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第二話 マルセル・サンバルカンだった

 血塗れのベッドの上で、頭を抱える。血はまだ乾いておらず、どうやら、盛大に喀血してから大した時間は経っていないようだ。確かなのは、この体の本来の主は吐血して死んだらしきこと。代わって俺がこの体にいることだ。


「それにしても、ホントに異世界転生とは……トラックに轢かれた記憶はないから、過労死のほうなんだろうな」


 悪いのはすべてバイト先だ。ブラックな職場で、タイムカードがなく、出勤していても休日にされ、日に何度も減給処分が出るのは当たり前。休み希望には罵声と怒号。繁忙期になると講義に出る暇すらなかった。


 強烈な心労となって残業時間百時間を超えていた俺の肉体に降りかかってきた。不甲斐なさと苛立ちから、安い酒を何本も空けたところまではどうにか覚えている。


 酒を飲みながら部屋に帰り、そのまま床に平積みしている漫画を読んでいた、よな……確か。


「と思う。大学進学のとき、実家からコミックを全巻持ってきたんだよな。普段は好きなエピソードの載っている巻を読むことが多いのに、あの日は久しぶりに初めから読み直したんだっけ」


 偶にはそんな気分になることもある。「そうそう、こんな感じだったなあ」「ああ、いたいた、こんな奴」「うっわ、今とは全然、絵が違うな」とか考えながら、ページをめくっていた。


 前半で最も気に入っているエピソード、その最後のシーンが載っているのは確か二十一巻。十九巻か二十巻を読んでいる途中から先を覚えていないが、転生していることを考えると、どうも寝落ちならぬ死落ちしたらしい。


「転生はまあいいとして、あの夢だか記憶だかの内容は……」


 この体が持つ記憶はあまりにもリアリティがあり過ぎる。


 体に突き立てられる鋭い痛み。体に振り下ろされた鈍器の痛み。叩きこまれた拳の痛み。ミンチのようにすり潰される痛み。


 えげつない恐怖に苛まれる。


「顔でも洗うか」


 何気なく大きな窓から空を見上げると、


「…………はい?」


 すっかり夜の帳が降りた空には、二つの月が浮かんでいた。一方は緑で、一方は赤い。


「ああ、なるほどね。わかった、わかったよ。これも夢なんだろ? まったく、何だって月が二つもあるんだよ。つか、こんな酷い目に遭う夢、さっさと覚めてくれよ」


 ぶつぶつと考えていると、不意にあることが引っかかった。


 あの月に見覚えがある。生粋の地球人の俺が、二つの月を空に見たことはこれが初めてだ。色だってあんな色は見たことがない。けどもっと別の場所で見た覚えが。


『なんや、目ぇ覚めたんか?』


 どこからかボーイソプラノの声が聞こえてきた。初めて聞くはずの、聞き慣れた感のある声。頭上に首ごと視線を向けると、ちょっと見えてはならない類のものが見えてしまっていた。


「………………は?」


 体長二十センチくらいの猫が空中に浮いて、冷めた目付きで見下ろしてきている。愛らしさよりも精悍さよりも、ぐでっと感に溢れている猫だ。


「OH……見覚えがありすぎんるですけど……」


 金魚さながら、口を何度も開閉するだけの無駄動作を繰り返してしまう。


 これは当然のことだと考える一方で、いや違うこれは幻覚だ、と懸命に否定する考えが伯仲する。


 頭を振り回すと、改めてやたらと巨大な姿見が視界に入る。


「え?」


 姿見の中の姿は見慣れたものではなかった。大手ファストファッションで買いそろえた衣類に身を包んだ、中肉中背から少し太り気味の大学生の姿はそこにはなく、


「いや……いやいやいや。ちょっと待ってちょっと待って下さい。うん? あれ? どういうこと? これってどういうこと?」


 二度見した。冗談抜きで、目玉が飛び出そうという表現が相応しい状況。


「おいおいおいおい……マジか、いやマジですか?」


 バカでかい鏡の中からこっちを見返していたのは、知るはずのない顔だった。


 知らない? 自分で口にした表現に、疑問符が大挙して抗議の声を上げてきた。


 そんなはずはないだろう、と。


 この顔をよく知っているだろう、と。


 決して自分のものではない、この悪党面。この顔はまさか。


「マルセルぅ!?」


 マルセル・サンバルカン。


 当年とって十二歳になる少年、が鏡の中で珍妙な顔で驚いていた。


 容赦なく襲いかかってきた心身への衝撃がすべてを思い出させてくれた。この世界がどこであるかを。俺が誰であるかを。


 世界的な超人気漫画「アクロス」の、それに出てくる悪役(ヤラレ役)が「今の俺」だった。


 アクロスとは主人公の名前で、そのまま主人公の成長と戦いを綴った、王道的展開のバトル漫画だ。


 王族や貴族や魔法が存在する世界において、落ちこぼれだった主人公アクロスが、努力を重ねて、遂には王国最強最高の魔法騎士に成長する姿を描いている。


 原作漫画は七〇巻を超える大作で、今尚、連載中。累計発行部数は電子版も含めて一億部を突破し、二期に分けてアニメ化もされている。


 なにを隠そう隠しませんが、かくいう俺も「アクロス」の大ファンだ。


 サイン本に特装本、ノベライズされた三巻に、原画集や設定資料集も持っている。もう一度言う。俺は「アクロス」の大ファンだ。


 諦めることをしない主人公アクロスは、才能がないと周囲から蔑まれ罵られながらも、決して歩みを止めることはなかった。自分自身の価値を徹底的に信じ抜き、その愚直な姿勢と、真っ直ぐな感情は周囲のキャラたちの気持ちを変えていく。


 蔑んでいた相手とも友人になるだけではなく、敵とすら友情を結び、主人公アクロスを通じて他のキャラ達もまた成長していく。


 そんな大人気バトル漫画の世界において、作品の人気を左右する要素の一つが魅力的な敵役の存在だ。


 作中最大のライバルキャラとして、クールで天賦の才能を持つ少年、没落貴族のエクスがいる。アクロスとは対極にいるキャラであり、互いに敵意をぶつけ合いながらも認め合う、この二人の違った成長の軌跡もまた、「アクロス」の魅力なのだ。


 だがしかし。


 当然ながら彼以外にも敵役はいる。人間的な成長をするでもなく、ただ単に主人公の前に立ちふさがり、主人公の成長を見せつけるためにのみ登場する悪役が。


 代表的なのが悪役三人組と呼ばれる連中のことで、そのうちの一人の名がマルセル・サンバルカン。


 つまり、今現在、「かぽーん」という効果音を背負いながら絶賛、顎を外している俺のことだ。


 公爵家の次男に生まれ、主人公たちの前に何度となく立ちはだかる。


 平民出身の主人公アクロスを徹底的に見下し、アクロスの友人仲間に対しても嫌がらせの限りを尽くす。


 他人は見下すものであり踏み躙るものであり、己のために役立つものでなければならない。


 なにかというと公爵家の血筋を鼻にかけ、自分以外の人間を劣等種と罵る。


 最後には主人公アクロスと、ライバルエクスとが一時的に手を組み、コテンパンに叩きのめされる。


 しかも悪役三人組の人気は押しなべて低く、読者からも徹底的に叩いてくれとの要望が編集部に届いていたらしい。


 そのせいなのかどうか、マルセルは騎士団からも実家からも王国からも、転がり込んだ悪の組織からも追放され、主人公アクロスに殺される。主人公アクロスに殺された後、ゾンビ復活して殺され、更に復活させられてミンチにされて死ぬ運命だ。


「マルセル・サンバルカンよ、どれだけ嫌われてるんだよお前」


 確かに俺もマルセル(こいつ)は嫌いだったけどさ。主人公アクロスに感情移入してたから、マルセルが死んだときには「ざまぁ!」と思ったよ。


 けどそれは、あくまでも部外者としての。当事者になってしまっては恐怖でしかない。


「いやいやいや、落ち着け落ち着くんだ俺。まだここが漫画の中の世界だと決まったわけではない。これは夢で、本当の俺はあったかいお布団の中で惰眠を貪っている最中だという可能性を否定するのも吝かではない限りでしててね?」


 チラリ、と宙に浮かぶ猫に視線を送った。銀色の猫は、実に締まりのない弛んだ顔に、威厳のない笑顔を浮かべている。


 ドちくしょう、確定だ。ここは大人気漫画「アクロス」の世界。


 宙に浮かぶ銀色の猫は十二使徒の一柱、アディーン。


 そして俺は、作中屈指の惨めな最期を迎える悪役三人組の一人、マルセル・サンバルカン。悪党面だって? それはそうだ。だって本当に悪党なのだから。


 原作一巻第一話から主人公に嫌がらせを始める。出会った直後には、見下した発言を吐き出していた。


 イジメは加速度的にエスカレートし、あまりの酷さに、遂には婚約破棄も受ける。自業自得であるのに、婚約者が主人公アクロスと仲良くしているのを見かけて、更に主人公アクロスを恨むという徹底っぷり。


 原作二十二巻において、悪役三人組の中で、トップを切って死ぬのがマルセルだ。


 容赦のない破滅エンドに、俺の意識は遠くなる。


 同時、右手人差し指にはめていた指輪が輝いた。

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