幕間:シルフィード編 ~その十五~
シルフィードはイヴリルを追いかけようと起き上がり、ふと当主室の内側が見えた。当主の指輪の多い手の中には、一枚の紙きれがあった。遠目にも上質のものだとわかる紙面には、あろうことか王家の紋章が記されている。
「これは一体どういうことかな、侯爵」
シルフィードは入室の許可を得ることなく、当主の部屋に足を踏み入れていた。最低限の礼儀すら取っ払っての行動に、少なからず自身も驚く。
入室自体が目的ではない。王家の紋章の封蝋が施されていた手紙の中にこそ関心がある。大体の見当はついていても、確認の必要性を感じていた。
マーチ侯爵が得意気に机上に置いた手紙は開かれたままだ。侯爵に手紙を隠されてはかなわないので、視線を動かさずに手紙を読む。
特技というか何というか、シルフィードは前を向いたまま、視野のすべてを把握することができる。魔法を使っての防御や回避ができないので、視野を広くしようとした結果だ。
もう一つの特技が速読である。特にこれといった訓練をしたわけでもないシルフィードは、周囲からは速読を習得しているのではないかと疑われるくらいに読む速度が速い。数秒であっても視界に収めることができれば、大体の内容は把握できる。
「っこいつは」
王家からの手紙に書かれていた内容は、嫌悪に顔を歪めないように膨大な量の努力を要し、結局、努力は報われなかった。
――――赤琥珀という至宝の献上に、侯爵と侯爵家のこの上ない忠誠と愛国心を確信する。
要約するとこんなことが書かれていた。
マーチ侯爵はイヴリルから赤琥珀を取り上げた挙句、王家に献上までしたのだ。
ドスドスと入ってきたシルフィードは手紙の内容に驚いたが、シルフィード以上に驚いた顔を見せたのが異母弟のアルスだ。
現マーチ侯爵は仕立ての良い服に長身を包んだ品の良い美形で、ウミガメの甲羅を使った眼鏡で欲望の強い両目を誤魔化している。
アルスは如何にも貴公子といった風で、異母兄のシルフィードは似ても似つかない。父親譲りのスラリとした長身で、足は長く、涼しげな目元と整った美貌で、既にして女子からの憧れの的だ。
「兄……いや、ブタ野郎か」
「貴様に入室を許した覚えはないぞ」
「侯爵の机に置かれているその手紙。どうして王家の紋章が刻まれているのかな? マーチ侯爵家は王家との仲は疎遠なはずなのだが、いつの間に関係修復に成功したのか、教えてもらってもいいだろうか?」
シルフィードは父と異母弟の言葉をすっかり無視して、内心はともかく少なくとも表面上は穏やかに問いかけた。
シルフィードの体形はみっともなく、だからといって頭の回転が鈍いわけではない。イヴリルの表情や感情の激しさから、どんなやり取りが行われたのかは大体は察しがついている。
答えがわかっていることを聞き、しかし侯爵から返ってきた答えは、シルフィードの予想を上回っていて、より低劣なものだった。
「ふん、貴様には関係のないことではあるが……まあいい、特別だ。今は機嫌が良いからな、教えてやる。簡単なことだ。どうやってかは知らんが、イヴリルが赤琥珀を持っていた。儂の子飼いの商人どもも手に入れておらなんだというのにな」
どうやらイヴリルは入手先については話していないらしい。イヴリルの性格なら、如何に相手が父親で侯爵であっても、高圧的に出てくる相手には、確かに強要されたところで話すはずもないだろう
「貴様とて曲がりなりにも侯爵家の一員なら、赤琥珀の価値についてはよく知っているだろう。あの赤琥珀、あれはイヴリルなどが持っていても意味のないものだ。より優れたものが持ち、最大限、有効に活用することがもっとも正しいのだ」
「活用だと?」
「イヴリルがあれをどこで手に入れたのかはわからんし、貴様如きではあれが何なのか見当もつかんだろうが……あれはオーク巨樹の赤琥珀だ。この世に二つとない、まさに世界の至宝。伝説の中でしか存在が認められていない代物だ。イヴリル程度ではこれを持つのに相応しくない」
侯爵の発言に、シルフィードは精神的な吐き気を覚えた。実際に嘔吐しなかったことを褒めてほしいくらいだ。
世界に二つとない至宝、の部分には同意するが、イヴリルが相応しくないとはどういうことなのか。
イヴリルは正しく侯爵家の血を引き、才能豊かでありながら努力を惜しまず、尚且つ貴族令嬢としての振る舞いも――シルフィードに対しては微塵も見せないことは別として――十分に身に着けている。
権力志向の強い俗物侯爵や、俗物の考え方を色濃く受け継いでいる異父弟よりも、遥かに赤琥珀に相応しい。
元よりあれはシルフィードが手に入れたもので、よんどころない事情を経て、シルフィードがイヴリルにプレゼントしたものだ。
イヴリル以外に赤琥珀を持つに相応しい相手はおらず、ましてや侯爵などが所有の相応を論ずるなどあり得ない。
「あんたなら相応だとでも言う気かな?」
「ふん、やはり考えが足りんな。臣下の身で至宝を持つのは気が引ける。あの至宝に真実、相応しいものの手にこそあるべきだ」
「それで、王家に売り渡したわけかっ」
シルフィードは驚愕ではなく嫌悪に目を剥く。世に二つとないとわかっていながら、オーク巨樹の赤琥珀を取引の材料にするなど。むしろ侯爵家が所有をひた隠しにして、嗅ぎつけた王家が献上を強制してくるような代物だというのに。
魔法の道を志すものなら絶対に手放すはずのない、手放してはならないアイテムを、まさかまさか権力強化の道具に使うとは。
シルフィードの非難と侮蔑の視線にも、侯爵親子は動じた風もない。
「ブタにはわからんだろうがな、献上するのが臣下として当然の選択さ。ですよね、父上?」
「その通りだ。もちろん、それ相応の利益は得るさ。なにしろ我が家には多くの宝石がある。赤琥珀は惜しいが、差し出すことによって得られる利益を考えれば、十分以上と言える。言っておくが貴様には早々に家を出ていってもらうぞ? 王家の外戚には相応しくないからな」
「!? まさか貴様ら……赤琥珀だけでなく、イヴリルまで売ったのか!」
「口を慎め。これは慶事だぞ。エステバン第二王子殿下とイヴリルの婚約だ。我がマーチ侯爵家の未来と繁栄のために必要なことだ」
「そうだ。あいつだっておれの妹。マーチ侯爵家の娘だ。貴族の娘が家のために使われることくらい、自分の役割として十分に弁えているさ。王族に嫁げるのなら、むしろ最高の幸せだと喜ぶべきところだろうが」
シルフィードは内心ではなく、本当に天を仰いだ。顔を両手で覆っている。
ミルスリット王国第二王子エステバンはマルセルたちほどではないが評判が悪い。というより、マルセルが国中の悪評を一身に集めているため目立っていないだけだ。
金と美女と権力と贅沢が好きで、王族として国家の未来を考える時間があるのなら、遊ぶことに精力をつぎ込むと知られている。短気で器が小さく、不公平で誠意を持ち合わせていない愚物である。
奴隷商人や地上げ屋などの悪徳商人たちから多額の献金を受けていて、本来なら手が後ろに回っているはずの彼らがお縄にならないよう、露骨な圧力をかけているほどだ。他にも敵対者を犯罪者や、敵国への内通者に仕立てる程度の手腕も持っている。
第一王子は聡明であるが病弱とあって、立場的に本来なら王太子の候補に挙がってもおかしくない。だが素行の悪さと能力の低さ、なにより人望のなさから、弟の第三王子を推す声が王宮内では大勢を占めつつあった。
だからこそ手を結んだのか。
シルフィードは事の裏面を正確に見抜いた。権力欲の強いエステバンは、次期王位を狙うレースで弟に後れを取っていて、情勢を覆すための手柄を欲していた。
戦場で武功を上げることは危険が高いために避け、国民の生活向上のための政策などはバカバカしいと見向きもしなかった。
エステバンが欲したのは危険がなく、簡単に手に入り、且つ圧倒的な実績となるわかりやすい手柄だ。まさにすべての条件を満たすものがオーク巨樹の赤琥珀であった。