幕間:シルフィード編 ~その二十五~
賊の侵入は事実であるが、このことを他人が信じるかどうかは別問題だ。競争相手は賊の存在そのものを疑い、虚言を撒いて宮中を混乱させたとでも攻撃してくるだろう。
仮に奪われた事実を信じてもらえたとしても、国家の至宝を守ることすらできなかったエステバンが、激しく責め立てられるのは間違いない。
「ぅ、ぁ、あぁ、ぁ……」
埃と擦り傷に塗れたエステバンの顔が青ざめる。国王に誤った情報を伝えることも、ぬか喜びさせることも失点だ。
だがエステバンにはまだ、拭いようのない大きなミスがある。
奴隷だ。
王国法において奴隷売買は禁じられている。どこの国にも犯罪を犯すものはいて、闇市場が存在してしまうことは止むを得ない面があるとはいえ、王族が率先して法を侵すなどあってはならないことだ。
法を破る王侯貴族は他にもいると反論するかもしれないが、彼らの犯行は表立ってはいない。犯罪を隠し通す程度の器量もない、と見切られるだけだ。
エステバンの目の焦点は合わなくなり、呼吸がどんどん早くなる。と、
「モリス様、大変です!」
屋敷の使用人が泡を食って駆けてきた。いつもなら部屋のドアを叩いてくるところ、もはやドアは僅かな残骸を残す程度なので、使用人は勢いそのままに放火した部屋の中にまで飛び込んできていた。
屋敷の惨状に既に仰天していた使用人も、ケガを負っている主と、別人のような風貌へと変わり果てた第二王子を目の当たりにして言葉に詰まる。どう動けばいいのかわからずにオロオロする使用人に、モリスはそのまま報告するよう促す。
「は! じ、実はこちらに向かってくる集団があるとの報告を受けまして、どうすべきかモリス様のご判断を伺おうかと」
「む」
「な、何だ? こちらに向かっている連中程度などなんてことはないだろう。来たところで追い返してしまえばいいだけだ。違うか?」
割り込んできたエステバンを無視し、使用人はモリスの近くに寄って報告をする。モリスの顔色が変わる。
「追い返せるのなら、それでいいのでしょうが……恐らくは追い返すことは難しいでしょうな」
「なぜだ! どういうことだ!?」
「向かってきているのは警邏の連中ではないと思われます。ここが私の屋敷であることは知れていることですし、殿下がここにいることもよく知られています」
普段なら見回りに誰かが来ることもない。権力量からして、下手につつくことは身の破滅に繋がりかねないことを、誰もがよく知っているからだ。
この事実を弁えた上で動いているのなら、それは間違いなく競争相手の息が掛かっている。
「バウディスタ殿下かウィルト殿下の手のものと考えて間違いないかと」
「あ、あいつらが……っ」
病弱で知られる第一王子バウディスタ、エステバンの対抗馬と目される第三王子ウィルト。
バウディスタは病弱であっても野心がないわけではなく、堂々と王太子の地位を狙っているエステバンのことは常に警戒している。自身の派閥も持っており、エステバン陣営の切り崩しも積極的に行っているのだ。
第三王子ウィルトは、エステバンほどには王位への執着を持っていないとされる。しかしエステバンからは競争相手として睨まれ、隙あらば攻撃を仕掛けてくるエステバンのことを煩わしいとは感じていた。
いずれもエステバン派のモリス邸で建物が破壊されるほどの騒ぎがあると報告があれば、失点探しのための手を打ってくるのは当然なくらいには、エステバンとは反目しているのだ。
「どうにかしろ、モリス! こ、こんなことをあいつらに知られるわけにはいかん!」
「どうにか、と申されましても」
「しろと命令しているんだ! できんとは言わせんぞ! この事態はそもそも、お前が賊如きに後れを取ったことが原因だろうが! 責任を取れ、責任を!」
モリスは憮然とした表情を隠す努力をしなかった。
原因と口にするのなら、あの怪盗ムーンライト仮面を呼び寄せたのは、間違いなくエステバン自身だ。赤琥珀を持ち込んだマーチ侯爵家にも原因を求めることはできようが、マーチ侯爵家を引き寄せたのは疑いの余地なくエステバンである。
エステバンの王位への執着や、汚い金儲けについての言行などが最大の原因だ。
公爵家息女イヴリルも原因だと思われる。あの男と家族の仲は険悪としか聞いていなかった。情報は誤りであった、とモリスは苦り切る。
今回の状況を見る限り、他の家族との関係はともかくとして、シスコンであることは疑いない。王族を直接、襲撃してくるくらいなのだから、否定しようもないだろう。
エステバンの、自身の一切を省みることなくモリスだけを責め立てる様は、無様そのものだ。モリスが表面上を取り繕うことすらやめてしまうのも無理はない。判断力も観察力も失っているエステバンは、気付く様子もないが。
「くそが! なぜ次から次へと問題ばかりがっ。バウディスタも病気の治療に専念しておればいいものを、いらん欲目を出しやがって。ウィルトもウィルトだ。周りに踊らされていることにも気付かんのか!」
他人を批判するときには容赦のないエステバンだ。
「殿下、マーチ侯爵家もなにか言ってくるかもしれません」
「どういうことだ? 奴はこっちの派閥に入ったばかりだろう。裏切るような真似をしてくるとは思えん」
「本当に殿下の下についていたのであれば、ですが」
「何、だと?」
「確かに侯爵家は、殿下に赤琥珀を差し出してきました。これだけを見るならば、殿下への忠誠を誓ったかのように見えます。ですが事実としてあるのは、赤琥珀は殿下の手を離れてしまっているということです」
「ま、まさか」
「殿下が赤琥珀という至宝を手に入れた途端、赤琥珀を狙う盗賊が現れる。それも殿下を直接、狙うなど……とても偶然だとは」
ムーンライト仮面の正体を看破――名前だけでなく、シスコンであるとの事実も含めて――したモリスにとっては、シルフィードが怒って乗り込んでくることは必然の範囲内である。行動の突飛さはともかくとして。
しかしムーンライト仮面の正体を見破れなかったエステバンにとっては、まったく別の、悪意に満ちた必然が見えてくる。
「侯爵家は既にバウディスタかウィルトの派閥に属していて、おれを陥れるためにわざと赤琥珀を渡したというのか! おめおめと盗まれたという烙印を押し付けるために!?」
「ご推察の通りかと」
モリスは恭しく頭を下げて肯定する。下げて、見えない位置でモリスの口は歪んでいた。マーチ家がどこの派閥に属しているか、まではモリスとて把握できていない。
モリスが理解しているのは、この襲撃にはマーチ侯爵家も他の王族もかかわっていないだろうことと、シルフィードが単独で動いただろうことだけだ。エステバンとの直接ぶつかるなど、王族にとってもマーチ家とってもリスクばかりが大きすぎる。
わかった上でモリスは、エステバンの思考を一定の方向に誘導していた。権力の上に胡坐をかいていたエステバンには、誘導に抗う術などあるはずがない。
「モ、モリス……おれは一体どうすれば」
「一旦は身を隠すことを提案いたします」
「こ、この大事な時期にか!?」
「大事な時期だからこそ、反撃の準備に万全を期すべきです。バウディスタ殿下やウィルト殿下に付け込まれる隙を与えるわけにはいきません。この屋敷も処分いたします」
「処分!?」
「火を放ちます。炭以外のものは残しません」
モリスは恭しく一礼を返す。屋敷に向かっている連中をすべて追い返すことは難しい。屋敷内に踏み入れらでもされると、証拠となりうる書類や品を抑えられる可能性がある。避けるために屋敷に火を放つ、とモリスは口にするのだ。
「身を隠すことは理解したが、どこに隠せというのだ? お前が持っている屋敷は既にバウディスタたちに知られているだろう」
「知られていないものもあります」
名義を他人のものにしての取引は珍しいものではない。取引のある商会を通じて、自分や家族に屋敷などを用意することもある。隠れ蓑に名ばかりの商会を立ち上げることも、財テクとしては基本のものだ。
「商業区の屋敷になりますので、殿下にはあまり相応しくないかとも存じますが、まずは御身を隠されることが第一かと」
忠臣の勧めに、エステバンは小さく頷いた。
頷くや否や、エステバンはいきなり立ち上がる。それまでのノロノロとした動きが嘘のようだ。馬車を用意しておけと居丈高に命令し、エステバン本人は屋敷の外には向かわなかった。
半壊状態の隠し部屋と転がり込んだのだ。倒れた本棚を蹴飛ばし、賊を罵りながら、自分の手が汚れるのにも構わずに隠し部屋の中を這いずり回る。
「殿下、なにをなさっているのですか! 急いでください!」
「ええい、わかっておるわ! だがこれだけは持って行かなくてはならん」