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幕間:シルフィード編 ~その二十七~

 決意も強かった手からもスッと力が抜け、握っていた杖が硬質の音を立てて床に落ちる。


 代わりにイヴリルは腕組みをした。不審者を攻撃してやろうとの気配はどこかに吹き飛び、あるのは呆れと驚き、喜びと少しの期待が混じった感情だ。


「ふっ、我を誰かと勘違いしているようだが、我と君は初対面だよ」


 ニヒルを思わせる笑みと言い回し、を欄干に足を引っかけてじたばたしたままで行っているのだから、喜劇としても三流だ。


 少なくとも心理的には湿度ゼロの風がバルコニーに吹き、イヴリルは大きなため息をついた。


「あ、そ。それで、その初対面の相手の部屋のバルコニーに引っかかっているあんたは、何の用なわけ?」

「うむ、それはだね……ふぬぅ!」


 ジタバタジタバタと足を動かし、つっかえていた腹の位置をどうにか変えることに成功した自称「初対面の男」は、優雅さからは程遠い体捌きでバルコニーに立つ。


「ぶふぅ、出っ張った腹というものがこんなに邪魔になるとは……予定が大きく狂ってしまった」

「どんな予定だったのよ」

「格好よく、優雅に、フワリとバルコニーに降り立つはずだったんだ」

「どこから?」

「そこの木から」


 太い指が指し示したのは、熟練の庭師が丹精込めて育てている、王都の庭百選にも選ばれたこともある侯爵家庭園の庭木だ。南方の国から特別に注文したという品種で、王都ではここにしかないという。


 マーチ侯爵も気に入っている木だったが、喩えて言うなら雪の重みに耐えかねて折れたような――何の喩えにもなっていないが――無残な姿を晒していた。折れた枝や千切れた葉の一部はタキシードにくっついている。


 フワリどころか、ドスンとすら降り立つことができていないではないか。


「自分の体重に対する評価が甘すぎんのよ、あんたは」

「むぐぅ」

「後で庭師のジニに謝っときなさい」


 何ならあたしも一緒に謝ってあげるから、とのセリフをすんでのところで飲み込むことに成功したイヴリルだった。


「で? 結局、あんたは何なワケ?」

「ふっふっふ、我は通りすがりの怪盗ムーンライト仮面である!」

「ムーンライト仮面って……」


 イヴリルは元ネタのロマンス小説をよく知っている。原作を汚されたと不愉快になるかと思いきや、なぜか不思議と納得できた。


「今宵は君に渡すものがあって参上した。どうか受け取ってくれたまえ」


 そう口にしたムーンライト仮面がポケットから取り出したもの、それは飾り気のないシンプルな木製の小箱だった。


 ムーンライト仮面はイヴリルの前に跪き、おもむろに小箱の蓋を開ける。どこか舞台で目にしたことのあるプロポーズのシーンのようだ。


「これって、赤琥珀レッドアンバー?」

「その通りだ。これを不当に持っていた悪逆非道の輩には正当な正義の鉄槌が下った。正当な持ち主の元に戻っただけなのだから、君は安心して受け取るといい」


 なにが正当で、どんな裁きが行われたかなど知る由もないイヴリルは、促されるがままに小箱を受け取り、視線を落とす。小箱の中には予想通りでありながら、ちょっとばかり予想外のものが入っていた。


「…………砕けてるけど?」

「何ですとぉっ!?」


 ムーンライト仮面も一緒になって小箱の中を覗き込む。


 戦いの衝撃なのか、たった今、木から落下したときの衝撃なのか、いずれにしろ確かに、世界の至宝たるオーク巨樹の赤琥珀レッドアンバーは砕けていた。


「あばばばばここここれはだね」


 ムーンライト仮面の中の人は、白豚呼ばわりされるくらいには白い肌を真っ青にして慌てふためいている。


 イヴリルの内には砕けた赤琥珀レッドアンバーへの衝撃はある。だがそれ以上に、泡を食うほどに冷静さを失った、ムーンライト仮面の動揺っぷりのほうが衝撃だった。


 記憶を遡る限り、イヴリルのよく知っているあの人は、研究やら開発やら資材探索やらに血道を上げているばかりの人物で、予想外の事態にもあまり慌てることがない。


 研究や実験が自分の思う通りにばかりなるとは限らないことを、身に染みて知っているからだ。


 その相手がここまで冷静さを失って慌てている様を目の当たりにすると、赤琥珀レッドアンバーを失った事実もどこかに飛んでいって、おかしくなるばかりだ。


「っっ」


 イヴリルは両掌をスゥッと上げ顔を隠した。笑いをこらえるためだろうが、顔は隠せても肩がプルプルと震えている。小刻みに体も上下に揺れていた。


 いつもは静かな、今日に限ってはいつもよりも騒々しいバルコニーの空気が、笑い声に破られた。


「あっはははははは! バッカ! ほんっとにバカ。バカがいる! あっはははは、し、信じらんない!」


 イヴリルの堪えようとの努力は霧消し、代わりに貴族にあるまじき爆笑を披露してしまう。家令あたりが見れば、目を剥いて卒倒するだろう。


 ツボに入ったのか、イヴリルの爆笑は時間にして十秒は優に超えていたろう。「あー」と声と息を吐いた後、イヴリルは顔を上げた。その顔は、月光を受けてあまりにも美しいものだ。


「ムーンライト仮面様?」

「ははははい!」


 穏やかな問いかけに、ムーンライト仮面の背筋はピンと伸びる。イヴリルの目は豊かで温かな感情に細められていた。


 優しげで、それでいて決意を秘めた強い目。頬は上気して赤みがさしていて、口元の笑みも相まって、まるで花のよう。


「ありがとうございます」


 温かな、咲き誇る花のような笑顔と共に、イヴリルは頭を下げた。再び上げられたときには、真顔に戻っていた。


赤琥珀レッドアンバーは砕けましたが、これでもう侯爵家には取引に使える材料がありません。赤琥珀レッドアンバーを失った第二王子殿下も競争力を失い、侯爵家にとって旨味のある相手ではなくなるでしょう」

「ぉ、おう、うむ」


 イヴリルは確証はなくとも理解している。世界の至宝を、道徳的にはどうであれ法的には確かな所有権を持っている第二王子から、どのような手段で奪い返してきたのか。よく見なくとも、ムーンライト仮面の体のあちこちには傷がついている。


 少なくとも平和的で文明的な、交渉と妥協を経て、握手をして円満に解決したわけではないことくらい、経験の浅い子供でも理解できる。


 イヴリルは砕けた赤琥珀レッドアンバーに視線を落としたまま、桜色の唇が動く。


「これを私に下さった兄にも、砕いてしまったことを詫びねばなりませんね」

「ああ、いや、彼はそんなことを気にはしないと思うぞ?」

「おや? ムーンライト仮面様は私の兄のことをご存じなので?」

「そそそそんなことはないが!? 伝え聞く限りの君のお兄さんはどれだけ貴重なアイテムよりも妹さんを大事にするナイスガイだと巷で評判だからだね!?」

「キモ」

「キキキキキキモぉ!?」


 シルフィード・マーチはナイスガイなんて評価からはもっとも縁遠いところにいる。


 ヒキガエルだのオーク野郎だの、ブタが人間の形をしているだのと散々な罵りを受けてきた。最大限に好意的に評しても研究バカが精々な人物だ。


「どんだけ良いほうに言ってんだっての」

「いや、あのだね」

「伝え聞くったって、どこでそんな噂が流れてるのよ」

「うむ、王都貴族街北街区二丁目あたりかな」

「狭」


 あまりにも狭い範囲であるし、イヴリルがその辺りを通ったときにも聞いた試しはない。リンジーの店がある周辺でならもしくは聞き拾えるかもしれない程度だろうか。


 イヴリルの胸中には暖かいものが満ちていた。ともすれば表情が喜びに崩れそうで、貴族令嬢に相応しい礼節を守り続けるのにも一苦労だ。礼節どころか、再び爆笑の渦に飲み込まれそうまである。


「ふう」

「イヴリル……嬢?」

「ムーンライト仮面様がそう仰っているのですから、兄もきっと気にしないのでしょう」


 イヴリルは胸の前でギュッと両手を組む。もちろん、両手の中には砕けた赤琥珀レッドアンバーがある。


「う、うむ。きっとそうだ、そうに違いない」


 ムーンライト仮面のアイマスクは不自然に激しく上下する。怪盗と貴族令嬢の邂逅、と聞けば舞台や、それこそロマンス小説の中での一場面を想起させる。


 実態はというと、令嬢は笑いだしそうなのを懸命に堪えていて、怪盗はでっぷりとした体に浮き出た汗を拭うためにハンカチを取り出している。


 たとえ王都最高の演出家であろうと、ここからロマンスを描くのは無理だろう。


「では、イヴリル嬢、我はそろそろ失礼するよ。屋敷のものに見つかって騒ぎになるのは避けたいからね」

「ムーンライト仮面様、本当にありがとうございました」

「ふ、さらばだ」


 バサ、と所々破れているマントを翻してムーンライト仮面は夜闇の中へと姿を消していった。とりあえずどこか人目につかなさそうなところに行き、変装を解いて、何食わぬ顔で物置きもとい自室に返ってくるのだろう。


 ドッスンバッタンとした足音に笑みを漏らしつつ、「ん」と伸びをする。

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