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幕間:シルフィード編 ~その六~

 太い手で店長の引きつり気味の笑顔を遮る。


「いや、この店はもういいよ。行こう、イヴリル」


 シルフィードは短く断言して、体を回転させた。


 イヴリルは戸惑いながらもシルフィードについて店を出た。帰り際、チラリと店長を見るイヴリルの目は氷点下そのもので、王国屈指の名店は少なくともマーチ侯爵家からの信頼を失ったのだった。


 見送る店長の表情は深い絶望が刻まれていて、この先、社交界を通じて話が広がり、凋落していく未来が克明に見えているようだ。あの店長はこの後すぐに、後ろ盾となっている貴族に泣きつくことだろう。


「何なワケ、あの店? あんなやり方でよく貴族御用達なんてやってられるわね。ばっかじゃないの」


 騙されそうになったことに怒り心頭のイヴリルとは逆に、シルフィードの頭は冷静だった。マーチ侯爵家は国内外で名の知れた家だ。金儲けが好きといった悪評が主ではあるが、それだけに商人たちの間では影響力が大きい。


 その侯爵家令嬢を騙そうとしたということは、侯爵家の人間を騙してやろうと思うほどに怨恨を抱いているか、マーチ侯爵家と敵対関係にある派閥に取り込まれているか。


 どっちもありそうだから困る。


 確かなことは一つ、二度とあの店に行くことはない。シルフィード自身は元より、オブライン魔法具店の看板に信頼を寄せていたイヴリルも。


「ちょっと、どこ行くのよ」

「僕の知っている店に行こう」


 シルフィードは資料や道具を集めること自体が好きで、高位貴族の人間にしては珍しく、市井の店にも平気で顔を出す。


 玉石混交、海千山千の商人たちの間を渡り歩く中、これは、と確信できるだけの名店もいくつかは見つけている。個人的に信頼関係を築いている店や人も少なくなく、集めた品の管理を任せている例もあるほどだ。


「こっちだよ」


 勝手知ったる、とまではいかなくとも、イヴリルよりも地理には詳しい。ふくよかと言い張る体形でずかずかと歩くと、結構な人がシルフィードを避けていく。


 そんなに怖い顔や目付きはしていない筈なのに、と少しだけ落ち込みつつ、資料を取り返すためにもイヴリルの頼みを全力で叶えるべく、目当ての店に向かって歩いて行くシルフィードだ。


「あの素材なら、きっとイヴリルも気にいるはずだよ。なにしろ王家や公爵家の人間でもまず目にすることはないだろうものだ。エルダートレントなんか目じゃない」


 歩きながら杖の材料について口早に説明する。


 シルフィードにしても、あの素材はかなりの貴重品だ。果たして生涯で次の出会いがあるかどうか。けれど、素材は探し求めればまた手にする機会に恵まれるかもしれない。


 引き換え、研究資料は記憶を頼りに再現するにも限界がある。同じ素材、同じ環境を整えたとて、詳細な手順や、一つの実験に辿り着くまでに積み重ねた他の実験や考証をすべて覚えているわけではない。


 資料がなくなることは、これまで積み重ねた一切を失い、また最初からやり直すことと同義。やり直したところで、同じ場所に辿り着けるかどうかも不明。


 このことに比べれば、世界的に貴重な素材を失うことなど、比重的には軽い。


 イヴリルの課題を手伝おうとの親切や情などの意識には、決定的に欠けている。イヴリルの望みをかなえるための行動はつまるところ、自分の望みをかなえるための行動だ。イヴリルのための行動ではない。


 自己本位な行動原理に基づく、他者を省みない行動。シルフィードの頭の中にあったのは、さっさと素材を渡して資料を回収する。このことだけだった。


 時間が惜しい。シルフィードは独善的に考え、受け取り手の妹がちゃんとついてきているのかを確かめようと振り返り、しかし後ろには誰もいなかった。


「お? イヴ、リル……?」


 はぐれたのか。仕方のない奴だ。まったく資料の回収が遅れるじゃないか。


 どこまでも勝手にそんなことを考え、唐突に嫌な予感に思い至った。


「いや、でもそんなはずは」


 もしこれが誘拐だとしたらどうなるか。貴族や富裕層は、常に狙われている。貴族らに反感を持っている連中はどこにでもいるし、マーチ侯爵家そのものを憎む連中だって枚挙に暇がない。


 イヴリルは正しく両親の血を受け継ぎ、自分の妹とは思えないほどの美少女だ。イヴリルが貴族やマーチ侯爵家を恨む人間の手に渡ればどうなるか。殺されるだけで済めばいいほう。散々に汚されて人買いに売り飛ばされる事態だって考えられる。


 さぁ、とシルフィードは己の全身から血の気が引くのを自覚した。足元がおぼつかなくなるとはまさにこのことか。


「ああ、もう! どうして僕は!」


 自分のことばかり考えて、自分よりも年下の少女のことを考えなかったのか。


 今でこそ家族との仲は良好とは真逆だが、かつてはもう少しは良好なものだった。


 特にイヴリルは家族どころか一族内で唯一、シルフィードに懐いてくれていたのだ。いつしか冷え切った関係へと変質していき、シルフィードも変化を受け入れていた。


 それがひょんなことから、こうして一緒に市場に出る機会に恵まれたのだ。自分のことばかり考えるなど、愚かしいにも程がある。


 早く店に着いたところで、その分だけ資料が早く返ってくるわけでもないし、早く返ってきたところで、研究の進捗速度が劇的に向上するわけでもない。


 友人のマルセルが必死になって変わろうとしているのを目の当たりにして、シルフィードも己を見つめ直し、変わらなければと自覚していた。


 自覚するだけで行動に反映されないのであれば、何の意味もないではないか。


「僕のバカが!」


 まったくもってその通りであり、自分で自分を罵ったところでイヴリルが見つかるわけもないのも当然だ。シルフィードは突進するように人ごみの中を逆走していった。


 かたやイヴリルは、怒りを湛えながら腕を組んでいた。


「おいおいおい、貴族の女だぜ、兄貴ぃ」

「可哀そうに、震えてるじゃねえか。おめぇら、優しくしてやれ」

「こんな上玉ならしばらくは遊んで暮らせらぁな」

「よっしゃー、大人しくしてろよ、ガキ。しょうもない抵抗なんてすんじゃねえぞ」

「ちゃんと抑えとけよ、売り飛ばすんだからよ」

「おら、さっさと持って行くぞー」


 数人の男たちに囲まれながら、イヴリルが少しだけ体を震わせていた。明らかに無頼漢といった風情の男たちへの恐怖、ではなく、自分を忘れて先に先にと歩いて行ったブタ愚兄に対する怒りのためだ。


 こっちだ、などと言っておきながら、イヴリルは人の波に吞まれ、両者の距離は少しずつ離れていった。


 ――――ま、待ちなさいよ。


 歩き続ける中、大きいというよりも分厚い背中が遠ざかっていき、イヴリルは人ごみの中にいるにもかかわらず、急に一人ぼっちになったかのような感覚に襲われた。


 不安から逃れるように、兄に向けて手を伸ばし、しかし届くはずもない。


 何日か前、貴族の子女をターゲットにした誘拐事件が起きている、などと学院で話題にしたのが間違いだった。


 はぐれたら会えない。得体の知れない恐怖が背中に押しかかってきて、追いつこうと駆け出し、躓いてこけそうになった。


 顔を上げたときには、完全にシルフィードを見失っていた。


 まったく、商店では予想外の目利きを見せられたことで見直したのに、大した時間を置かずに再び評価を下げることになった。下手に上昇した分、下げはかなりきつくなっている。


 こっちだったかな、と適当に当たりを付けて歩いたところ、完全に道を間違えてしまう。大通りへ引き返すべく体の向きを変え、野卑な男どもと遭遇することになったのである。

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