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第百十四話 微笑み

「この女ですか?」

「ああ。頭の悪い女だった。俺が貴族だと知ると、喜んで股を開きやがる。伯爵家の妻にでもなれるだなどと、分不相応な夢を抱いた報いだ」


 これほど無慈悲な墓碑銘があるだろうか。エドワードは酷薄に吐き捨て、元より関心の薄かった女の死体のことなど忘れてしまった。


 ソファに身を預け、資料に目を通す。黄昏の獣たち(組織)から渡されたものではなく、ルーニー伯爵のような同業者や協力者から用意された取引に関する書類だ。


 エドワードが見るのは金の動きだけで、根本的に金にも興味がないので集中にも欠ける。


 黄昏の獣たちラグナロクという巨大組織を動かすためには資金は絶対に必要であり、貴族としての立場を持ち、破綻しかけているとはいえ表の世界とも繋がっているエドワードは、組織の金策を担う役目を持っていた。


 金にも、商品の中身もどうでもいい。非道な行いの果て、恨みや憎しみを滾らせて襲ってくる相手を殺すことこそが、エドワードにとっての最大の楽しみだ。


 次の楽しみは、誇りや気概やらを持っている相手を、力づくで蹂躙することである。


 差し当たり、エドワードが組み伏せたいと強く願うのは、パーティ会場であったヴィバリーだった。貴族として、魔法騎士としての誇りに溢れ、剣という拠り所を持つ。なによりも美人だ。


 誇りを踏み躙り、剣をへし折り、あの美しい顔を羞恥と絶望に満たすことを考えると、股間が熱くなってくる。


 気持ちよく妄想に浸る主の横で、フィエロは死体に右掌を向ける。


 実につまらない仕事だ。既に死に、どうやっても自身を楽しませることのない相手を、毒を使って跡形もなく消滅させるだけ。せっかくの同好の士たちとの集まりを切り上げてきたというのに。


 フィエロは溜息を禁じえなかった。もしかすると、この女の家族が、返ってこない女を心配して動くかもしれない。万が一にも自分たちに辿り着くようなことになれば、そのときは存分に苦しませてから殺そう。


 いつか、そんな未来が来ることを願いつつ、掌から生み出した濃い緑色の靄で死体を包む。ブスブスと異音を立てて死体は崩れていき、ものの数十秒で死体は消えてなくなった。臭いが気になるが、これは十分の換気で対応するしかない。


「ひっ」


 短い悲鳴と共に、扉の向こう側で金属製の盆が落ちる音がした。不運だったのは使用人の女だ。本国から連れてきたのではなく、手が足りなくなったために現地で雇った女。売り手市場の試験期間中、上昇基調の相場の中にあっても破格の待遇に飛びついて、臨時の職に就いたのだ。


 夫と死別したばかりの、幼い子供を抱える彼女にとって、試験期間中の数日で、三ヶ月分に相当する給与を受け取れるほどの好待遇はまさに天からの恵み。近所の人たちからも羨ましがられ、女は自分の幸運を噛みしめた。


 明日には仕事が終わるというのに、僅か数日の仕事で、これほどに衝撃的な現場に直面するとは。


「おい、フィエロ」

「申し訳ございません。直ぐに始末します」


 できれば時間をかけて。フィエロは目でそう訴え、エドワードも肩を竦めて受け入れた。


「運は良かっただろうに……間の悪い女だ」


 見られたのなら仕方ない。エドワードは女を睨み付け――――るよりも早く、女は身を翻して逃げ出した。ウサギやシカのような、草食獣のための逃げ足だ。


「ち、煩わしい。手間ぁ、掛けさせんなよ」


 耳の奥にまで入り込んでくるエドワードの声を強引に振り払い、女は足を回転させる。階段を駆け下り、ようとして転がり落ちてしまった女は、一番下で誰かとぶつかってしまった。


 瞬時にして胸中に生まれたものは、謝罪の気持ちなどではなく、圧倒的な恐怖だった。


 雇い主のエドワードとフィエロの残虐性を目の当たりにした今、この屋敷内の誰もが殺人に加担しているようにしか思えない。


 勢いよく上げた視線の先には、主人同様、従騎士試験に参加する女性が立っていた。感情の動いていないような無表情を受けて、女は自分の体が動かないことを悟る。転落した際にどこかぶつけたのだろうか。


 早く動かないと。早く逃げないと。上げたばかりの視線を、階段の上に向ける。


「ぁ」


 心底面倒くさそうな顔をした、エドワードが立っていた。女は歯の根も合わぬほどに震え、これから自分は死ぬのだと確信し、同時に幼い我が子のために死ぬことはできないと思う。


「アア、ソウイウコトデスカ」


 温度のない声が女の頭に落ちてきた。トン、と女の肩に軽く手が置かれる。


「イイデスヨ。ココハ私ガ対応シマスカラ、貴女ハ早ク行キナサイ」

「え?」


 あまりにも予想外の声に、女は面食らう。


「コレヲ渡シテオキマス。今日マデノ給金デス」

「え? え? ぇ?」


 渡された金貨の袋に、更に驚く。約束の金額よりもずっと多い金額だ。口止め料でも含んでいるのか。別の思惑があるのか。すぐには考えがまとまらず、行動にも移せない女を、サラザールは腕を引いて立たせた。


「ゴ子息ガ、イルノデショウ?」

「! は、はい! そ、の、ありがとうございます!」


 金貨の袋を抱えて駆け出した女、に向けてエドワードが掌を向けようとして、腕は十センチ程度を上がっただけで止まる。


「~~~っっ!?」


 階段下、一階にいたはずのサラザールが、二階に立つエドワードの眼前に現れたからだ。


 エドワードは別に油断などしていない。仲間ではあっても、サラザールの性格はよく知っている。油断や気を許すなどしていい相手ではない。


 目も意識も離していないのに、エドワードはサラザールの動きを捉えることができなかった。


「ふぃえろ、貴方モ動カナイヨウニ」


 エドワードの後ろに立つフィエロも、それ以上は一歩も進めない。


「っ、どういうつもりだ、サラザール」

「無駄ナ殺生ガ嫌イナダケデスヨ」

「貴様のような狂人が……どの口でほざくっ!」


 そう激発できればどれだけ気が済むことか。だが激発は、自身の死を招くと知っているため、エドワードは睨み付けることしかできなかった。


「このままあの女が官憲に訴え出たらどうするつもりだ? いらぬ問題を引き起こすぞ」

「ソレハ貴方ノ責任デスネ。人ヲ雇ウコトニハ、私モふぃえろモ反対シマシタヨ」

「貴様」

「ドウシマスカ? 追イマスカ? 私ハソレヲ止メマスノデ、ドウシテモ追ウトイウノナラ」


 そこでサラザールはいったん言葉を切り、捕食者の笑みを浮かべた。


「アア、私ト戦ウコトニナリマスガ」


 サラザールの笑みは恍惚としたものでもあった。


「こ、のっ」


 戦闘狂め!


 サラザールは罪のない人を助けることなど更々考えていない。助けることでエドワードとの戦いを引き寄せられればいい、と緩く考えているだけだ。


 両者の実力差は明白。戦いになれば、サラザールはエドワードを一瞬でズタズタにできる。間違っても、戦闘を楽しむ、ことにはならないが、戦いは戦い。只のメイドを殺すことよりもずっと有意義。


 両者の視線が空中で衝突し、衝突の余波を受けて、エドワードは二メートルを飛び退いた。


「いつか、必ず、貴様を殺してやる」

「是非トモ、頑張ッテ下サイ」

「!?」


 エドワードは絶句する。殺害の意思を明確に表明したはずなのに、返ってきたのは激励の言葉だった。


「っっ、行くぞ!」

「はい」


 背を向けた二人にサラザールは肩を竦めた。殺意を向けてくるような暇があるのなら、さっさと殺しにくればいいのに、と考える。


 現状、サラザールが関心を持っている対象は限られる。聖女エリーゼ。光の魔力を持つアクロス。そして、


「盟主様ガ言ッテイタ、闇ノ魔力ニ覚醒スルカモシレナイモノ……えくす、デシタカ。アア、ソレト」


 サラザールが最後に思い出したのは、パーティ会場で会った少年だ。魔力の気配など微塵も感じさせていなかったエドワードの腕を抑えた、あの少年。参加者たちの中で、相当に強い。聖女エリーゼには劣るものの、戦ってみたい、と思うのは彼が一番だ。


 どこか別の場所で、マルセルがくしゃみをしてくれると面白いのに。そうサラザールは微笑んだ。

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