幕間:シルフィード編 ~その七~
更には目の前の状況だ。貴族令嬢の自分がこんな低俗愚劣なバカ共に付き合わなければならないとは。不愉快極まりない。
こんな、歩いたこともない細く汚い道。最初こそは物珍しさへの好奇が勝ったが、今ではマイナス方向の感情ばかりになっている。
汚く暗く淀んだ空気。汚水や排泄物で異臭漂う道。何気なく見上げても、棟と棟の間に渡された紐に大量の洗濯物が干されていて、空はやたらと狭い。
それもこれも全部、先を歩くだけで後ろを気にも留めなかったシルフィードが悪い。全面的に。
「ほんっと、あのブタは」
ぼそりと呟いた言葉には怒りが溢れていて、イヴリルの体からは怒りの代わりに魔力が漏れ出た。ビリ、と空気が震える。
「ぉ?」「んん?」「は?」
恐喝や誘拐を生業にして何年経ったか数えてもいない男たちも、それなりに荒事の現場を潜ってきている。その経験が彼らの乏しい危機管理意識を刺激した。
獲物と捉えた少女は実は、とんでもなく危険な相手ではないだろうか、と。
「な、何だ、今の?」
「おおお、俺が知るかよ」
「このガキ、もしかしてかなりヤバいんじゃないのか」
イヴリルの目付きは険しくなり、男どものざわめきなど、たった今気づいたかのように溜息を吐いた。腕を組んだまま、右手人差し指を微かに動かす。
「あんたらには用はないわよ。ドブネズミらしく汚らしい住処にでも帰りなさい。そしたら見逃してあげる」
イヴリルは実戦経験こそ乏しいが、魔法騎士を目指すものとして戦闘訓練は既にこなしている。商取引を重視するマーチ侯爵家の人間にしては珍しく、剣術にも真面目に取り組んでいる。魔力も体術的にも、この男たち程度なら負けることはない。
ただし言葉の選択だけは決定的に間違っていたことを、当のイヴリルは気付いていなかった。
イヴリルのことを危険だと判断した彼らの認識は正しく、イヴリルとどこかしら似たところでもあるのか、選択した行動は決定的に間違っていた。
危険だと判断したのなら逃げ出せばいいのに、彼らは尚も向かうことにしたのだ。
「ふ、ふざけんじゃねえぞ!」
「なんだこのガキ、そんなに痛い目に遭いてえか!」
「ったくもう、無傷で見逃してやるってんのに、どうしてわざわざ自滅しにくんのよ」
イヴリルは予備に持っている杖を構え、ようとして取り落としてしまった。
「ぇ!?」
「はっ、バカが! 調子に乗るからだ!」
実力差は明白。実戦経験には欠けていてもなんとかなると思っていたが、歯を剥き出しにして迫る男たちに気圧されてしまったのだ。
痛恨のミスにイヴリルの焦燥は一瞬でピークになる。魔法が発動できないのならどうするか。突かれたらこう捌く、体当たりにはこう躱す。そんな発想すら出てこず、固まってしまう。
「べぎょ!?」
しかし物理的な不幸に見舞われたのは男たちのほうだった。男たちの足元の汚い石床に魔力が干渉、敷かれている石床の一部が勢いよく打ち出され、一人の男の股間を強かに打ったのだ。
打たれた男は奇声と共に宙を舞い、地面にではなくボロアパートの一室に飛び込む羽目になる。住人こそがいい迷惑だろう。
「っ! あんた!?」
イヴリルの視線の先、男たちの後方、路地の入口付近に鼻息も荒い、明らかに体積の大きい人影があった。
「なんだあ、このブぎょほ!?」
「オークがなんでこんなとベポ!」
「このヒキガエげふぁ!?」「ろも!?」「ぐっふぉ!」
まさに電光石火。まるで噴水のように次々と石が突き上げられ、容赦なく男たちの股間を砕いていく。シルフィードは魔法を使えない。代わりに、魔力操作技術はどんどんと上達し、狙った箇所の石を弾くくらいのことはわけもない。
「ひ、ひぃげぎゃはっ!」
最後に残った――残ってしまった男がシルフィードから逃げ出そうとして、宙を舞った。勢いよく跳ね上がったイヴリルの足に、顎を蹴り砕かれたのだ。
生涯に亘って固形物を食べられなくなった男にちょっぴり同情しながら、シルフィードは絶賛不機嫌中の妹に近付く。
「イヴリル、大丈夫だったか!?」
「っえ?」
「ぶひぃ、すまない、自分のペースだけで歩いてしまっていた。ケガはなかったかい?」
「だ、大丈夫に決まってるじゃん。でも」
丸くなっていたイヴリルの目が少しだけ下に落ちる。つられてシルフィードの視線も下に。一体いつ以来だろうか、兄妹の手はしっかりと握られていた。
「す、すまない」
ハッとしてシルフィードは慌てて手を放す。イヴリルは軽く手を振った。
「はぁ……次からは気をつけて。あたしもはぐれないようについていくから」
「お、おう、じゃあ、こっちだ」
シルフィードはへどもどしながら歩き出した。
今度はちゃんと一定の距離を保っている、いかにも鈍重そうな足取りに、イヴリルは自分が不安や恐怖、もちろん怒りからも解放されていることに気付き、少しだけ表情が和らいだ。
シルフィードは今度こそはぐれることのないよう、気を配りながらも迷いなくバランスの悪そうな足を動かす。
大通りから外れると、途端に人々の喧騒が遠のいた。建物のせいか空気のせいか、まだ日中であるにもかかわらず周囲はどんどん暗くなっていく。
奥に進めば進むほど、そこに住む人々からは活気よりも陰鬱とした気が感じられる。道端で寝ている酔っ払いや、薄汚れた格好でうろつく物乞いもいる。
店に所属していない娼婦の衣類が軒先にぶら下がっている家もあり、イヴリルは明らかに気分を害していた。シルフィードは恐る恐るの態で声をかける。
「ぶひ、大丈夫か?」
「はあ? 別にどうもしてないっての」
「そ、そう。ならいいんだ、うん」
僕は気遣ったはずだよな。シルフィードの脳内にはクエスチョンマークをいくつも浮かび、口に出る前にイヴリルの苛立ち紛れの眼光に叩き落とされた。
「ほんっとなんなのここ? こんなとこにオブライン魔法具店よりいい店があるっての?」
「う、うん。本当だよ。僕もよく利用している店だ」
「よく使う? こんなところの店を?」
「こんなところって、ここも王都だよ? 人が生活している。確かに汚いし、歩くと靴は汚れるし、服には嫌な臭いがつくけど、これもちゃんと王都の一面だ」
「っ……わかってるわよ」
イヴリルはそっぽを向き、向いた先で建物に寄り掛かって眠っている浮浪者を見て、小さく短い悲鳴を上げた。
仕方ないことだ、とシルフィードは理解する。王都のスラムは、貴族が住む世界とは環境が違い過ぎる。貴族として、優秀な魔法騎士候補としてのみ生きてきたイヴリルにとって、綺麗でも華やかでもない場所は、まさしく異世界と言っていいだろう。
シルフィードは妹に向けて手を差し出した。
「平気かい、イヴリル?」
「……」
差し出した手には冷たい視線が突き刺さった。相変わらず、兄妹の間には適切で公正な交換は成立しえないらしい。
「ねえ、それよりも、どこに向かってんのよ。まだつかないわけ?」
「大丈夫だよ、もうそろそろだから」
シルフィードが指し示した先は王都にある職人街の更に奥にある、昼でも薄暗い通りの一角だ。建物の構造からして独立した建物ではなく、連棟造りの建物の一部屋を借りて営業している店が大半のようだった。
どの店も看板の一つも出していない。イヴリルは眉をしかめるが、シルフィードは「こっちだよ」と言いながら店へと進む。
「うひゃ!」
慣れているとは言っても、シルフィードも貴族だ。悪臭とグニャリとしたなにかを踏んづけて、思わず飛び上がってしまった。
イヴリルが後ろを振り向くと、路地の入口は既に遠く道もわからなくなっていて、今更引き返すわけにもいかない状況になっていた。
「これでしょうもない店なら絶対に許さないから」
凄んできたイヴリルに対し、
「きっと大丈夫だから」
返事をしながらも、半ばは自分に言い聞かせていた。




