幕間:シルフィード編 ~その十六~
マーチ侯爵としても、これは滅多にない、天の恵みともいえる話である。
金儲けの巧みな貴族として、マーチ侯爵家は貴族社会では鼻つまみ者として扱われている。同時に王国を支える財力を駆使して、各貴族の領地運営に資金を出していることで、大きな影響力を持っているのも事実だ。
マーチ家の資金を受け入れている、あるいは受け入れざるを得ない貴族たちからは表面的には感謝される一方で、裏では悪しざまに罵られている。
乗っ取りを企んでいるだの、人の領地の経営にまで口を出してくるだの、資金的に隷属させようとしているだの、王国を乗っ取ろうとしているだの、帝国と密貿易をしているだの、それこそ様々だ。
これらは事実ではない、と強弁することはできない。精々が、一部事実ではない、程度である。
実際に資金面での影響力を駆使して、マーチ家に有利な立ち居振る舞いをするよう強要しているし、従わない貴族には資金の引き上げを脅しに使うことも多々あることだ。見せしめとして、実際に引き上げたこともある。
名ばかりの貴族の家の名をいくつも使いわけ、子飼いの紹介を複数経由させることで、露見リスクを抑えながら帝国との密貿易も行っていることも事実である。
数少ない事実でないこと、それが王国乗っ取りだ。
政治謀略には長けていても、人望に欠け、軍事的実績も乏しいマーチ家に人がついてくることはあり得ない。
もっと王国上層部や深部にまで食い込みたいとの悲願を持っているマーチ家が、オーク巨樹の赤琥珀というお宝を最大限に利用することを思いついたことで、エステバンとの関係が急速にできあがったのである。
王位継承レースで後れを取っているエステバン。
より大きな権力を求めるマーチ家。
オーク巨樹の赤琥珀を所有しているのは王国貴族であるのだから、お宝を手に入れるために軍を動かす必要もない。軍事的才能に乏しいエステバンにとって、これは僥倖だ。
単なる取引でエステバンは、オーク巨樹の赤琥珀という神話級のアイテムを手にする。この事実は、継承レースで一気に優位に立つことを成功させる。
引き換えにマーチ家は、第二王子との婚約という政治的成功を掴む。
双方にとってめでたいばかりの話を実際に耳にして、シルフィードは拳を握りしめていた。
理性が早鐘を鳴らしている。やめておけ、と。ここでの激発はマイナスにしかならない、それどころか破滅的な運命をもたらしかねない、と。
シルフィードとても理解はしている。右手を握り込むのとは対照的に、頭の一部は冷えている。
イヴリルは妹ではあっても、最近までは関係は冷え切っていたではないか。蔑みの視線を向けられていたし、杖作成に協力していた時期でさえも理不尽な扱いを受けてきた。
異母弟のアルスが口にしたように、貴族に生まれた人間が政治的目的に沿って結婚することなどと当然だ。
言い聞かせてくる脳裏の声とは裏腹に、シルフィードの心の内側にはまったく別のものが浮かび上がっていた。
エントの枝や赤琥珀を手に入れたときの喜んだ顔も、露わにした感情をぶつけてきたときの怒った顔も、ここ数年で一度も見たことのないものだった。
いつだったか、妹というものについてマルセルが、「テラかわゆす」とか「尊死する」とか「マジ天使」とか身悶えながら論評していたことがあった。
妹を持たない身でありながらの熱弁に呆れが強かったと自覚しつつも、ここ最近のイヴリルを見て納得できる面もあるというか、同意せざるを得ない面もあると頷けなくもない。
だからこそシルフィードの怒りは強くなる。
あんなに明るく可愛く笑っていたイヴリルの顔が、怒りと苦痛にあそこまで歪められた。
貴族の条理、家の発展が妹の笑顔よりも大事だとでもいうのか。侯爵と異母弟なら疑いなく大事だと即答するだろうし、即答することがわかっているからこそ、尚のことシルフィードは許せない。
「貴様らは、本当にっ」
「なにを怒っているんだか。これは家のためだ。本来ならあの赤琥珀はおれのものになるべきはずのものだった。跡取りになりえないイヴリルよりも、次期侯爵であるおれにこそ相応しいからな。だが大局を見て王家に献上することにしたのだ。高度な政治的判断という奴さ。ブタだかヒキガエルだかわからん奴には理解できんだろうがな」
瞬間、シルフィードは間違いなく生涯最高のスピードで動いていた。色が変わるほど強く握りしめていた拳を、自分でも信じられないくらいの強い怒りに任せて振り抜く。
「ぶげぇっ!?」
同年代を遥かに上回る体重が存分に乗ったシルフィードの拳は、ニタニタと笑う貴公子アルスの顔面にめり込み、アルスは部屋の端まで吹き飛んだ。
驚きは当主室内だけでなく、開け放たれたままになっている扉を通じて、使用人たちの間にも伝播した。マーチ侯爵も使用人たちも驚きに目と口を最大にまで開き、言葉を失っている。
「ぐべっ! ひぃぃっ、ひいっ!」
床に這いつくばりながら、アルスが喚く。顔を押さえる左手の隙間からは血が溢れだしている。床には血液以外にも、白い欠片も転がっていた。アルスの前歯だ。治癒魔法が奏功しなければこの歳で刺し歯を検討する必要もあることに、シルフィードは欠片も同情を覚えなかった。
「ぎひゃ、ぎひゃまぁぁあっ!」
アルスは父母の愛を一身に受け、次期侯爵と目され、優れた容貌と頭脳と魔力を併せ持つ、まさに理想的な貴族の御曹司としての人生を歩んできた。
顔面を殴られたことなど、生まれて初めてのことだ。吹き飛ばされたことも、訓練でもここまで派手に吹き飛ばされたことはない。こんなケガをしたことも、もちろん初めてのことだった。
顔の下半分を血に汚したアルスは、怒りと恥辱に塗れながら琥珀の指輪を嵌めた右拳をシルフィードに突きつけ、ようとして目標を見失った。シルフィードは既に当主室から出ていっていたからだ。
怒りの矛先を一瞬で失ったアルスは全身を震わせ、声にならない叫びを吐き出した。
屋敷を飛び出たシルフィードは街を走り回っていた。いや、走っていたのは最初の僅かな時間だけで、今はもう肩を上下させながら歩いているだけだ。
体力的には若干の余裕はあっても、関節には余裕が残っていなかったのである。額から流れる汗は運動と疲労によるものではなく、関節からの痛みが原因だ。
「これ、は、本気で、ダイエ、ト、しないと」
シルフィードの生活は基本的に座っていることが多い。研究資材を集めに各地を奔走することは確かにある。だが資材集めが終わると、研究のために一日中、座って過ごすことが大半だ。
他に動くことがあるとすれば、研究からわかった知見を使って、魔法を習得するための訓練――報われた例はないが――を行うときくらいでしかない。
「それにしても、イヴリルはどこに行ったんだ」
見当もつかないとはまさにこのこと。兄妹の関係は冷え切っていて、会話もなければ目も合わさない。偶に言葉を交わしたと思えば、睨みつけられて舌打ちを受けるだけ。
言葉じゃないな、それは。
シルフィードはイヴリルの交友関係は知らない。よく行く店も、好きな食べ物も、楽しみにしていることも、なにも知らないから、どこをどう探したらいいのか見当がつかない。この前、家に来ていた令嬢たちのところだろうか。
「彼女たちがどこの家の人間かも知らないんだよなぁ」
正式に紹介してもらっていないし、社交界にも出入りしていないから顔と名前がさっぱりわからないのである。
もっと世界を広げておくべきだった、と後悔して、社交界の空気は無理そうだと思い直す。
シルフィードの頭の中は、結構な具合にグチャグチャになっていた。
今のシルフィードは、時間を研究のために使うと決めている。
かつてはマルセルに付き従い、向上心はなく、堕落した日々を送るだけだった。今は、フィールドワークの予定も立てているし、没頭しすぎて効率が悪くならないよう休憩時間も作っている。
人を、それも仲のよくない妹を探すために街を駆けまわる時間など、冗談でも設けてはいなかった。




