第二十話 婚約者、現る
姿を消したラウラを確認して、俺の肺は大量の空気を吐き出した。
き、ききき緊張した緊張した緊張した。まさかあんな予想外のところに、俺の死亡フラグとか破滅エンドへの導き手が潜んでいるなんて。良かった、命中しなくて。
火魔法を付与した斬撃、も未完成なら周囲への危険性が増す。付与が解けてしまい、炎弾となってすっぽ抜けたのだ。
あれがもしラウラに命中していたらどうなっていただろうか。原作中のイベントをこなすよりも遥かに手前で、惨殺死体になっていたかもしれない。
邪魔だと言ったのは紛れもない本音だ。未熟な自分のせいで怪我でもさせてしまったらどう責任――命で贖え、という方向になるだろうか――を取ればいいのか。
万が一にも人死になんて事態になろうものなら、確実に破滅エンドへのアクセルを踏んでしまう。ラウラの所属するシャールズベリから、個人的な怒りを買うことになるじゃないか。
見るなら見るで安全な距離をとって、いや、望遠鏡を覗き込むくらいの距離で、いやいや、できることなら遠巻きに見ることもやめてもらう方向で行こう。
繰り返すが破滅の関係者にはできるだけ距離を置いておきたいのだ。叶うなら地球と火星くらいの距離をとっておきたいくらいには。
漫画やアニメで時々ある危機察知能力、どうして自分にはそれがないのかと嘆きたくなった。
『嘆いたところで、ないもんはしゃあないやろ。破滅したないんやったら、自分にできることを気張らんかい』
「原作知識があってもループ設定なんかなかったんだよ! 光の筋すら見えてこないんだが!?」
異世界転生ってチートとかハーレムとかが約束されてるもんじゃないの!?
伝説級の力を持っていたり、数多のチョロインたちに愛されたりして、まったりのんびり豊かなスローライフを満喫して、異世界の人間の手に負えない事件が起きればそれをあっさり解決して英雄扱いされるんじゃないのかよ。
嘆きとか慟哭とかは簡単に森の空気に飲み込まれて、影も形も残らない。自棄になって素振りを再開した。涙が素振りに混じっている点については触れないでいただきたい。
『あのラウラたらゆー女の視線、感じへんか?』
「俺にそんな察知能力はありませんので!?」
心の底から欲しい能力であることだけは疑いがなかった。
貴族にはつきものがある。高貴なる義務、というものを挙げる人もいるだろう。生粋の庶民である俺にはフィクションの世界の単語だ。そしてマルセルなら、下らないものだと切って捨てていた言葉だ。
高貴な義務? バカバカしい。平民共が貴族である俺のために尽くすことが当然であっても、支配階級である俺に義務などあるはずもない。強いて言うなら、平民共から羨まれることと、平民共を支配してやることこそが義務だ。
実際、作中で似たようなセリフは何度も口にしていたし、その度に主人公たちからの反感を買っていたわけだが。
そうではなく、もっと別の、貴族の権力だとか家の力だとかを背景にした、いわゆる婚約者というやつだ。
マルセルの兄は既に婚約を発表しているが、マルセルは年齢的にまだ正式な婚約発表とまではいかない。しかし婚約者だけはいる。
マルセルと同い年のビヴァリー・ウォリッドだ。武名高きウォリッド伯爵家のご令嬢にして、いつぞやのやり直しで俺を殺した相手である。
神様が直接、造形したと噂される美貌に、王冠と見紛うくらい豪奢な金髪は太陽の光を受けて輝き、白磁の肌は生命力に溢れ、翡翠の瞳には誇りと活力が満ちている。
以上、漫画で得た知識と、遠目で確認した姿でした。なぜなら、
「これはマルセル様、ケガをしたと聞いておりましたが、存外に元気そうで、わたくしも嬉しいばかりです」
おかしい、妙なルビが振られているような気がした。きっと気のせいだ、気のせい。
冷え切った微笑を浮かべる彼女には、軽々しく話しかける隙すらない。微笑になる直前、俺の頭部に視線があたり、「溜飲が下がる」といった感じの笑みが浮かんでいたが。
マルセルは欠片も気付いていなかったが、俺は知っている。ビヴァリーがマルセルのことを毛嫌いしていることを。蛇蝎の如く、という古臭い表現ではとても足りないくらいに。あえて言うなら、G五百匹分以上かな。
気持ちはわかる。ビヴァリーの美貌は諸外国にまで届いているレベルだ。原作でも過去世でも、マルセルという婚約者がいるにもかかわらず、声をかけてくる人が後を絶たない。
引きかえ、マルセルの容姿は醜くはないが美形でもない。平凡よりやや上とキモイの中間くらいだろうか。自分で言って、生きる希望がなくなっていく。なにより、目つきの悪い悪党面だ。
魔力に優れてはいても、それは公爵家の血筋によるもの。また魔力量は多くても、魔力を使うための魔力系は鍛えていないときている。
剣技や体術はダメ。学力も優秀とされる点数を取ることはあっても、トップクラスには程遠い。
性格は傲慢で卑劣、他者を見下し、見下すことのできる自分を大人物だと勘違いしている。
ビヴァリーでなくても嫌いになること間違いない。事実、俺の周りにはマルセルを好きだという「アクロス」ファンはいなかった。悪役好きという奴はいたが、それも大概は強キャラのことが好きだった。
ビヴァリーの浮かべる微笑は、端から見れば非の打ちどころのない魅力的なものに映る。しかし目がまったく笑っていないのだ。腹の中でどんな感情が渦巻いているか、想像するだに恐ろしい。
小中高と、女子の猫かぶりの恐ろしさを経験していなければ、俺も騙されていただろう。本当、女子って怖い。いや大学のサークルでも人間関係をグチャグチャにする女もいたな。どっちにしろ女は怖いってことだ。
「これはビヴァリー嬢、私如きのために足を運んでいただき、感謝に堪えません。数日は意識が戻らなかったのですが、幸いにして、この通り回復しました。こうしてまたビヴァリー嬢とお話ができたことを心から嬉しく思っております」
「……………………え?」
うん、ゴミを見るような目のビヴァリーを前によく言えたと思う。でもそろそろ胃が限界なので帰ってほしい。こんな美少女にここまで嫌われてるってわかるのもきついんだよ。
もっときついのは、ビヴァリーが原作漫画のメインヒロインだってことだ。婚約者として会っている現在も、未来において確実に破談になるとわかっている。
しかし俺にはなにも言う資格がない。
なぜなら一読者時代、ビヴァリーがマルセルとの婚約を破談にして主人公と一緒になることを、応援してきた経緯があるからだ。
もっと突っ込むと、ビヴァリーには俺の嫁に来てほしいとさえ思っていた。ちなみに第一回キャラ人気投票ではビヴァリーに投票しました。
実際に来てくれたら、この蔑みに満ち満ちた視線だよ。
俺は大学生にしてDTを守り通してきたんだぞ? 女の子には夢と理想と妄想を抱いているんだぞ。く、マイヒロイン、カリーヌの笑顔が欲しい。
そもそも最初からビヴァリーは、マルセルに対して好感情を抱いていない。原因はマルセルにではなく、サンバルカン家にあった。
ウォリッド伯爵家は、規模は小さいながらも領地を持つ家である。領地経営の才能にはさして長けていないようだが、決して財政を破たんさせるような無茶な領地経営は行っていなかった。
ただし、ビヴァリーが生まれる少し前に起きた戦争が原因で、急速に財政状況が悪化する。
元から戦場での武勲を誇る家柄で、騎士道精神に重きを置く彼らは、戦争に際して積極果敢に参加するも、思ったような功績を上げられず、戦費負担が重くのしかかってきたのだ。
長年に亘って溜めてきた財産も底をつき、伯爵家の人間たちが頭を抱えているところに、救いの手を差し伸べてきたのがサンバルカン公爵家であった。
財政がひっ迫しているウォリッド伯爵家に低金利で融資を行う。ただし最初だけ。手を回して伯爵家のビジネスを妨害し、返済ができないようにし、追加の融資の際には金利を吊り上げ、返済期限を縮める。そこからはお決まりのパターンだ。
――――幸いにもお宅のご息女と、うちの次男とは同い年だ。どうだろうか、二人が結婚するというのは? 子供たちが結婚すれば、我々も家族……ファアミリィーというやつだ。家族を助けるのは当然のこと。君たちに融資をすることを誰が止められるだろう。違うかね?
そう。娘を出せと要求したのである。