幕間:シルフィード編 ~その二十八~
先程までイヴリルの体内を駆け巡っていたイライラのような感情は、綺麗さっぱり消え失せていた。あるのは晴れ晴れをすら通り越した、嬉しいという感情だ。感情が血管を通って全身を駆け巡り、イヴリルの体をブルリと震わせる。
「ん~~~~~~っ、ぃやっほぉぅっ!」
イヴリルは大きく飛び上がった。
この夜のことは、イヴリルの記憶に克明に焼き付けられ、忘れることは決してないだろう。
何度も思い出しては、その度にキューっと幸せな気持ちに満たされ、知らず知らず顔がにやけてしまう。
翌日、侯爵邸には王城よりの使者がやってきて、イヴリルとエステバンの婚約が正式に破棄されたことを伝えてきたという。
エステバンがいくつもの人身売買に絡んでいたことが判明し、逮捕・投獄され、王位継承権を失ったことが告げられたらしい。
事情のさっぱりわからない侯爵たちが、パニックになって右往左往している様子が目に浮かぶ。
胸がすく思いとはこのことだ。
今のイヴリルの足取りは極めて軽い。軽やかな足の向く先は、ベテラン、新人問わず使用人たちも禄に近付かない物置、もとい異母兄の部屋である。
物置小屋の前では、体積の大きな異母兄があくせくと動き回っていた。
小屋に入っては、室内から荷物を外に出してきている。かと思うと、出した荷物を見て少し考え込み、いくつかを小屋に戻している。荷物を選別しているようだ。
シルフィードは忙しい。色々と忙しい。精神的な面でも忙しく、言葉を実感として噛み砕くのにも、ゴリゴリと精神力が削られていた。
マルセルはその行動だけでなく発言内容も、用いる単語も大きく変化した。
いずれも貴族社会では聞いたことのないようなものばかりで、それとなく聞き耳を立てたところでは、平民たちでも使っていない言葉も数多ある。
当然のこと、初めての言葉というものは強く印象に残るものであるし、印象どころか記憶に強く残ったものもある。
その内の一つに、黒歴史、なる単語があった。
人には言えない過去の恥ずかしい言動や、できればなかったことにしたい過去など指して表現する言葉であるらしい。なるほど、言い得て妙だな、とその場は強く納得したものだった。
「うわぁぁっぁぁぁああぁぁぁぁぁあっ!」
ゴロゴロゴロと体を大きく回転させるビア樽、ではなくシルフィードだ。荷物整理中、不意に思い出してしまい、恥ずかしさのあまり、部屋の端まで転がる。端に着くと、逆方向にまた転がっていく。
「僕のバカ! 僕のバカ! 僕のバカぁぁぁあぁあ! なぁんであんなことをぉぉおお! 王族とぶつかるとかありえない! しかも何だ、ムーンライト仮面って! 頭おかしすぎるネーミングだろうっ!?」
転がる衝撃で棚の上に置きっ放しにしていた本が落下、角の部分がシルフィードの顔の中央に命中した。
「ぐがががっ!?」
顔面を押さえ悶絶すること十数秒、ようやくシルフィードの動きは止まった。
「は~~~~~~~」
大きく息を吐くシルフィードの気持ちはどんよりとしたものだった。
「これが黒歴史か。実感してしまうと……うん、確かに消してしまいたい」
仲の悪かったはずの妹のために怒り、怒りのままに突撃してしまった挙句、屋敷を破壊する大立ち回り。
シルフィードは自分が理知的に振る舞える人間だと思っていたし、事実としてこれまでのシルフィードは、年齢よりもかなり落ち着いた思考と精神を持っていた。
行動力も基本的にはかなり抑制されて、筋道だったものだ。
研究に関する場合は別だし、報復などは必要と判断した場合は迅速苛烈に行う傾向はあったが、必要時以外は冷静な行動が多かった。
シルフィード自身はそう思っている。自分はそんな人間だと思っていた。マルセルが変わると宣言しても、自分がそれに合わせるのはそちらのほうが利がある、との打算もしっかりとある。
「自分自身の利益のためにしか動かない……そんな自分だと思っていたんだけどなぁ」
頭に上り、全身を駆け巡っていた熱はすっかり冷めて、冷静に、いや正気に戻って思う。なぜあんなことをしてしまったのか、と。
秘蔵の宝をすっかり失い、シスコンのレッテルを張られ、他人の屋敷に不法侵入をし、魔法騎士団副団長を相手に一騎打ち。遂には自国の王子を積極的に破滅させるとは。
「後悔は、うん、していない。誰かに言われたわけでもない。結局は自分で決めて自分で動いたんだ。自己決定自己責任。黒歴史、甘んじて受け入れようではないか」
自室の床に落ちている新聞が、隙間風に吹かれてカサリと音を立てる。怪盗ムーンライト仮面の活躍を特集する記事が一面だ。
一面の半分以上を夜闇を舞うムーンライト仮面と、従者の女性二人の姿の絵が占めている。他の面もムーンライト仮面一色の、まさに特集が組まれている。
「うう、僕はなぜこんな格好を……」
受け止めると口にした直後にこれだ。
冷静になって振り返ってみると、かなり恥ずかしい。自称イケメンのシルフィードも、似合う格好とそうでない格好の区別はついている。どこかのパーティに参加する羽目になったとき、影でタキシード姿を笑われた記憶もある。
シルフィードには別に、自身を世間に向けてアピールしたい願望はない。ましてや新聞上では、世直しのために立ち上がった華麗なる正義の味方、なんて立ち位置だ。想像したことすら一度だってない。
「やってしまったことは仕方ない、か」
諦めたように肩を落とし、
「うがが、せめてもう少し別の格好をしていれば」
実は全く考えを切り替えられていないシルフィードであった。
エステバンが隠し持っていた証拠の類をあちこちの通信社に持ち込んだ際、現場にシルフィードは姿を見せていない。
ベアトリクスとセルベリアにアイマスクを着けさせて記者に手渡したり、通信社に直接投げ込んだりして情報提供を行った。
万が一にも自分の正体が知られないための小細工だったが、おかげで絶世の美女と行動を共にしているとの認識が一気に広がってしまった。
怪盗と美女の相性は非常に良いようで、特集されるあらゆる記事に採用されている。
そのベアトリクスとセルベリアは、絶賛、整備中だ。二体の人形は大きな損傷こそないものの、小さな傷はあちこちにできていた。
整備中や荷物整理中は集中できるのだが、ちょっと休憩に入ると思い出したくない言行を思い出してしまうので、シルフィードは意識的に作業時間を多めに取るようにしていた。
「モリス副団長を向こうに回して、この程度の損害で済んだのだから、よかったと思うべきだね」
損耗部品は交換する。破損部品も修理できるものは修理する。使った魔力伝導素材の補充、術式の書き直しに修正。
武装の追加もあれば、見直しもある。是非に付けようと思ったものも、逆に期待していたが使えなかったものを取り外すことも決断しなければならない。
「では、この仕込みはセルベリアに付けたほうがいいかな」
物置の一角には別の人形が置かれていた。緋色の髪を持つ、その名もロベリアだ。
身長は一五九センチ、サイズは上から八五、五六、八六に設定している。『黄金』と『銀』に続く『緋』を冠する人形だ。
先の二体の人形よりも中遠距離火力に特化した造りになっていて、操作の単純化にも成功している。反面、複雑な仕込みには適しておらず、長所と短所がはっきりしすぎているきらいがった。
「ロベリアもベアトリクスもセルベリアも、まだまだいくらでも伸ばすことができる。考えるだけでも楽しいものだ」
シルフィードの頭には他にもシリーズの構想も練られていて、設計図も書き始めている。正式に屋敷を追い出されたら、作り始める予定だ。
なので今は整理と修理が中心となっている。修理や整備をしつつ、不要なもの、かさばるものは物置の外に出していく。
親や使用人から見限られている事実はこういうときには便利なもので、部屋の外に置いておくと勝手に処分してくれるのだ。うっかり貴重なものを出してしまわないようにだけ注意しておけば、中々に使い勝手がいい。
「ふーん、遂に追い出される日が決まったんだ?」
イヴリルの声が届いたのは、何箱目かの段ボール箱を地面に置いたときだった。
シルフィードは別に武芸の達人でもなんでもないので、気配を知るなんてことはできない。ただ魔力操作の技術の応用で、魔力の有無を感知することはできる。
とは言っても感知魔法ほどの精度には遠く及ばないし、戦闘中でもない限りは感知網を広げているはずもない。