第八十八話 出頭、ではないはず
俺の苦悩など、どこ吹く風。アディーン様は髭の手入れに余念がない。
『自分は原作やとどんな感じやったんや』
「活躍の機会なんかありませんでしたよ。いつも通り主人公に噛みついて、偶々その場にいたエリーゼに一蹴されて終わり。光の魔法で吹っ飛ばされて、そのまま出番終了です」
主人公たちは試験に介入してきた敵たちと大立ち回りを演じつつ、新キャラ達とも友情を育んでいったのとは大違いだ。
『ほうほう、ほんで自分を消し飛ばした相手に会いに行くんやな』
「消し飛んでませんから!? 吹っ飛んだだけですから!?」
『さよか。具体的にはどうすんねや?』
「食事に招待しようとも思ったんですけど……なんにしても、まずはこちらから出向くのが筋だと思います」
こんなに気の重い訪問もないだろう。うう、やだなあ、ほんと。キリキリキリ、と胃に痛みが走った。
平等公平を旨とするエリーゼは、大貴族であるにもかかわらず、他の生徒たちと一緒の宿舎を利用している。見目麗しく、血統にも優れ、身分の違いを超えて厳しくも公平な彼女の傍には、常に多くの人が集まっていた。
サンバルカン公爵が立場と権力にものを言わせて用意させた、豪華絢爛なだけで静まり返っている屋敷など、かえって寂しく思えて仕方ない。
そんなエリーゼは今日も当然のように人に囲まれていて、談笑しながらの食事中だった。
転生前の記憶にもマルセルの記憶にもない顔でも、ここは紛れもない現実。である以上は、エリーゼの取り巻きたちのことを、モブであるなどと断じることはできない。彼ら彼女らはれっきとした人格を持ち、考えや主義主張を持っている。
エリーゼが傍にいることを許していることを考えると、少なくとも本来のマルセルとは、相いれないだろう性格や人格の持ち主なのだと思われた。
『なんやあれは。護衛かなんかかいな』
単身、遠巻きに見ていた俺に、アディーン様の呆れにも似た囁きが聞こえる。できれば彼女とは一対一で話をしたいと思っていた。
聖女と話すだけでも精神的負担は大きいのに、取り巻きも一緒となるとアウェー感がハンパない、どころか死刑執行を待っている気分になる。
エリーゼが持つティーカップが裁判官の槌に見えてくるのは、きっと幻覚の類だ。どこかに魔眼の持ち主でもいるのかな。
『ごちゃごちゃ考えとらんと、はよ行けや』
「現実逃避をする時間くらいは与えていただきたい!」
『しょうもな。無駄な時間を使いなや。さっさとせえ言うとんねん』
「はい」
肩をがっくりと落とし、暗い表情で歩き出す。気分は出頭だ。美少女に会いに行くのに、こんなに気が重いのはどんなトリックなのか。聖女に近付くにあたって、緊張ならまだしも、ここまで陰鬱な雰囲気を纏っているものなど、それこそ皆無だろう。
エリーゼの能力の高さを考えると、俺が近くにいることなどとっくに感知されているはずだ。当然、俺が話しかけようと様子をうかがっていることもわかっていると思われる。
それでも人払いをしないのは、周囲に多くの人間の目を置いたままにしているのは、エリーゼなりのテストだろう。
周囲に他の目がある中でもきちんと筋を通すことができるかどうかの。マルセルという人間を図るための。
俺がある程度の距離にまで近づくと、一人の女生徒が立ちはだかった。使用人ではなく生徒、エリーゼを信奉する人間の一人なのは間違いない。
「こちらはとあるお方の席になります。なにか御用でも?」
用などあるはずがないのだから早々に踵を返せ。女生徒の態度と雰囲気と声音は、本音を隠せるだけの柔らかさに欠けていた。
悪名高いマルセル・サンバルカンが聖女様に何の用だと、言葉以外のすべてを総動員してぶつけてくる。
俺は勇気を振り絞って話しかけた。女の子に話しかけるのってこんなに勇気がいることだったんだな。
「ハートルプール公爵公女閣下と話がしたい。取り次いでもらえるかな。私の名はマルセル・サンバルカン」
女生徒は短く「む」と呟く。てっきり癇癪を起こして騒ぎ出すとでも思っていたのだろう。女生徒は、ここで待つようだけ告げてエリーゼのもとに戻る。
女生徒の耳打ちを受けて、エリーゼはこれまで少しも気付いていなかったかのように、こちらを見た。穏やかな笑みは、まさにヒロインに相応しい優しさに満ちている。
俺の心拍が跳ね上がったのは、彼女の魅力に負けたのでは断じてなく、彼女が怒りを表す際にも笑顔を絶やさないキャラだと知っているので、生きた心地がしないだけだ。
許可を得て彼女たちのテーブルに近付く。俺に突き刺さってくる視線の鋭さときたらもう。これが名高い圧迫面接という奴か。大学に入る前の面接なんて目じゃない。
「これはこれは、マルセル様、今日はどうされたのですか? アポイントも取らずに押しかけてくるなんて、礼節を弁えている公爵公子閣下のなさることとはとても思えませんが?」
席に着くと同時にこのジャブである。初対面の初っ端からこれだ。彼女が俺とのコネなど望んでいないことがよくわかる。
俺にしてもエリーゼと仲良くなりたいわけじゃない。せめて敵対的にならないでいてくれたなら、と望むばかりだ。彼女が常に浮かべる涼やかな笑顔を間近で見ても、こっちが安心できる要素はない。
「いや、その、折り入って、あー、お話が二つばかりあるのですが……少し、時間を頂けないだろうか」
「お話が二つ、ですか」
エリーゼは軽く目を見張った。
「構いませんが……こちらにも予定がありますので、ここでもよろしいですか?」
意図は明確だ。こちらの話の内容を知った上で、多くの人の前でも態度を変えずにいられるかどうかを見極めようとしている。
原作のマルセルなら、家格が低い連中の前で謝罪するなど受け入れないだろう。それ以前に、謝罪などをするはずもない。ましてや失敗した他人のためになど。そう考えるに決まっているし、実際の行動にも表れていた。
原作と今の、大きな差異。原作マルセルはエリーゼの美貌と権力に惚れこみ、彼女を自分のものにしたいと思っていた。
如何に聖女と呼ばれていようと女は女。公爵家子息の自分が望んだのだから、靡かないはずがないと出所不明の確信に満ち満ちていた。
俺は違うぞ。
エリーゼとの接点すら必要ない。この場が片付けば金輪際、一切、二度と、断固として、彼女には近付かないと誓う。
俺はおもむろに、頭を下げた。謝罪には必要な行動のはず、なのだが、どこかおかしい。頭を下げたはずなのに、首を差し出している気分になる。後頭部に目があれば、頭上で輝くギロチンの刃が見えたかもしれない。
ザワ、と周囲に驚きの気配が満ちた。あのマルセル・サンバルカンが頭を下げた。信じられない。夢でも、いや幻術にでもかけられているのか。そんな囁き声はまるッと無視する。
「今日、我がミルスリット王国の貴族たちが起こした騒ぎの件、誠に申し訳なかった」
「頭をあげてください、マルセル様。あの件は確かにミルスリットの貴族たちが起こしたことですが、聞けばマルセル様は彼らを窘めたとのこと。さすがは王国貴族の筆頭だと、尊敬の念を深めるばかりですわ。マルセル様が謝罪されることではないと存じますが?」
尊敬を深めるとか、心にもないことを穏やかな笑みを浮かべて口にしないでほしい!
原作マルセルはまだ純粋なお年頃だし、中の人は女への免疫がなさすぎるような人生を送っていたんだから、コロッと騙されちゃうじゃないか。
「そういうわけにはいかない。貴女の言う通り、我が家は王国貴族の筆頭だ。王国貴族の行動の責から逃れることはできないし、してはならないことだ」
あの騒ぎはバカ共が勝手にしでかしたことで、俺はなにも知らない、関係ない。とでも主張出来たらどんなにか喜ばしいことか。