第八話
――――――
「……メアリ」
目が覚めた。薄暗い天井に夢の断片が舞っている。
思い出を振り払うように寝返りを打つと、隣のベッドに寝ているフーリンの寝顔があった。日の落ちかけた夕暮れ時に、色白い顔がよく映えている。
伏せった長い睫毛が、差し込む夕日に影をつくっていた。数秒前まですぐ目の前にあったメアリの顔が重なりかけ、かけ離れてはまた重なった。
あと何度、同じ夢を見れば許されるのだろう。結末の分かっている悪夢から抜け出ることは叶わないのだろうか。
決して慣れることのない鬱々しさが、フーリンの無防備な寝姿を見ていると微かに寛解されていくのが我ながら浅ましく、忌々しかった。自らに嫌悪感を抱きつつも、秋だというのに毛布もはだけ、インナーから覗くしなやかな肢体も露わにしている、しどけなさから目を離せないのも事実であった。
普段は色気の〝い〟の字もないくすんだ黒の革鎧に隠されているものが、こうも惜しげもなく晒されているのを見ると、これまで特別な意識をしてこなかったことに違和感さえ覚える。
「ダインさん……もうやめてください……」
「えっ……」
心臓が跳ね上がった。しばらく待っても聞こえるのは寝息だけだった。寝言か、と胸を撫で下ろしたとき、フーリンの目がぱちっと開いた。
「だから、やめてって言ってるんですよ。なにを見とれてるんです」
驚きでベッドから飛び起きてしまった。
「妙な誤解をするな。起き抜けに変なもん見せられて、良い気付けになっただけだ」
高密度な風の塊に頭部を打たれ、再び寝かせられた。意識が薄れていく。
青筋を浮かべたフーリンは毛布を被りなおし、蛹のように丸まった。
「同じ名前ばかり何度も何度も。眠れなくなるんですよ」
体感的には一週間ぶりか、それ以上に久しく見る夕日が眩い。
厩舎で寛ぐエイルーシャと合流し、ジュレヴィスの街を出ることにした。
オレンジに染まる大通りは、今日も通行人の動作の音ばかりがよく聞こえる。生ける屍の往来。
馬車に乗り込んだ。静まる街を意に介さず、早くもエイルーシャは怪しく息を荒げ始めた。相変わらず、二頭の尻を見比べる目は血走っている。
「スニルゥ……ヨーストォ……落ち着けよぉ。まだ街中の大通りだからな。海までの辛抱……海まで行ったら、それはもう豪快に、遠慮なく、その艶めいた塊を……縦横に蠕動させてやるからなぁ」
小さな肩を上下させ、背中を小刻みに震わせている。スニルとヨーストは互いの鼻息をぶつけ合い、殺気を交わす様は決闘直前のようだ。
ダインは痛む頭を押さえながら、
「あの変態をどうにかしろよ」
ずっとそっぽを向いているフーリンは、
「仲良くなれるんじゃないですか。変態同士で」
「お前……だから、あれはな、寝ぼけててボーっと見てただけだ」
「いいえ、しっかりと覚醒した目で、なめ回すように見ていました。あの変態御者と同類の目でした」
「勘弁しろよ」
どうも釈然としなかった。何度も共に寝起きしているが、寝姿を凝視したぐらいで怒るタイプでもない筈だ。現にいつも、さっさと服を脱いで大の字で鼾をかくような性格ではないか。第一、無理矢理に旅に引っ張り出しておいて、そんなことで嫌味を言われるようではたまらない。理不尽というものだ。
指の一本でも触れたわけでもなし。必死に釈明するのも馬鹿らしくなり、ダインも無言になった。
港の船着き場に到着すると、霧の晴れたピリミ大海が夕焼けを反射して燃えていた。未だ多く行き来する沖あいの帆船が、炎から吹かれる灰のように揺れている。
「……」
「……」
黙りながらも同じ景色に目をやる二人の、微妙な気まずさもエイルーシャには関係ない。
「さぁ行くよ、お二人さん。南大陸とは当分おさらばだね」
スニルとヨーストが跳躍し、追随して馬車も飛んだ。音もなく海面に降り立つと、エイルーシャの鞭一閃が二つの尻を叩き、かけ声と共に海の旅が始まった。
どんな理屈か分からないが、地を蹴りつけるのと変わらぬ蹄の音がリズミカルだ。
自分の世界に夢中のエイルーシャと、最後部の隅から動かず目も合わせてくれないフーリン。話し相手がいない暇な道程になりそうだと嘆息する。
吹き込む海風が、ぐっと冷たくなったように思う。御者席側に移動し、エイルーシャの頭越しに馬か海でも見るほかない。八本の健脚が青い荒野を行くがごとく、ゆるい波を踏み越えていく。時折顔に跳ねる水しぶきは、夕日を含んでいて火の粉のようだ。
なんだか静かだと思ったら、騒がしい筈のエイルーシャが首をこちらに向けて黙然と凝視してきている。
「どうかしたか」
今日は寝癖がなく、櫛の通った黒髪が艶めいていた。海の背景が褐色の肌によく似合う。
「やっぱり、ここは退屈で心が震わないや。海面の起伏だけじゃ、相対的な速度感がいまいち楽しめないし、やっぱり、こう、地上での疾走感の中にあってこそ、尻の躍動ってものは映える気がしてね」
「あぁそうだな。よく分かるよ」
「それとさ、今更だけど、そういえばこの人がアルスを倒した英雄と呼ばれてるんだなぁと思って」
その話が飛び出すとは思っていなかった。顔をしかめてしまう。
「世間の噂だと俺が一人でアルスを仕留めたような話になってるが、実態はまるで違う」
物憂げなダインと対称的に、エイルーシャにとっては気楽な世間話に過ぎないようだ。
「当時のことは噂程度に知ってるよ。判定神をはじめ、複数の神が交錯する戦いなんて珍しいから」
「ノルンがどう関わっていたんだ」
「いや、違う判定神だよ。運命を操ることで賞罰を与えるから、別称は『東方・定事の天秤』」
確かにフーリンが言っていた気がする。ノルンは判定神の一角であると。
「そんなものが、あの地獄を見ていたのか……?」
「あの神は当時からとても弱ってたから、裏で少し動いただけかも知れない。天界随一の、未来を予見する力も鈍っていたらしいし」
アルス戦の前後が、生々しく思い出される。一人では決して生き残れなかった。
「自覚している以上に、色んなものに助けられてたんだろうな。無敵の英雄のように言われるのが、ますます笑えてくる」
つい自嘲すると、エイルーシャは首を振った。
「見てたわけじゃないけど、人間の身でありながら破壊神なんかに立ち向かったんでしょ。そんなの君にしかできない。誇りに思わないと」
この口ぶりだと決着後の惨事も知っていそうだが。落ち込んでばかりでなく、戦った勇気だけでも自らを認めてやれと言いたいのだろう。ただの馬尻好きだとばかり思っていたが、
「意外と良い奴なんだな」
「『落ち込んでる奴には無理にでも優しくしてやれ』。うちの主神の教えだよ」
「……ありがとよ」
「私の方こそありがとう。この海や空も、君がいたからこんなに綺麗なんだ」
あっけらかんとした物言いだが、ダインはどうにも照れ臭くなった。上手い返事が分からずにいると「だからさ」と切り出される。
「いつまでも暗い顔してるとフーリンに怒られるよ」
「今も怒ってるぞ」後ろを振り向いてみると、フーリンは幌にもたれて目を閉じていた。風音で話し声が届くこともないだろう。「よく分からない女だ。間抜けな寝相を見られただけであの様じゃ、一緒に旅なんかできないだろうが」
エイルーシャが小さく嘆息した。
「君も分かってるでしょ。そんな下らないことじゃ怒らないって」
「だったら、どうしてなんだ」
異性との密接な繋がりをメアリ以外にもったことがなく、上手い対話の仕方が分からない。相談するべきだろうか。
「そこまで面倒見きれないよ」ダインが言いたいことを察し、エイルーシャは苦笑いした。「大丈夫。あの娘も馬鹿じゃないんだから」
「そうかぁ? なかなかのもんだぞ、アイツは」
「やめなって。月まで飛ばされるよ」
二頭の馬が、ぶるると鼻を鳴らす。
目を瞑っていても、フーリンには見える。
天一杯に広がり、夕焼けと混じり合う金色の光。煙るような光芒は徐々に収束し、たゆたいながらも指向性を保ち、絶えず降りてきては身体に溶け込んでいく。強くなれと背中を押される感触がある。
指を回して風渦を生じさせてみると、光芒もまた戯れのようにくるくると舞った。微細な輝きの一つ一つが、ノルンから贈られ続けている力の結晶である。
えも言われぬ温もりと裏腹に心臓がヒリつきもする。血液が血管を叩き、臓腑が不全に陥ったような苦しさだ。身に余る力を注がれることによる拒絶反応。
今はものに出来ていないが、これに耐えきったとき、真に神殺しの力を得るという。事前に聞かされていたものの、これもまた想像以上の試練になりそうだった。
御者席の方でなにやら話し合っているようだ。風向きを調整すれば声を拾うのも訳ないが、そんな真似をせずとも会話の内容など想像がつく。薄目を開けてダインの表情を見れば尚更だ。
強引に連れ出しておいて、愚にもつかぬことで困らせてしまっていることに理性が痛む。しかしダインが自分を見るときの目が、時折苛ついて仕方がないのだ。別の人間と面影を重ねられているのを肌で感じる。不快感の正体は少女じみた感傷では断じてないが、それにしても醜い態度だと悲観した。
――ノルン様。こんなにもお力を賜っておきながら、私は未熟です
御者席での会話がひとまず終わったようだ。今日はエイルーシャも落ち着いている。車輪が海面から浮いているので振動もない。陸地を走っているときもそれが可能であるにも関わらず『臨場感が損なわれる』という阿呆そのものな理由を押し通してくるのには呆れてしまった。
頭に青筋が浮かびかけるのを抑え、今は休もうとシートに横たわった。
これからも何が待ち受けているか分からない。束の間の休息を物思いなどに費やさず、急速に削られ続ける体力を少しでも回復させなければ。
脱力して間もなく、深い眠りに入ろうとした時だった。ダインと出会ってから幾度も感じてきた殺気に刺され、弾かれたように飛び起きてしまう。悪寒に総身があわ立っている。この感覚の訪れはフーリンにとって、敵の襲来を知らせる警報とも言えるものだ。
つんのめりながら二人の元へ駆け、全方位を確認する。現状では敵影が認められない。
「どこかに敵がいます。何か感じませんか」
ダインの顔色が変わる。
「気配がないが……。根拠はなんだ」
「分かるんですよ。あなたのお陰でね」
「なんだそりゃ」
嫌なものに気付いたように顔色を悪くしていたエイルーシャが、しきりに馬車の周りを確認してから遠くへ目を転じた。
「何キロ先だろう。変なものが見えるよ」
言うより早く進路をずらし、速度を上げた。〝変なもの〟はすぐにフーリンの肉眼でも輪郭を捉えられるまでになった。
海上にそびえる長大な塔が、夕焼け空に逆光となり黒く浮かび上がっている。それは接近するにつれて人型であることが判ってきた。まだ指先ほどの大きさで遠近感が掴めないが、どうやら鳩尾らしき部位からが海面にでている。ピリミ大海の平均水深は二千メートルと意外に浅いが、それを考えても人智を超えたような全長だ。
その体躯にしては短い――と言っても百メートルはありそうな――両腕を前に伸ばし、まるで何かを捕まえようとしているように見える。このままでは衝突だろう。
ダインが呆気にとられている。
「まさか、あれは……島種か?」
地域によっては島創り、島種人、島運びなどとも呼ばれている。数年単位で頻繁に現れるかと思えば、数百年と出ないこともある存在。海中に没した生命の魂と残骸が永く堆積し、集合体としての肉体を持った姿と言われている。海洋を彷徨ったあとは崩壊し、新たな島の礎になることが名前の由縁だ。
数多の魂が混在しているので明確な意志や行動目標はなく、わざわざ近寄らなければ無害だ。
「うわぁ、とんでもないね。バケモンだわ」
エイルーシャが再び進路を修正し、大きく迂回しようとした。
「待ってください」空から呼びよせた望遠鏡を引っつかむ。
覗き込んだレンズの先。島種の巨体にばかり目を奪われていたが、その手前では一隻の帆船がこちらへ船首を向けていた。
目算だが双方の距離は島種の腕十本分、九本分と縮んでいき、すぐに追いつかれそうだ。
「ダインさん、あれは人を襲わない筈ですよね」
「間違いない。獰猛な異族が大量に死んだ海でも、島種は穏やかだった」
ならば偶然に進路が重複しているだけか。望遠鏡を空に戻しながら考える。
「解せませんが、このままではあの船がやられます」
「……そうらしいな」
既に一同の考えは合致していた。馬車が速度を上げ、帆船の方へ向かう。
急激に波が荒れてきた。大質量体の移動するエネルギーが伝わってくる。エイルーシャが鞭を振るうと、スニルとヨーストは波の上端を蹴って跳躍。数メートルの高度にて再び馬蹄を高鳴らせた。
帆船との距離は二キロもない。ほとんど詳らかになった島種の姿は、思いのほか太々しい。丸みを帯びた灰色の輪郭が、ざらざらとした化石の感触を想像させる。肥満気味な石像と形容しても良い。目鼻口などの部位がなく顔面は滑らかである。
帆船から手を振る人々が見えてきた。全長五十メートル程度の大型貿易船だ。〝手〟を持つ護衛達が甲板から攻撃を加えても怯む様子はない。島種の進路から外れようとしても、明らかに敵意を持って追従してくるので打つ手なしのようだ。
「お邪魔するよっ!」正面から肉薄し、船首を飛びこえて甲板に降り立った。
馬車から出ると、怯えきった商人や水夫達を石ころのように蹴散らしながら、精気に溢れた老人が手を振っていた。頭には黒の三角帽子。一目で船長と分かる雰囲気がある。
「この船を任されてるジェラールだ。あんたらは頼りになりそうだな」
背が低く痩せているが、真っ黒く焼けた全身が靱やかな筋肉に包まれていることが服の上からでも窺えた。「助けてくれるんだろ」と笑うと、大量の口ひげの間から白い歯がのぞく。
「えぇ、目の前で沈まれても寝覚めが悪いですからねぇ」
魚は喜ぶでしょうけど、と要らぬことを言う。
「そうかい!」ジェラールは呑気に大笑いだ。
こうしている暇はない。激しい波浪で前後左右に揺れうごく甲板を走り、急いで船尾へ向かった。
「これは……凄いですね」
船尾からの光景を見て、あまりに馬鹿げた迫力に一同絶句だ。見えている部分だけで優に千メートルは超えているだろう人型の山が、村を一払いに消し去りそうな両掌を向けて駆けてくるのである。こんな帆船などは指一本で弾かれて海の藻屑だろう。
指先からの距離は二百メートルといったところか。一歩ごとに海底が踏みしだかれる破砕音が、大気を伝って骨身に響いてくる。波は高さを増し続け、甲板に海水が侵入してきた。
「お嬢ちゃん」よほど豪胆なのか、ジェラールはどこか楽しげだ。「何か考えがあるのかい?」
「考えってほどじゃありませんがね」
〝手〟を出したフーリンの背後に、翠に輝く判定神の紋が浮かび上がる。ダインの村でも見せた、大出力時の構えだ。
「どこかに掴まってください」
言い終わらぬうちに鉄砲水のような突風が船体に常識はずれな加速をあたえ、フーリン以外が吹き飛んで全身をしたたかに打ち付けた。
突風は帆がはちきれんばかりに吹き、船尾を直に後押しし、島種との距離をいくらか稼いだ。
「これでよし。逃げ切っちゃいましょう」
ダインがよろめきながら立ち上がる。
「お前なぁ……海に落ちたらどうすんだよ」
「反応が鈍すぎるんですよ。そんなことでは――」
全ての音が聞こえなくなった。内耳深くに異物が詰まったような感覚。気が混乱する。狂いそうな耳鳴り。遠のく意識をどうにか持ち直させ、白く霞んだ視界から情報を読みとり、整理しようと歯を食いしばった。
立っているのはダインとエイルーシャだけだ。床に伏せっている他の乗組員と同様に、状況が分かっていない顔で耳を塞いでいる。
ふと、不自然に薄暗くなった。いきなり日が落ちたような陰り。
雲まで攫いそうな青い壁が、すぐ目前まで迫って視界を阻んでいた。横幅は果てしなく、内に反りかえり、庇となって日光を遮っている――高速の津波。
無音の世界にて、圧倒的な死の予感。それを拭うように、背後の判定神紋が輝きを激しくする。フーリンが左手を振ると、一塊の風が刃となって津波を割り裂いた。
二つとなった津波は割れ目を広げていき、帆船を避けて左右に叩きつけられた。船体が信じられぬほど跳ね上がり、数秒後に着水する。乗組員も宙に放り出されてしまい、ある者は甲板に打ちつけられ、またある者は海に落下した。小柄なエイルーシャなどは一際ひどく飛ばされて帆柱に激突してしまう。
二股の激流が濃霧じみた水飛沫を残して流れ去っていく。依然として耳鳴りが酷い。一難を逃れたが犠牲者を出してしまった。甲板から身を乗り出すジェラールの叫びを、僅かに回復した聴力が拾う。
仲間の心配をする暇もない状況の変化だ。部位を持たず滑面だった島種の顔に、いつの間にか三日月状の赤い切れ目が表れていた。それは口にあたる部分に開いており、おどろおどろしく笑っているように見える。
あまりの禍々しさに酷い戦慄を覚え、その口が空気をため込むような動きをしたことへの認識が鈍った。咆哮の予備動作か。恐らくは二度目。聴力を奪ったのは一度目の咆哮だったようだ。
思考が巡るも、対応は遅れてしまう。島種の口が顔の半分ほどにも開き、真っ赤な口腔をむき出しにして規格外の音声が放射された。
耳に手をやるのが間に合わない。更なる鼓膜へのダメージを覚悟したとき、硬い皮膚をした手に後ろから側頭部を包まれた。それは生物ならざる咆哮を遮断してくれ、力尽きたように離れていく。
振り返るとダインが倒れていた。苦悶の表情で右耳ばかりを押さえている。左は肩でも使って塞いだのだろうか。
「ダインさん! ごめんなさい、私が油断を……」
自分の声ですら、くぐもっていて水中の如しだ。半ばパニックになりかけたフーリンを宥めるためか、ダインは温和な笑みを浮かべて立ち上がりながら、大袈裟に口だけを動かす。
何を伝えようとしているのか、唇が読めなくても分かった。
『反応が鈍すぎるんだよ』
「ぐっ……この男は」
頬が熱を帯びるのを感じた。ぷいと顔を背け、怒りの矛先を島種に向けた。
島種は緩慢な動きで右手を振り上げている。また津波を起こすつもりだろう。
「あなたはもう、いい加減にしなさい!」
さっさと行けとばかりに前方を指さすと一陣の風が島種を殴りつけ、よろめかせた。それでもなお海面を叩こうとするので、気流の縄で全身を拘束。深く深くめりこませてブツ切りにしようと渾身の力を注ぎこむ。しかし、
――こんなに頑強だなんて
見えない縄は大蛇が這ったような痕跡を刻みつけるが、浅すぎる。せいぜいが上体の動きを阻害するぐらいで、突進してくる足を止めるには至らない。
全力をもってして倒しきれない相手は久しい。より大きな、より堅固な敵ならいくらでも屠ってきた。今回など、たかだか堆積物の塊ではないのか。
この島種の身体強度には、ある種の違和感を覚える。風を通して熱いものさえ伝わってくるのだ。親しみや懐かしさを感じるような、まるで誰かを危険から護ろうとするような思念だ。
島種の誕生過程を考えると、否応なしに嫌な予感がする。この胸騒ぎを沈めるためにも、とにかく倒さねばと気が逸った。
彼我の距離、百五十メートルを切る。音は聞こえずとも足音の震動が物すごい。気流の束縛が徐々に押し返されてきた。
フーリンの焦りを察しているのか、いないのか、ダインがどこからか木の板を担いできた。一人がやっと立てる程度の幅だ。そして敵を指さし、波乗りのジェスチャーをする。どうやら、上手いこと風で運んでくれれば斬ってくるとでも言いたいらしい。
共に行こうと思ったが、フーリンは船を守らなければならない。
船尾で板に乗り、親指で自分を指して『俺に任せろ』と得意げな顔をしているので、フーリンが虚空を抱いて『板にしがみつけ』と指示した。
首を傾げるダインだが、すぐに顔を青くする羽目になった。板に掴まるや否や数十メートル上空まで浮き上がったのだから。
必死な形相でなにか身振り手振りしているが、遠くてよく見えない。フーリンが投擲の動作をすると、ダインは矢のように飛んでいった。
迎え討とうとする島種の両腕を封じ、胸の前で交差させるように固定する。ほとんど同時にダインが胸部に到達。斬りつけたのか、巨体が派手に爆ぜ散った。しかし、体表が薄く削がれただけで決着には程遠い。
――ダインさんの一撃でも足りない。やはり私も出なくては……
そう思っても、二度目の津波を危惧してしまう。フーリンが逡巡していると、背後の甲板から物が落下する気配がした。全身ずぶ濡れの水夫が六人、ぐったりと横たわっている。
さきほど海に投げ出された者達だろう。あの激流の中で複数の命を救い上げたとすれば、何ヶ月でも馬車を浮かせていられる浮遊の〝手〟の持ち主、エイルーシャしかいない。自分も額や口から血を流しているが、気にする素振りは見せなかった。
そして甲板を指さし、拳で胸を叩いてみせる。この船は任せろと言いたいのだろう。
――小憎いですね、昔から
極短く笑顔を交わし、フーリンが船尾から跳ぶ。上昇気流に乗り舞いあがってから、真っ直ぐ鋭角にダインの元へ向かった。空中での姿勢制御等に気をやっていると、島種の右腕が爆ぜ、肩が爆ぜた。灰色の欠片が海面に落ち、無数の水柱を立てている。
巨体を縦横無人に駆け回り、あらゆる部位を斬りまくっているダインの影を捉えた。今は肩付近で暴れている。一太刀あびせるごとに、苦悶に満ちたうなり声が腹に響く。次々に敵の肉体を崩壊させる姿に、初めて本来の荒々しさを見たような気がした。
フーリンはでっぷりと突出した腹部に着地。思った以上にざらついた粉っぽい感触だった。対象に肉薄するほど風の束縛も強力にかけることが出来るので、島種は全く身動きがとれていない。あとは一方的に屠るだけだ。
時折、島種の一部だったものが岩雪崩のように降ってくる。今や肩から頭頂部に乗り移ったダインを見上げながら、フーリンは戦況とは裏腹な冷や汗をかいていた。
戦っているダインの頭上で広大に広がり、長剣と同期するように暴れ狂う力。風が形づくる朧気な輪郭しか分からないにしても十分におぞましく、手に負えず、果てしない伸びしろを感じさせる暴力の形。
自分は、自分たちは、あれを利用して目的を達成しようとしている。世界のため、個の心を顧みずに。罪悪感に首を裂かれる思いだ。
今は目の前のことに集中するべきだと、無理に心を切り替えた。懸命に戦うダインに風力による筋力補助をかけるべく、巻き込まれない範囲まで近づこうとした、その時である。無機質だった島種の体表が生物的なうねりを生じた。
岩じみた皮層を突きやぶり、大木のような腕が所狭しと生えてきたのだ。肉々しく赤黒い。透明な浸出液でぬらぬらと光っていて、巨細の血管が透けて見える。人間と同じ肘関節や掌、五指をくねらせ、動きに見境がなく、互いを傷つけてさえいる。
――これでは、まるで話が違うじゃないですか
咆哮時に見せた口腔もそうだが、明らかに海底の古い堆積物以外の構成要素が多分に含まれている。この生々しさはどういう理屈だ。
数十本の腕がフーリンを襲う。拳や平手の乱打を避けながらダインの元へ急ごうと、再び飛行の構えをとった。足先から頭頂までに、部位によって定められた割合・方向の風力を発生させ、姿勢制御の準備を終える。
飛翔しかけたとき、足下から新たな腕が生えてきた。フーリンを囲い、行き先を遮る配置には逃げ場がなく、鷲掴みに捕らえられてしまった。
押し返そうとしたが、握力に負けて胴体を締め上げられる。呼吸ができない。骨という骨が悲鳴をあげた。これでは、ものの数秒で死んでしまう。
吐血し、助けを求めるように見上げた空を、小さな影が横切った。放物線を描いて海に落ちたのが何であるかは、すぐに確信した。
――ダインさん……!
装備が軽いので溺れることはない、否、気を失っていれば危険だ。
フーリンの目つきが変わり、声のトーンが一つ落ちた。
「離しなさい」
枝が踏み折られるような、小気味よい音がした。上空から隕石の如く降ってきた望遠鏡が、フーリンを握る手の甲を破壊したのだ。
緩んだ拘束から逃れ、飛燕も真っ青な最大速度でダインを助けに向かう。途中で襲いくる手はもはや避けようともせず、望遠鏡の一振りで弾きかえす。筋力補助も最大だ。
落下場所に着いたが姿が見えない。躊躇いなく海中に突入し、透明度の低い水中で人影を捜索した。太陽の届かない深さに達し、呼吸も限界に近づいたところで真っ逆さまに沈みゆくダインを発見。この状態でも長剣を手放していない。必死に追いついて足首を掴み、自らがたてた気泡のなか、海面を目指した。
潜水時は突入の勢いを借りられたが、浮上に使えるのはフーリン本来の泳力のみだ。流石に水中に溶け込んだ気体にまでは干渉できないので、風の届かない場所では無力なのである。
――私としたことが、すっかり忘れていました
海面が遠い。まだ太陽光も見えない。冷たい海水に手足が痺れてきた。呼吸も限界だ。上下左右の感覚が曖昧になりつつある。本当に上に向かっているのか。
血が冷え切った。いつしか動きは完全にとまり、ダインと共に沈んでいた。こんなところで終わりか、と残った力で歯噛みした。世界を救う、神を殺す。そんな大言壮語の結末が海の藻屑とは。魚に食わせるためにダインを連れ出したのか。ノルンから授かった使命、必ず遂げなくてはならない目的は未だ彼方だ。
無駄になってしまう。閉ざされてしまう。希望が潰えたとき、二人は黒いものに包み込まれた。暗闇においてさえ際立つ、地獄を想起させる漆黒。どこからともなく聞こえる獣の呻り声は、さながら地獄の遣いだろうか。
突如、不自然な海流の上昇。計り知れない、超常の作用力によって突き上げられた。はっとするよりも早く光が見え、海面を超えて高きに出ていた。すぐ目前、水平方向の数十メートルに島種の後頭部が出迎えてくれた。まだこちらに気付いていない。依然として無数の手がくねっているのが、生きた体毛のようで気味が悪い。
胸いっぱいに空気を貪る。秋風がとても暖かい。どういう訳か助かったらしい。
気流の床上で姿勢を整え、落下速度を至極緩慢にする。ぐったりと真っ青になっているダインは四肢を投げだし、大の字で夕空を仰いでいた。
このままでは命が危ない。蘇生処置を施すべく手元に引き寄せた。部分鎧を剥いで心臓に手を当て、圧迫を加えようとすると、ダインが海水を吐き出して咳き込みだした。
「くそっ……げほっ……まだ……生きてるらしいな」
安堵と驚愕がせめぎ合う。確実に危険な状態だった筈だが。いくら生命力が強いと言っても、こんな短時間で自力での復活を果たすとは人間業なのかが疑わしい。しかし、
「本当に良かった……。もう、ここで終わってしまうのかと……!」
存外平気そうに立ち上がったダインの胸に額を置いて嘆息すると、がさついた手で頭を撫でられた。
「助けてくれたのか」
「いいえ、助けようとしただけです」
「そうか……良い相棒をもった」
岩の軋る音がする。島種がゆっくりと首を回し、口のような切れ目をこちらに向けた。見つけたぞ、と加虐的に笑っているように見える。ダインの斬撃で至るところが剥落しており、不気味さに拍車が掛かっていた。
「フーリン」長剣を構え直し、姿勢を保つ。「斬るぞ、いいな」
「いつでも」力強く首肯してみせた。
島種が右拳を握りこみ、緩やかだが明確な殺意をもって振りかぶった。小細工なし、全力の突きを放つつもりだろう。
フーリンは逃げようとしなかった。次の交錯で勝負が決し、今からでは両者の威力衝突から脱し得ないという判断があったからだ。
島種の拳が遙か後方で止まり、そこからは刹那である。引き動作とはまるで別物な、巨体に見合わぬ峻烈な一突き。山をも抉り抜こうかという莫大なエネルギー、登るのも苦労するだろう岩山の拳骨。
静かに構えていたダインが真っ正面から剣を振り抜いた。金属質の衝突音、火花。粉混じりの暴風。フーリンにしか見えない何者かの輪郭が、島種を包み込んだ。
質量では適うべくもない。だが、千々に砕け散ったのは敵の拳である。畳まれた五指が細切れになり、手の甲が輪切りになり、手首から肩までが砂塵の単位にまで分解。自由奔放な破壊は胸部、腹部、下半身まで満遍なく及び、ぶつ切りや千切りになって瓦解。要した時間は二秒にも満たず、最後には空中に取り残された頭部のみが不可解そうに落ちていったのだった。
面食らったのはフーリンだ。これまで避けてきたものとは範囲も密度も速度も異なる、別次元の斬撃。島種に向かった以上の物量が、情け容赦なく飛んできたのだから。
風を張って攻撃の輪郭を把握し、反射神経と敏捷さで避けるといっても限度がある。
――これは……捌ききれない……!
両足からの風力射出による空中機動を一瞬も休まず、寸分の狂いなく繰りかえす。重力の奔流が内臓を押しつぶし、脳を揺さぶる。全身を掠めつづける不可視の刃は、魚群を連想させる無数のナイフであったり、回転する鎌であったり、巨人が扱うような大刀であったりと定まりがない。とにかく連続的で、多種の刃物が鈴なりに実った大木が、枝を広げて暴れ狂っているとでも言えようか。
乱打ではない。的確にフーリンの命をとりにきている。集中力に隙が生じた直後、ふくらはぎから鮮血が噴いた。動きが鈍ったところに肩を斬られ、背中を刺され、悲鳴をあげることも許されない。獣の唸りが聞こえる。
涙が溢れてきた。絶え間ない命の危機。
長すぎる二秒が終わり、半ば放心状態で息を切らす。一生分の恐怖を味わった思いだ。皮鎧の中が血液でぬめっており不快だった。運に助けられ、さほどの重傷はない。
楽観とは裏腹に、身体から力が抜けていく。度重なる無理に加えて、もう三日以上寝ていないような体感がある。戦いの緊張感で忘れていた〝本来の一日〟の終わりを知らせる眠気を一息に思い出し、ついにフーリンは膝が崩れた。
後ろ向きに倒れる最中、このままダインと共に戦っていけるのかと自信を失いかける。 〝これ以上に心を通わせれば危険だが、避けては通れない道だ。その瞬間までに、ノルンの力への適合が間に合うかに掛かっている〟。
などと考えながら、過度の疲労によってほとんど夢現だ。
風壁に、後頭部が柔らかく受け止められる筈であった。しかし、予想外なごつごつした物に抱えられてしまった。
「フーリン、俺のせいですまない。やっぱり、俺は……」
沈まぬ夕日に、ダインの茶髪が燃え盛っている。どこまでも真っ直ぐに、ただ心配そうに顔を覗き込んでいた。フーリンは、自分が苦笑しているのか安堵しているのか、他人事のように測りあぐねる動揺を自覚した。
「……あなたは悪くない」いけないと思いながら、ダインの髪に手を伸ばしてしまった。随分とごわついている。「ダインさんは、何一つ悪くなんかありません」
島種の残骸の上に馬車を停め、エイルーシャはようやく一息ついた。
空中でなにやら隠微な雰囲気を醸しながら降下してきた二人を法力で引き寄せ、乗組員の医者による治療を施して寝かしつけたばかりだ。
船長のジェラールが『どうしても礼がしたい』と強引に迫るので、やんわりと辞退するのに手間取った。折角だが、早急に進むべき旅なのだ。
客席で眠る二人を振りかえる。互いにもたれ合い、穏やかな顔で熟睡していた。若干の妬心さえ湧きかねない仲睦まじさではないか。
ダインに纏わりつく影の存在。フーリンは自分以上に把握している筈だが。
全貌が掴めないにしろ、あんなものと共に戦っていけるのか、甚だ憂慮される。憂慮といえば、フーリンの傷もだ。今は補修した皮鎧の下に隠されているが、背中の刺傷以外は浅いにも関わらず、外科的処置ではどうしても塞ぎきることができなかった。得体の知れぬ悪意の反発を感じる。
「フーリン、あれは思ってるよりヤバいかもだよ」
溜息が漏れた。休んでいきたいところだが、先を急ぐことにした。微動だにせぬ夕日が焦燥を誘う。少しでも早くラルタルへ。後ろのご両人を起こさないよう。
「スニル、ヨースト……」
行くぞと言いかけて出鼻をくじかれた。四囲の海面に漂う島種の肉片が、ゆったりと溶け出して新たな島の土壌となっていく。僅かずつ広がる白い土砂に混じって、妙なものが波間に散見されるのが気になったのだ。
一つや二つではない。見回してみれば実に大量だ。どこかで見覚えがある。
引き裂かれたような布きれだった。無残な姿になっても未だ強い思念を発する、薄紅色の衣服。
思わず土壌に飛び降りた。息を呑み、震える手で一枚を拾い上げる。恐ろしいほどに色濃い、武力の名残。ノルンの神官のものに相違ない。
彼女たちには、判定神院の〝庭〟で何度か胸を借りたことがある。こちらとて鍛錬を欠かしたことはない。それでもシンプルかつ圧倒的な実力差の前に蹴散らされてしまった。
あんな猛者集団を紙切れ同然に討ちやぶった勢力があるとは、俄に信じがたい。
戦況は一方的だったようだ。エイリーの配下だとしてもこうはいかない。第三勢力ともいうべき悪神が直に手を下したと推察すべきだろう。狙いは明らかにノルンである。
あらゆる逡巡をし、とりあえず布きれを懐に入れた。このことをフーリンに言えば、平静さを欠いて旅どころではなくなるのは明らか。今はノルンを信じて先に進むのが先決だろう。
「しっかし、何かと合点がいったよ」
島種との遭遇時、帆船を追いかけているとばかり決めつけていた。目的は最初からフーリン、主にはダインだったのだろう。
最初はただ走っているだけだったものが、自分たちと相対した途端に猛攻を繰り出してきた理由。自分達が降りた帆船には見向きもしなくなった理由。残留した神官達の意志や力が、他の諸々と共に取り込まれて暴走したとすれば、島種の攻撃性や奇矯な様相にも説明がつく。
危険極まりないものから、フーリンを遠ざけようとしたのだろうか。推測を裏づける激情の残滓が、懐でしきりに脈打っている。