第八話 マルセルとメイド
言葉が出てこない。
「大丈夫ですか、カリーヌさん」
カリーヌだって!? て、お前が入ってくるの!?
部屋に走り入ってきたのはあの美少女メイドだ。名前はもう思い出している。
ラウラ。
高い戦闘力を持ち、見せ場の多い人気キャラで、主人公のハーレム要員の一人である。公爵家の権力にものを言わせて迫ってもフラれたマルセルの立場って一体。
そして今回のループの中では、遂にはマルセルを殺した相手でもある。
ラウラは倒れたメイドに駆け寄り心配そうにしている、のはいいのだが、
(おーい、俺は? 俺の心配がすっぽり抜け落ちていますよ? 水まみれでコップの直撃も受けたんですけど? あまり自信はないけど、一応、こっちが雇い主ですよ?)
心の声が駄々洩れになるのは嫌だが、ときには心の声が相手に届いてほしいと思う今日この頃である。
ラウラの後ろでは他のメイドたちが顔を真っ青にしている。きっとラウラも、この転んだ少女メイドも酷い目に遭わされると思っているのだろう。
「ぼ、坊ちゃま、大丈夫ですか? カリーヌ、なにをしているの!」
ベテランメイドが駆け寄ってくる。
「坊ちゃま、申し訳ございません! このものはまだ入って日が浅く……す、すぐにクビに致しますのでっ」
「それには及ばない」
俺は笑ってみせた。できるだけ穏やかに笑ったつもり。だが使用人たちの顔色は極めて不良で引きつっていることから、かなり下劣なものに見えたらしい。
「……笑顔も練習が必要だな」
「はい? 今なんと?」
「いや……水に濡れただけだ。体を拭こうと思ってたからちょうどいい」
これが原作通りのマルセルなら、罵倒や暴力を執拗に叩きつけるに違いない。過剰な暴力を振るって、無駄にヘイトを集めるのだ。
俺は違う。そんなことは絶対にしないからな。俺は原作のマルセルほど狭量でも自分勝手でもない。
水がかかったくらいがなんだ。バイト先で客に理不尽な要求をされても、店長から筋違いの罵倒を受けても、曖昧な愛想笑いで乗り切ってきた経験がある。
未来の歴史書にはこう記されるであろう。マルセル・サンバルカンは海のように広く、空のように果てのない心の持ち主であると。なにより、彼女にキレるなんて真似、できるはずがない。
目蓋の裏に原作を思い出す。
それはマルセル最後の時間。打つ手打つ手の悉くを突破され、追い詰められて逃げ込んできた本拠地でのこと。
金で雇った傭兵たちは既に逃げ去った後。しかも金目のものは根こそぎ奪われていた。マルセルにとっての最後の資金、とっておきの資材も奪われ、再起を図るという願いは完全に潰えた。
「くそぉっ! なんだこれは! なんで!? どうして!? こうなるんだよ! 貴族のオレがこんな目にぃっ!?」
マルセルと主人公たちとの出会いから三年が経っていた。
「アクロス」は主に学院を舞台にした「第一部・学院編」と、学院最上級生となり世界を揺るがす陰謀と戦うことになる「第二部・騒乱編」とにわかれている。
第一部は十八巻で終わり、十九巻以後は第二部だ。第二部最初の敵がマルセルで、二十二巻で死亡する。
死亡前の最後のシーン、荒れ果てた、だだっ広い空間。日の光も届かない、冷たく淀んだ空気が漂う空間だ。外からは追っ手たちの気配がひしひしと伝わってくる。
完全に追い詰められ、目や歯を剥き、髪を搔き乱す。使用人はおらず、部下も仲間もいない。
協力者だった例の組織からも支援のすべてを引き上げられ、悪役三人組の他の二人はマルセル自らが遠ざけ、姉のティアも主人公側に身柄を抑えられていた。
一人ぼっちになったマルセルの、唯一の例外が彼女、カリーヌだった。
原作では彼女にはセリフらしきセリフはない。マルセルの無茶振りに淡々と従う描写があるだけで、「はい」とか「わかりました」としか言わないキャラだった。そのカリーヌに、マルセルは理不尽にキレた。
「どぉぉおおしてお前はオレの傍にいる!? 落ちぶれていくオレを見て楽しいか! は! 散々、お前らを踏みつけてきたオレだ。名門貴族のオレがお前みたいな下等な平民以下になるのが嬉しくてたまらないんだろ!」
カリーヌの髪を乱暴に掴み、振り回し、床に叩きつけるように投げる。息を荒くし、肩を激しく上下させ、カリーヌを睨み付ける目には怒り以上に困惑が混じっていた。だがカリーヌはヨロヨロと立ち上がり、ペコリと小さく頭を下げただけ。
「なぜだ? なぜお前は、お前だけがオレの傍からいなくならない! 他の連中みたいに、逃げてしまえばいいだろうが!」
「……マルセル様は、わたしの家族を救ってくれました」
カリーヌのセリフはそれだけだ。小さな吹き出しの、作中で唯一の、ちゃんとしたセリフだった。この一言以上の詳しい描写はされなかったが、直後にマルセルはカリーヌを追い出し、最後の戦いに挑み、完膚なきまでに叩きのめされるのだ。
たった一言で多くのファンを獲得したカリーヌだったが、以降は原作に出てくることはなく、幻のヒロイン、とまで評されるようになる。原作自体も怒涛の展開を見せていくので、原作ファンたちもさして気にすることがないままであった。
俺もそうだ。アクロスたちの活躍とマルセルの末路にばかり注目していた。
カリーヌファンを喜ばせたのは、ファンブックが発売されてからだ。ファンブックには何人かのキャラにスポットを当てた四~八ページの漫画が掲載されていて、カリーヌにスポットを当てたものもあった。
ファンブックによると、貧困母子家庭生まれだったカリーヌは、給金の良い仕事を求めて公爵家に入る。身体的精神的に非常にきつい仕事ながらも、給金だけは良いのでなんとか耐えて仕事をしていたカリーヌに、家族から連絡が入る。母が倒れたというのだ。
病気で、治療には高額の金がかかるという。カリーヌは公爵家に借金を申し込み、けんもほろろに断られる。
絶望と、公爵家への怒りに涙を流しているところに、手を差し伸べたのがマルセルだった。人間として最低最悪の評判を誇るマルセルも、この日ばかりは違った。
「なるほど、家族が苦しんでいるのは辛いよな。わかった、すべてオレに任せろ。医者を用意してやる」
「……え? ど、どうして……?」
「お前はうちの使用人だ。我が家のために仕事をこなしてもらわねばならない。仕事ができなくなるような状況は困る。それだけのことだ」
泣き崩れていたカリーヌに、公爵家お抱えの医師を紹介し、当座の生活費を渡し、特別な休暇まで与えた。
誤解なきように言っておくと、マルセルは別に慈悲や慈愛の心からカリーヌを助けたのではない。誕生日を姉ティアに祝われて機嫌が良かったという奇跡的なタイミングが重なっただけだ。
だがカリーヌの中では、このことが非常に大きな比重を占めるようになり、マルセルにどれだけ酷い目に遭わされても、周囲の誰もが離れていっても、彼女だけは最後まで付き従う。食事を作り、髪を梳き、衣類の皴を伸ばし、身の回りの世話を続けたのである。
家族を助けてもらったから。その言葉はマルセルにとっても衝撃だったらしく、マルセルは苦悶に満ちた表情を浮かべ、三コマ目に大きな息を吐いて、カリーヌを正式にクビにした。
受け入れようとしなかったカリーヌに、立派な宝石のついたイヤリングを投げつけ、「出て行け!」と何度も喚く。罵りを受けたカリーヌは別れ際、マルセルに対し頭を下げたのだ。
「マルセル様、今までお世話になりました。永の暇を頂きます」
「さっさと出て行け! さっさと、……出て、行くんだ」
「マルセル様に神のご加護がありますように」
次のページで時間は大きく流れ、どこかの家の庭先で洗濯物を干しているカリーヌが描かれ、カリーヌの首元にはマルセルから貰ったイヤリングがネックレスになって輝いていた。光を反射して輝くネックレスを手に、カリーヌはぽつりと呟く。
「マルセル様、わたしは貴方を放っておけなかっただけです。例え気紛れでも人を救うだけの思いやりがあるのなら、いつだってやり直すことができる。それに気付いてほしかったのです」
マルセルはバカだな、と俺だけでなく全国のファンブック購入者が思ったことだろう。気紛れからの些細なことで、こんなにも想ってくれる人が傍にいてくれていたのに。
最後まで気付かなかった。もしかすると気付いた上で、目を背けたのだろうか。彼女の温もり、優しさに気付いていたなら、受け入れていたなら、もっと別の道があったかもしれないのに。