第八十二話 リィラ~~ックス
普通なら一ヶ月分に相当するような量を、三日で片付けるよう指導してくるのだから、まさに鬼そのものである。
長谷川平蔵は遂に鬼になる、との文言があるが、キャロラインは常時鬼になっているのだから恐ろしい。下手にこなしてしまうと更に課題の量が増えるのだから、これはこれで、まさに悪循環そのものだ。
鬼による悪循環。聞くだけで怖気が走る。走るだけで逃げ出すこともできないのがどんなにしんどいことか。
黄昏の獣たちとの一件で停学を受けてしまったことで親父殿が怒り、キャロラインに徹底した教育を命じやがった。
結果、毎日毎日、学院から出されている課題以外でも膨大な量の勉強を貸してきたのである。一日の内で、机に向かう時間だけでも十時間以上はあったと思う。
一時間ごとに中庭でのストレッチのような軽い体操をする、ことまでカリキュラムに組み込まれていて、休憩時間ですらが息抜きにならない有様だ。
原作で味方だったカリーヌは、原作で敵だったニーガンといい仲になっている。
ラウラの監視は絶賛継続中。
キャロラインからは拷問めいて過酷な勉強を強いられる。
アリアとクリスとの良好な関係、悪役三人組の動きが違っているなど、少しでも原作と展開が違っていることがあるにはあっても、俺の毛根が働きを活発化させるには至らなかった。
「マルセル様、よろしいでしょうか」
ノックという礼儀を弁えた上で入室してきたのはラウラだ。入室を許可したのがキャロラインであることは触れないことにする。整った顔に困惑の色が浮かぶラウラは、どうも報告があるようで、
「では少しだけ休憩にしましょう、若君様」
キャロラインは空気を読んで部屋を出ていく。助かるは助かるが、部屋を出て行った彼女が更なる課題を作っているのかと思うと、頭と胃が痛くなってくる。手が震えるのは書痙というやつであって、恐怖ではないはずだ。
ラウラが持ってきた報告書にもまた、頭痛の種が書かれていた。
「本当か、これは?」
「紛れもない事実です。いかがなさいますか、マルセル様」
「イカガもタコゴもなにも」
「は? イカ? タコ?」
「何でもないよ。ツッコまないで」
脱破滅のためのライフワークとして、俺は獣人の奴隷を助ける活動を人知れず行っている。その過程で、ある人身売買組織の黒幕に、我がミルスリット王国内の貴族がかかわっていることが判明。アリアやニーガンらと共にこれを急襲、叩き潰すことに成功した。
そこまではよかった、そこまでは。
アリアとニーガンがちょっとやりすぎなくらいに暴れ回って、駆け付けてきた官憲たちが人身売買組織の人間たちを見て、どうしてこの状態で生きているのかと首を傾げていたが、そこも大した問題ではない。
叩き潰した際に押収した資料の分析を進めた結果、他国の人間がこの人身売買組織にかかわっていた事実が判明したのである。
「多国間に跨る犯罪組織、か。黄昏の獣たちの件もあるから別に珍しい事じゃないけどな」
問題は捜査の手が多国間を移動できないことだ。王国には王国の、他国には他国の法や手順があり、これを無視することは深刻な外交的衝突を招きかねない。
国家を跨いで捜査協力を行う試みは、何度となく実験されては、各国の意地や面子や縄張り意識に邪魔されて頓挫してきた経緯があった。利害を超えて一致団結しよう、なんてものは、現実には中々、できるものではない。
つまり、捜査はほぼ打ち切りになる。
レイランド王国のルーニー伯爵の名前が報告書には書かれていても、こればっかりはどうしようもない。諦めるしかないのか。
「ん? ルーニー伯爵? レイランド王国? あれ? もしかすると……まだ何とかなる、か? いやむしろ、何とかしないとヤバいんじゃね?」
レイランド王国は原作の従騎士試験の舞台になった国だ。キャロラインが言っていたように、もう間もなく従騎士試験が開催される。合法的に国境を超える機会がそこまで来ているじゃないか。
「でもなぁ、いくら破滅を逃れるためとはいえ、ここまでしないとダメなのか。いや、放っておいたら絶対に碌なことにならないのはわかりきっているし」
胃がキリキリと痛くなった。破滅以外で、胃潰瘍とか胃穿孔とかで死因になったりしないよな?
とりあえず、気分転換とリラックスが必要だ。
「ふぅ~~~~~ぁぁ」
湯船に肩まで浸かり、俺の口から思わず声が出た。なにかの番組で見たけど、湯に浸かった際に声を出すことにはリラックス効果があるらしい。
リラックス。今の俺にはもっとも必要なものである。俺の心をもっとも休ませくれる場所、風呂場でリラックスできなければ、俺はどこで休息を取ればいいのかという話になる。
寝室にだって、どこかの鬼教師が睡眠学習用にと風魔法で作成した音声データが設置されているため、リラックスには縁遠い。最近では寝室も睡眠もストレス源になっていた。
中身が日本人だからか、俺はこの世界の平均的な人間よりも風呂好きな部類に入る。使用人たちからは長風呂が過ぎるとまで囁かれている俺は、入浴後は中庭に出て涼むことが多かった。
「失礼します若様」
「お、アリア、今日の勉強は終わったのか」
庭で涼んでいるところに、アリアが穏やかな空気を纏ってやって来る。
勉強が楽しいアリアは仕事終わりにもテキストを開く。ペンを置くのは日付が変わってからのときのことも多いという。今日は少し早めなのには理由があって、明日に備えてのことだ。これは俺の手回しであって、アリアは事情を知らない。
「勉強で疲れただろ」
アリアにチョコレートを差し出す。この世界では高級品のチョコを出されたことにはかつては遠慮していたアリアだが、最近は素直に受け取るようになっていた。甘味の魅力には抗えないのだな、と俺は思っている。
「ありがとうございます。若様の恩には必ず応えます」
「いや、そこまで大袈裟に考えなくても」
「まずはこれで少しだけ返しますね」
「ほえ?」
アリアが差し出してきたのは毛糸で編まれた帽子だった。そしてアリアの視線が俺の頭部に向く。確かなのは俺の剥げ上がった頭の上で、アリアの視線がつるりと滑ったことだ。
「これは?」
「えっと、若様はその、髪の毛がないので、これからの寒い冬の時期には頭部から冷えるだろうかと思って編んでみたんですけど」
「手編みなのか!」
女子からの手編みのマフラーやセーターを貰うのは、全男子の憧れと言っても過言ではあるまい。思ってたのとはちょっと違うが、生まれて初めての体験に天にも昇りそうな気持になる。
「ありがとう! 本当にありがとう、ずっと大事にするよ! いや、我が家お抱えの職人が作った最高の宝箱に入れて永久保存するよ!」
「仕舞うんじゃなくて使え!」
サンバルカン家に務めて以来、礼儀作法に厳しい教育が施されてきたアリアから、思わず素の言葉が飛び出てきた。
俺の心には感謝と感激と歓喜と一緒に、この年齢で毛糸の帽子が必要になることに、情けなさで心が一杯になった。いやしかし、そうか、アリアか。うん、彼女ならいいかもしれないな。
「若様?」
「アリア、俺が来週からレイランド王国に行くことになっているのは知ってるね?」
「もちろんです。従騎士試験ですよね」
「あー、そのことなんだけどな」
「はい?」
従騎士試験には、使用人を従者として連れていくことが認められている。といっても使用人を使えるだけの財力があるものに限られるが。
ちょっと言いにくいのは、アリアを連れていくことに多少の抵抗感があるからだ。彼女は原作では既に死んでいて他国には行くことはなく、本来ならついていくのは家が用意した使用人たちだった。