの憎しみを集めるばかりですが」
「魔障石を回収されたナ」
「!? まさか、奴は最初からそれが目的であったと? クズ人間の姿は侮られるための演技だと? であれば、奴は黄昏の獣たちのことを知っているの可能性もあるのでは?」
「そこまではわからんガ……少なくとも魔障石の魔獣ハ、学院の生徒レベルの実力で対抗できるものではないことだけは確かダ。組織が持っている情報よりモ、明らかに強イ」
「は、それは確かに」
魔獣化したワルサーは、フード男や《カラドボルグ》からすれば雑魚でしかない。だが一般兵から見れば脅威だし、貴族が生まれつき魔力が高いといっても、学院の生徒などに後れを取るものではない。
「奪われた魔瘴石だガ」
「申し訳ございません」
「いイ。出来損ないの石だから大したことはわからんだろウ」
ワルサーに提供した魔瘴石は質の悪いものだ。純度も耐久性も低い。持ち主の精神を少々、高揚させ理性のタガを外れやすくする効果が主眼だ。万が一の事態になれば、魔瘴石の力で操れるようにも設定している。
重要なのは二点。
魔瘴化した人間が訓練を受けていない人間の場合、元に戻っても精神は破壊されるということ。つまり確保したところで情報を引き出すことはできないということだ。
もう一点、魔障化した後の魔障石は力を失う。純度の高いものなら自然に力を回復するが、ワルサーに渡した程度の石なら、失った力は戻ることはない。ただの石ころになるわけで、これからも情報は引き出せない。
純度の低い魔障石など、組織から見ても重要ではない。だが自分の担当する石が回収された事実自体が好ましいものではないのだ。
「あのガキ、単に十二使徒の器だとばかり思っていたが……出来の悪いぼんくら貴族というわけでもなさそうだ」
この借りは返させてもらうぞ、マルセル・サンバルカン。男はそう呟いて、拳を握りしめた。