幕間:クライブ編 ~その三十~
極端なことを口にするなら、筋肉を鍛えることさえできれば、クライブはどんな環境でも耐えることができる。
肩身の狭い実家でも、筋トレ器具が揃っているのなら問題はない。
白い目を向けてくる学院でも、筋トレをするだけの広いスペースがあるのだから天国だ。
山籠もりともなれば、自分にもっとも相応しい栄養コントロールを自分でできるようになるのだから、非の打ち所がないではないか。
牢屋でも同じことだ。差し入れで筋トレ器具を頼んだのに、言下に却下されたことは悲しむべき事実であるが、器具を使わない自重トレーニングを駆使すればいいだけの話。
故に牢生活で最も困るのは主に二つ。
一つは栄養面だ。
牢では食事の回数は朝と夜の一日二回でしかない。筋トレに効率の良い栄養補給を目的に、クライブは一日に五回は食事をすることにしている。
鶏ささみ肉を代表とする食材と、筋肉を作る成分の多く入った筋トレ用ドリンクがまったく手に入らないのは、精神的な苦痛が非常に大きい。
そもそも一日に必要なカロリー量が一般人とクライブとでは天地程にも違う。
一日に十万カロリーは摂取すると噂されるシルフィードとまではいかなくとも、クライブの必要栄養量も常人を遥かに上回る。牢で提供される食事ではまったく足りない。
量も足りず、しかも本当に不味いときている。学院で「臭い飯」と笑っていたのは、紛れもない事実であった。
食後に横になっていると、虫の声よりも腹の音がうるさいレベルで量は不足している。隣の牢に入っている囚人からは苦情が来たこともある。
筋トレをすれば空腹を紛らわすことができるじゃないか、と素晴らしい考えに至り、猛烈な量のトレーニングを課したところ、筋トレの掛け声と汗の臭いへの苦情が出た。
牢番から注意されても、日課を欠かすわけにいかない、と意に介さなかったが。
もう一つ、困る点というのは筋トレに割く時間が根本的に足りないことだ。山籠もり中は一日のほとんどの時間を筋トレに費やしていた。
スクワットも懸垂も、ダンベルなどの器具を用いたトレーニングも、急流を遡っていく水泳トレーニングも毎日のように行ってきたのだ。
しかし今は囚われの身――不当に捕まっているような表現ではあるが、実際は正当な容疑による拘束だ――とあっては、いずれもできそうにない。
起床も就寝も食事も補水も厳しく管理されているので、筋トレ時間など満足にとれない現実があった。
僅かな時間を利用して、汗で水溜りをいくつ作っても、質も量も物足りない。
虜囚は魔法を封じられるので、風による加圧も行えない。
睡眠ですら片足での空気椅子を取り入れることで、睡眠学習ならぬ睡眠筋トレに勤しんでいたというのに、今ときたらどうだ。
「いい加減に白状しろ! 貴様がかかわっていることはわかっているんだ!」
「この取り調べはいつまで続くでおじゃる!?」
アムニテッシュの巨大奴隷市場を襲撃したとして、連日厳しい取り調べを受けているのだ。朝飯を食べるとすぐに取調室に連れていかれ、そこで夜までみっちりと絞られる。
娑婆にいたときは食べていた昼食などが出るはずもなく、水分補給すらままならない。
「み、水を」
「その調書にサインをしたらくれてやる」
「これは只の捏造でおじゃろうが! どうして麿が襲撃の立案から実行までを取り仕切っているのでおじゃるか!? しかもまったく見覚えのない名前が共犯に書かれておるのだが!?」
「やかましい! いいからさっさとサインをしろ!」
「してたまるか! この共犯者とやらを陥れるためのものではないか!」
「だったら水はなしだ!」
「おじゃぁぁああ!?」
クライブは一応、捕まった時に家名を名乗っている。オルデガン伯爵家の名前の持つ力はかなり大きなものであり、本来なら取り調べはおろか拘留されることすらなく、放免されていた。
そうならなかったのは、オルデガン伯爵家がやらかした悪事の被害者が、偶々、アムニテッシュ襲撃犯の捜査指揮を執っていたからだ。
つまるところ、私怨により身柄を抑えられているのである。いずれはオルデガン家の手が回って釈放になることは確実として、それまでは絞り上げようという魂胆だ。
指揮官は家柄でも立場でも権力でもオルデガン伯爵本人に報復することはできない。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、とばかりに息子のクライブに矛先が向けられたのである。クライブにとってはとばっちりでしかない。
日がとっぷりと暮れてから牢屋に戻され、そこからが夕食だ。
家や学院で食べていたような高級食材など使われているはずもなく、山籠もりで食べていたような野性味あふれる食材でもなく、財務から何度も何度もコストカットの要請を受けた末に完成した、カサ増しも甚だしい激マズな食事である。
クライブが隣の層の住人に聞いたところ、数年前まではパンもまだマシだった。硬くてスープに浸さないと食べられないような代物が出ることもあったが、それでもちゃんと小麦で作られていた。
それが今では、小麦にジャガイモを混ぜた実験用のパンが出されているという。
小麦よりも安く、大量に出回っているジャガイモ。しかも小振りであったり欠けていたりと、市場では見向きもされないようなクズ芋を大量に仕入れて混ぜているのだ。
現在のミルスリット王国は平和だが、いつ戦争が起こっても不思議ではない。一度戦争が起きても、短期決着を見るのならまだいい。希望的観測をまるッと無視して、長期化することだって十分にあり得るのだ。
戦争の長期化は様々な弊害を生む。穀物や野菜価格の上昇や、流通網の寸断などは代表的なものだ。
常に良質なパンを前線に供給できる保証もない。であるならば、どこまで不味くしても耐えられるか、を見極めようではないか。
そんな、悪魔的発想が軍部で行われ、かと言って兵士や魔法騎士相手に食実験をすれば士気にかかわる。
「だから麿たちがこんなクソ不味い食事を押し付けられているでおじゃるか!?」
クライブに事情を教えてくれるのは、色々と親しくなった隣の房の囚人だ。
「前にお前の房に入っていた奴な? 腹を壊して病院に運ばれていったぞ。パンの混ぜ物に、どうも病気のジャガイモが使われていたらしい」
「えげつないにも程があるでおじゃろうが!? そこの小窓にパンくずを置いて、寄ってきた小鳥と会話をしたかったのに、一羽も寄ってこないからおかしいとは思っていたでおじゃるが!?」
「動物虐待だからやめておけ」
「虜囚に対する虐待についてモノ申したい!? 牛乳を拭いた後の雑巾ような臭いでおじゃる! 鼻をつままないと食べられない食事というのはあまりにも酷いでおじゃる! 鼻をつまんでも胃が押し戻してくるでおじゃるよ!」
筋トレに必要なエネルギーも栄養素を補給できないのだから、クライブにとって牢屋の食事は最低最悪のものである。
一日中、取り調べを受けて、就寝までの僅かな時間しか筋トレに費やせないというのに、筋トレを支える食事がここまで貧相且つ劣悪とは。
そこに牢番がやってきた。
「やかましいぞ! さっさと食え!」
「どうやって食べたらいいのかわからんでおじゃる」
「覚悟を決めて口の中に押し込んで一切咀嚼せずに水と唾で流し込んでその後は口を抑えて戻さないことに全力を尽くせ」
「食事のマナーとして明らかにおかしいでおじゃろう!?」
「貴族様のお綺麗なマナーなんぞ知るか! ここではそれがマナーだ! わかったらさっさと食え! 臭くてたまったものではない! ああ、ちなみに俺の今日の夕食は支給された白パンにシチュー、そしてチョコレートだ」
「「「この外道っ!」」」
牢の中と外の絶対的な格差を思い知るクライブであった。
翌日の取り調べ。
「いい加減に吐かんかぁっ!」
「吐く! 吐くでおじゃるから!」
オエー。
「こんなもんでいかがでおじゃろうか」
「舐めとんのかぁっ!?」
「ひーん! 誤魔化しきれなかったぁっ!」
クライブが牢から出られたのは、更に三日後のことであった。
出所の際、隣の牢にいる男に上手い食事を差し入れることを約束したのは、人として当然のことである。