幕間:シルフィード編 ~その十七~
それが今はこうして、汗を流し、息を切らせ、関節の痛みに耐えながら、足を動かし続けているのだから、人生とは予想もつかないことが起きるものだ。
貴族社会で静かなブームになっているロマンス小説では、勘違いとすれ違いから傷心した女性を男性が追いかける描写がある。
男性は二人にとっての思い出の場所か、女性にとっての重要な場所で無事に再会し、絆を確かめ合うのが王道であるらしい。
「僕はそんな主人公じゃないし、あいつと二人で屋敷の外を出歩いたことなんてつい最近のことだけだし、行きそうな場所なんて本当にわからない」
肩で息をしながら、ブツブツと呟きながら、カタツムリよりかはちょっとだけ速い速度で歩いている様子を周囲からどう見られているかを、気にするだけの余裕もない。
「くそ、どうして僕には魔法スキルがないんだ。魔法が使えれば感知魔法ですぐに探せるのにっ」
人探しや物探しで、対象の魔力がわかっている場合は感知魔法を使うのが通常である。この程度の常識にすらそっぽを向かれている己を、腹立たしく思うシルフィードだ。
ほとんどない心当たりを探すところから始めて、それでも見つからなければ虱潰しにしていくしかない。
シルフィードの懸念はまさに無駄なものだった。イヴリルはすぐに見つかったのだ。兄妹にとって数少ない共通の知り合いと場所に彼女はいた。
妹を探して最初に訪れた場所で見つかったのだから、シルフィードは幸運の女神からはまだ見放されてはいないらしい。
とりあえず直近で妹と一緒に行った場所、というだけで来た場所にいるのだから、イヴリルとしてもなにかしら思うところでもあったのかもしれないが。
リンジー魔法具店の前にシルフィードが立ったとき、店のドアには「閉店中」の札が掛けられていて、店の中からどこかそこはかとなく物々しい空気が漏れていたとしても、シルフィードにはドアを開けないという選択肢はなかった。
「お、お邪魔するよー?」
「随分とゆっくりねぇ?」
お得意様のはずのシルフィードに掛けられた言葉は、相当に冷たいものだった。カウンターに頬杖をついている店主リンジーの目は、皮肉気に細められている。
「貴方、感知魔法は使えたのかしらぁ?」
「僕に使える魔法はないよ。ただの勘だ」
「シスコン魔法ねぇ」
「我が生涯で最初に習得した魔法がそれか!?」
シルフィードとしては甚だしく不本意である。クライブの筋肉魔法よりも知名度は低そうで、汎用性も、まあ低そうだ。
「それで、イヴリルはどこかな?」
「奥よぉ」
聞くと同時、ズドン! という音が衝撃と共に小規模店を揺るがした。
魔法具店の奥は倉庫であり、シルフィードも使用料を払って資料などを預けている。ベアトリクスとセルベリアの二体以外は処分も考えている品が大半とはいえ、余所様の倉庫で暴れているとあっては外聞的にあまりよろしくない。
シルフィードは既に悲鳴を上げている膝に鞭を打つ他なかった。倉庫の扉を開く。
「イヴリ――――」
「あー! ムっっっカっつく!」
ズドン!
鈍くも大きな音と共に、天井から吊るされたサンドバッグがくの字に折れ曲がった。イヴリルだ。
模範的貴族令嬢たるイヴリルは、両手に安物の革製グローブを着け、体重と魔力の乗ったパンチをサンドバッグにぶつけていた。目が赤いのは涙を流した証だ。
「ほんっとに!」 ズドン!
「あっっのクソ親父と!」 ビシィッ!
「ボケ兄は!」 バァンッ!
「ムっっカつく!」 ドゴォッ!
「ムカつくムカつくムカつく! くっっそぉぉぉおおっ!」
剥き出しの感情のままにラッシュラッシュラッシュ! 殴られることが存在意義のはずのサンドバッグが可哀そうに思えてくるシルフィードだ。
「いいパンチねぇ。早く話しかけたらどうかしらぁ?」
「鬼か、君は」
不用意に声を掛けようものなら、サンドバッグの代わりに殴り飛ばされること請け合いである。
「言動も行動も貴族令嬢らしからぬものだけど、なにがあったのかしらぁ?」
「説明するのもバカバカしいけど、バカな父親とアホな異母弟が引き起こしたクソ下らない家庭の問題だよ。問題を引き起こした最初の原因は、ブタで間抜けな兄にあるんだけどね」
「貴方の言葉遣いも大概ねぇ」
イヴリルのパンチは威力が高く、回転も速い素晴らしいものだが、このまま黙って見続けているわけにもいかない。
意を決して――どうして妹に話しかけるのにそんなものが必要なのかはさて置いて――シルフィードは怒れる妹に近付いた。
「イヴリ――――」
「うっさいっ!」
ズバァンッ!
「ぐほぉぁ!?」
振り向きざま、イヴリルが放った一撃は正確にシルフィードの腹にめり込み、その衝撃はたっぷりと贅肉の詰まった腹をぶち抜いた。
「は? あ、あんた?」
「ぐ、ふ、な、ナイスパンチ……」
あまりの威力にシルフィードはがっくりと膝をつき、既に痛めている膝によりダメージを負うことになった。
「な、なにしてんのよ、あんたは?」
「き、君、が屋……敷を飛び、出してしま、から探しにきた……でしょうが」
ちなみに二人の会話には大きな角度ができている。膝をついたままのシルフィードに対し、イヴリルは立ったままだからだ。
イヴリルの声音には刺々しさの他に、安堵の感情も混じっている。しかし次に妹様が採った行動は、心持ちシルフィードから距離をとって自分を軽く抱きしめることだった。
「はぁ? 妹を追いかける兄とか、マジでキモいんだけど」
「キモくないから。それよりもだね、心配して関節への負担を飲み込んで走り回っていた兄に対する態度として、ちょっとばかりおかしいと思わないかい?」
「関節は自業自得じゃん」
「然りごもっとも」
返す言葉もないシルフィードである。脂肪たっぷりのシルフィードの腹を打ち抜いたことですっきりしたのか、イヴリルはグローブを外した。
倉庫内にはリンジーが多少の作業をこなせるよう、小さな椅子と机が置かれていて、そこにイヴリルとシルフィードが座る。横幅がありすぎるシルフィードが座るといかにも窮屈そうで、椅子も抗議の軋みを上げていた。
対面に座るイヴリルは怒りのオーラを尚も漂わせている。目の充血も引いていないので、事情を知らなければ男女のちょっとした修羅場に見えなくもない。
コト、と机にティーカップが置かれる。リンジーが淹れてくれた紅茶で、リンジーは「サービスよぉ」とだけ告げて倉庫から出ていく。
気を利かせてくれたのか、興味がないのか、客でも来たのか。少なくとも最後の推測に関しては否定できるシルフィードだ。
向き合って座りながら、シルフィードは非常に居心地が悪かった。
元から女性の扱いというものとは縁遠かった上に、イヴリルが怒りや苛立ちといった感情を隠そうとしないまま黙りこくって、更にシルフィードを睨み付けてきているからだ。
どう見ても、シルフィードが年下の女の子を追い詰めている構図である。
この沈黙はイコール、さっさと事情を聞け、というサインに他ならない。イヴリルも意地を張っているのか、決して自分からは口を開こうとはしない。
イヴリルの性格を知っているシルフィードとしては、圧力に負ける形で聞く他なかった。シルフィードはせっかく淹れてくれた紅茶ではなく、生唾を飲み込んでから話しかける。
「なにが、あったんだ?」
内容は問いかけではなく、確認だ。
途端、イヴリルの目は大きく見開かれ、膝の上に置かれていた両手が握られた。収まっていなかった怒りのオーラがより強く噴き上がってきて、曲がりなりにも実戦を経たシルフィードをして逃げ出したくなる。
「――――……た」
イヴリルがぼそりと吐いた言葉からは、まるでドラゴンのブレスのような熱があった。それでいてシルフィードの背筋が冷たくなるのはどんなカラクリなのか。
「はい?」
「っっ全部! 奪われたの!」
大声と共にイヴリルの手が激しく机を叩き、拍子に紅茶がこぼれた。