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動力神と斬りすぎる者  作者: 白石 流
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第六話

 西大陸中部。


 アスティリア大公国、公都デルバンを最寄りとし、大小の村々がひしめく森の中。不思議なことに、はぐれ異族や獰猛な獣が現れないので村落間の交流も盛んであった。


 数多くの小教区の狭間に、それは大昔から佇んでいたらしい。


 庭の広いレンガ造りの豪邸を見て、周辺の村民が思い思いに噂をする時期があった。


 高々と十字架を掲げているのを差し、教会だ修道院だと言う者があれば、


「よく見ろ、十字架じゃないぞ」


 と正す者がある。


「なんでも、あれは家主の紋章だって話だ。だから、ただの個人宅ってことだと思うんだが」


「本当か? なんと紛らわしい……」


 またある者はわざわざ覗きにいって、


「とにかく妙な連中だ。丈が短い変なローブを着て、ベールも被らない女ばかりが沢山いるんだぜ」


 さては邪教の集団か、と皆が眉をひそめると、


「でも、俺の村の代理司祭様が、下男を連れて中に入ってくのを見たこともあるんだ」


 などと言い始める者も。その後はしばらく笑い声が絶えず、出てきた代理司祭はとても楽しそうに酔っ払って帰ったという。


 その後も、任地に赴いたことのなかった司祭や、騎士団を引き連れた司教が公都からやってきたこともあるが、結果は変わらなかったらしい。


 にわかに信じがたくも、その手の話が当たり前に囁かれるようになれば認識が変わってくる。決定打になったのは、デルバンを襲った世にも恐ろしい『毒の津波』の前に立ちはだかり、これを見事に打ち倒した女傑が噂に聞く服装だったことである。


 同時期に、「ノルン邸から参りまして」と馬鹿丁寧な修道女もどきが村々を回るようになり、貧困層へ食料を施し、労働を手助けし、乞われれば青空教室など開き、孤児を引き取り、言い寄る男あらば身持ちは極めて堅い。


 貧民、病人、寡婦、老人の受け入れも行い、財産贈与等の見返りは必要としない。厳しい規則もほとんどなく、積極的な治療と暖かい食事、清潔なベッドを与えてくれる。彼女たちの正体を知らずとも、人々がここを「神の家」と呼んで親しみ、大いに馴染んでいったのは当然だろう。


 流れ者でも何でも、悪と見なされなければ細かな事情は誰も聞かない。来たいときに来て帰れば良い。ノルン邸は生活に困窮する人々以外にとっても憩いの場になり、恩返しと称して仕事を手伝う者が多く出るようになった。


 今日も穏やかだ。門扉を抜けた芝生で、幼い子供達が走り回っている。村落から遊びに来た子も、ここに暮らす孤児も、分け隔てのない笑顔で時を共有している。


 門扉の内外を始めとし、手入れの行き届いた秋花があちらこちらで多様な表情を並べていた。


 裏手の果樹園ではリンゴの収穫が行われ、かごを抱えた神官の少女らが何やら話し込んでは、下らないことで騒ぐ。傍にある小屋では、そんな光景を微笑ましく眺める老人達が大鍋に入った精麻を火にかけながら、冬に行う家畜の選別について話し合う。


 十五時になった。畑で種を蒔いていた神官も、壊れた鋤を修理していた青年も、もうじき来るかと思った頃合いである。


 時刻を告げる鐘の代わり。厨房から漂う香りに乗って、誰よりも元気な呼び声が弾けるのだった。


「みんなぁ! ご飯にしよう! 今日はシチューに鹿肉が入ってるんだ! こら、危ないな、元気が良すぎるぞ」


 前に後ろにと子供達に取りつかれ、ふざけ合いながら皆に手をふる妙齢らしき女性。


 人々が思わず目を細める眩しい顔貌で、背中いっぱいに溢れる豊富な金髪を自ら照らしているかのような様に、誰しもが晴天の麦畑を連想してしまう。赤土色の瞳は、さながら肥沃な大地であろうか。地平線をなして広がる朗らかさを前にすれば、大抵のことはどうにかなってしまいそうな楽観があった。


 男児の頭を撫でる手にも、女児を負う背にも、強大な力など感じられない。線の細い身体は薄紅のローブと相まって、麦穂の間に咲く一輪の花そのものだ。


『西方・力の天秤』。判定神ノルン。


 神だとは夢にも思えない。ただ美しく、底抜けに明るいだけの女性だった。


 歩くたびに人や神官が寄ってくるので、気がつけば密度の高い塊で移動するのが常である。


「ノルンさん」と駆け寄けてきたのは、訳あって都市から逃れてきたという女達。口々にかしましく、


「もう、聞いてくださいよ、二階のクレシスさんが私のお尻を触ったんです。もうシーツを換えてあげないんだから」


「私だってそうです! 凄い力で叩いてくるからびっくりしちゃって」


「あの人、病気だって嘘です。ぜったい元気ですよ」


 子供に髪や頬を引っ張られたノルンは、「そーなのか? ははは」と笑い飛ばす。

 

 かと思えば神官の少女、そそっかしい小柄なエレーナが息を切らし、うなじまでの赤髪を乱して涙声だ。


「ノルン様! ジャンとリシャールがまた決闘を始めました!」


「大丈夫。二人とも加減は分かってる。応援してやりなさい」


「わ、わかりました!」


「……おや、本当に行ってくれたか。あの子がいれば血は見ないだろう」


 なんにせよ昼飯だから戻ってくるか、と快活に笑うのだった。

 

 ほどなくして皆が大食堂に集まった。煉瓦造りに木梁が走るアーチ状の空間に、三十メートルにせまる木の長机が三列。それぞれの両側に長椅子。


 住人は勿論、そうでない者も労働の対価として遠慮なく座り、弱った者達も手を引かれて席につき、ずらりと並ぶ光景はなかなかに壮観である。


 シチューの中には沢山のヒヨコ豆や野菜と、一人に二欠片ずつ浮かぶ親指ぐらいの鹿肉。黒くて大きなオート麦パンの横では、キャベツの酢漬けが小皿に盛られていた。


 木製のマグで泡を立てる麦酒を見て、誰よりもそわそわしているのがノルンだった。人間達にはただの「酒好きな人」ぐらいに思われているが、まさか天界屈指の酒豪だとは神官以外に知るよしもない。


 席は自由なのでノルンも適当な場所に座ると、必ず隣には目つきの悪い神官、ネメロスが着く。黒髪を低い位置に束ね、子を守る母狼のように眼光けわしい彼女は古来の側近で、大雑把に過ぎるノルンの代わりに煩雑な業務を担う役どころだ。


「ノルン様、今日も一杯だけですからね」


 女性にしては低い声で、有無を言わせぬ語調だ。ノルンは動揺を隠せない。


「いや、今週からはまた三杯まで飲めるって話だった筈だ」


「言ってませんよ。しかも酔うと質が悪いし、誰にも止められないんですから」


「そんなに質悪いかなぁ」


「自覚がないんですよね。記憶がないから」


 参ったなぁと頭を掻きつつも、ネメロスの言いたいことは分かっている。この場なので明言しないが、要は金が無いのだ。


 通常の施療院と違って農作物や酒、織物を売った収入のみで生計を立てているが、来る者を拒まないせいで財政は火の車である。


「あ、眉間にシワが寄っているな。ご飯の時くらい笑顔でいよう。ほら、こうやって口角を上げて……」


「全員が揃いました。食事の合図をお願いします」


 苦笑い混じりの「では食事にしよう」の一言で、賑やかな軽食が始まった。


 向かいの席では、顔を傷だらけにした二人の青年が黙々とシチューを口に運んでいる。日に二回は決闘と称して喧嘩をするジャンとリシャールの赤毛コンビだ。どちらも背は高いが痩せていて、どういうわけか仲が悪い。パンを千切る手つき、スプーンを置く動作ひとつをとっても互いを横目にとらえ、牽制するような刺々しい雰囲気を醸していた。


「やぁ二人とも、無事だったか。今日はどっちが勝ったんだ」


 返事はない。いつものことだった。喧嘩を除けば真面目に働く好青年だが、一度こうなると態度が悪い。ここにたどり着くまでの出自も一切不明なので問題視して怖がる住人も多いが、ノルンや神官には奥底にある善性が見えている。実際、他の者に危害を加えたことはない。


 それに、大体の者は不仲の理由も知っているのだ。


「あはは、そんなにネメロスみたいな顔をするなって。エレーナも怖がるぞ」


 二人は手を止め、冷静を装ってはいるが徐々に赤面してきたのを誤魔化すように口をひらいた。


「何の話をしてんだ!」


「関係ねーだろうが!」


 威勢良く立ち上がった二人の額に、とんでもない速度でスプーンが飛んでいった。的確に中心を射貫き、木と骨がぶつかる甲高い音が痛々しい。


 投げつけたのはネメロスだ。長机を回り込んでいき、倒れているところを容赦なく蹴りつけた。脇腹につま先をめり込ませ、正確に鳩尾を踏みつける。


 初めて見た者は顔を引きつらせるような暴力だが、毎度のことなので誰も気にすることがない。本気でやっているように見えるが、もしそうなら建物ごと崩壊する。


「ノルン様に向かってその口の利き方はなんだ! 心からの謝罪をしろ!」


「うるせぇ仏頂面女! お前だって色々言うだろうが!」


「側近だから良いんだ!」


 ノルンが「えっ?」と驚いた。


「あのぉ」と遠慮がちなエレーナが近寄ってきた。「さっき私の名前が出たみたいですけど、何かご用ですか?」


「あぁ、この馬鹿コンビに聞いてみろ。ほらっ、答えてやれよ!」


 交互に顔を踏まれながら「何でもねぇよ!」「許さねぇからな!」「向こうに行ってろ!」


 エレーナは首を傾げ、困惑しながらもネメロスを宥める。


 そんな騒ぎをよそに、遠くの席からは破裂音のようなものと、女の叫び声が響いてきた。

 

 背筋のぴんと延びた禿頭の老人が、軽快な走りで逃げていく。確か七十代も半ばな筈だが、張りのある肌を紅潮させて満面の笑みだ。


「隙を見せるのが悪いんだ」と悪戯小僧そのものな台詞を吐く。


 対して、追いかける女は鬼の形相である。


「待てクレシス! 森に捨ててやるんだから!」


 叩かれたのであろう尻を押さえながら、手にした皿を何度も振りまわしては空振りしていた。


 ノルンはニコニコしながら麦酒を呷り、


「クレシスさん、元気になって良かったなぁ」


 ジャンの髪を掴んで吊り上げていたネメロスは呆れかえり、


「いや、昔からああですよ。あのご老体は……」


「そうかなぁ。来たばかりの頃は連れ合いや倅を亡くして寂しそうだったけど、今では随分と明るくなったように見えるよ」


「言われてみれば……。明るくなり過ぎですけどね」


「君も同じだよ」


「え、私がですか」


「自覚はあると思うけどね、私の酒癖と違って。そんなことより良いのか? 君の鹿肉を狙っている者があるけど」


 音もなく忍び寄っていた子供がぎくりと動きをとめ、バレては仕方がないと素早く鹿肉を掬いとって食べてしまった。


「ふざけるなクソガキィ!」


 新しい追いかけっこが始まり、ようやく責め苦から逃れたジャンとリシャールは、わざわざ救急箱を持って介抱しようとしたエレーナを照れ隠しに突き放し、尻叩きのクレシスは複数の女につかまって締め上げられている。


 周りの者達は慣れたもので、大笑いしながら囃し立てるのも小数だ。


 ノルンは麦酒を飲み干して目を閉じた。しばらく騒がしさに浸り、ふと物憂げな表情になると、まったく手をつけていない食事を子供達に分け与えて席を立つ。





 最上である四階には、神官達の部屋が並んでいる。一部屋につき四人が寝起きすることに決まったとき、ノルンも適当にどこかの部屋に入ろうとしたのだが、そうすると誰がノルンと同室になるかで大揉めとなってしまった。


 結局は南側の角部屋でネメロスと二人になった。顰蹙の嵐は「側近権限だ!」の一言で収まったが、ああでもしないと決着がつかなかっただろう。自分の拘りのせいで嫌われ役を担わせてしまった。 


 他の部屋より少しだけ広く、窓が多いだけの部屋だった。昔から特別扱いされることを嫌い、神官と同等の衣食住を好んだ。他の神から見れば狂気の沙汰であり、最初は神官達をも大いに当惑させたが、何が変なのか理屈が分からない。


 窓からはささやかな農園が見渡せる。時期によって様々に色づく景色が好きだった。こんな風に窓辺に立ち、日々の騒がしさの余韻を噛みしめて生きて行ければ、本当はそれだけで良かった。


 清浄で茫漠とした天界には決してあり得ない、汗のにおいや、感情の行き違い、雑然とした人いきれに混じる命のざわめきを浴びて、ノルンは少しずつ強くなり、弱くなった。そして、それを心地よいと感じている。


「私は、正しくあらねばならない。正しい判断を……」


 この呟きも何度目か分からない。  


 善悪を計る天秤としての自信。その有無を自らに問う度、かぶりを振るようになったのはいつからか。認めざるを得ないもの、認めたら終わってしまうものを、常に突きつけられていると気付いたのはいつからか。気付きが深まるほどに神としての何かが失われていき、悪神を討つにも代理の神官を立てる体たらくに陥った。


 環境が変わりすぎたのは確かだ。高みより機械的に裁いていた人間と同じ場所に立って言葉や感情を交わし、自我が崩壊するような痛みにもだえた。愚かなだけだと断じていた筈の存在を助け、共に暮らすことが幸せそのものに変わった自分への違和感が、とうに消え失せてしまったことによる動揺。


 気配がし、物思いが途切れた。開いたドアから覗いたネメロスの顔は、未だに上気して少し汗ばんでいた。


「お身体の具合でも悪いのですか」


「いや、そういう訳じゃないが」


 下階から微かに大声が聞こえてくる。風が吹き、窓を打った。


 ネメロスが横に立ち、同じように窓からの景色を見る。


「ノルン様……」


 食堂とは打って変わり、うつむき加減だ。眉を下げ、髪ばかり触って続きを言おうとしない。


「すまないな。君にまで、いつも通りを装わせて」


「いえ、そんな」


「食堂にいる者達は言うまでもないが、病棟の人々は変わりないか」


「大丈夫です。近隣の村や街をまわって、お年寄りは勿論、感知しうる限りの動力停滞者を陰ながら救済しています。しかし……」


「わかっている。顕著なる訪れはこれからだ。そうなれば、もはやエイリーを討つまでどうにもならない」

「はい……」


「滑稽なものだ。大仰に持ち上げられながら、君達を犠牲にしなければまともに役割を果たせないのだから」


 ネメロスは、自らを保持する支柱が折れ曲がり、そのまま崩れ落ちそうな錯覚を覚えた。今まで、この数万年、ノルンがこんな諦観を吐露したことは断じて、ただの一度もなかったのだ。日蝕時でもない太陽が黒く染まるに等しい、まさにこの世の終わりの光景と言って過言でない。


「ノルン様、そんな、いったい何を……」


「さて」


 黙らせるかのように真っ直ぐにネメロスの目を見た。柔らかいが真剣な眼差しを受け、ネメロスは無意識に背筋を伸ばし、足を揃えてしまう。


「細かな戦況を聞かせてくれ」


「……ご、ご報告します。現在、軍神トュールはピリミ大海の中央付近にて、南東および北からの応援部隊と交戦中。第六陣、七陣が討ち破られ、このままでは増援が間に合わなくなり一気に押し切られるでしょう」


「アスティリアに来るのも時間の問題か。さすがは筋金入りの戦小僧だ」


 陣形にもよるが、一陣殲滅されれば三十から五十の犠牲になる。自らの分身ともいえる神官に膨大な数の被害者が出ている現状に、心を動かすことも許されない。今は世界にとって最も重大なことにのみ目を向けるべきだ。


 いくら冷静を装っても、その拳は指が潰れそうなほど強く握られている。


「増援が途切れれば……その時は、ここにいる者も出動させますか?」


「無論だ。フーリンに十分な助力を行うまでは、私が消耗するわけにはいかない」


 今こうしている時も、フーリンに自らの力を送り続けていた。


ノルンは依然としてエイリーに迫る力を持っている。しかし、それを扱うための器が限界を迎えているのだ。動力停滞の最たる標的とされたことで肉体が弱り、そして心は――


 ノルンの心中をよそに、ネメロスが首を傾げた。


「ところで、あのダイン・フィングという男は信頼に足りますか?」


「強さは申し分ない。だけど彼は色々なものを内包しすぎている。振り切れぬ過去と、今に背負っているものとね。後者に関しても、フーリンなら少なからず気付いていると思うが」


「はぁ」


「あの娘は、暴力と私達以外の世界をほとんど知らない。重篤な傷を抱えているダイン・フィングとの間にどんな反応が起こるだろうか」


 ノルンは膝が抜けたようにベッドに腰かけた。人間の感覚では理解しようもない悠久の時を共に過ごした神官達が、一つ、また一つと命を散らしていく。その度に自分の皮膚や骨が削られていく感がある。


 元より、一方的に賞罰を与える立場上、他のどんな神よりも感謝と恨みを抱かれる運命にある。戦争になることも全く珍しくないので、死ぬ覚悟なしに判定神の神官は務まらないのだ。


 しかし今回の相手は神。それも、天界に於ける数多の戦を鎮めてきた無敗の軍神なのだ。


 誰も口にしないが、ノルンの助力なしでは時間稼ぎの駒にしかならない。


「ネメロス、隣においでよ」


 突然である。


「え、いや、はい」


 食堂とはうって変わった態度で、ためらいながら一人分の距離を置いて腰を下ろした。


 側近としての威厳やプライドを示すかのように仏頂面をし、つい棘のある言葉を吐いてしまうという彼女特有の照れ隠しも、二人きりだと何故かうまくいかないのだ。


 窮地だというのに、聞いたことのない弱音を聞いたばかりだというのに、穏やかな横顔を見ていると急に事態が好転しそうな気がしてしまう。何度も救われてきたが故の、如何ともしがたい条件反射だった。


 最も付き合いの長い自分が、他の誰よりもノルンを好いている。実力もある。絶対的な確信があった。だから、今度は私が……と、ネメロスは溶けかけていた表情を元の毅然としたものに戻し、力強く言った。


「ノルン様、先んじて私が出ます。そうすれば、友軍の被害を大幅に減らせる筈です」


「そうだね。君は強い。戦況を一時的に好転させ、手傷の一つでも負わせるかも知れない」


 ネメロスの表情が明るく華やいだ。


「必ずご期待に沿います。世界のため、貴女のために死――」


「何があろうとも、それは許可できない」


「えっ……」


「院から出ることも固く禁じる。どんなに惨い方法をとってでもだ。わかったね」


 穏やかな口調だが、反発すれば目鼻が飛びそうな鋭さがある。それでも退かず、恐怖を押しのけるように叫んだ。


「何故ですか!」思わず立ち上がり、声の震えを抑えた。「このままでは……!」


「君だけは、ここで終わってはいけないんだ。それこそ、世界のためにね」


「どういう……ことですか。何が仰りたいのか分かりません」


 そう言いながら、ノルンの真意をほとんど測りきっていた。とうてい受け入れられる筈がない未来の仄めかしに膝が笑った。


「もうじき、私の天秤は完全に壊れてしまうだろう。此度のエイリーの件をうけ、いよいよ私には善悪の判断がおぼつかなくなった。奴は本当に悪神なのか、それとも私こそが誤っているのか、もう分からなくなりかけている。これが私の……神としての寿命だ」


「やめて下さい……! 貴女は判定神なんです。いつだって正しく悪を裁き、善を助ける……私共の誇りなのです」


「これからは君がそうなるんだ。私亡き後にね。判定神がいなくなれば、エイリーを倒しても世界は崩れる。だから……」


 ネメロスは声にならない叫び声をあげ、部屋を飛び出していった。残されたノルンは、遠ざかる慟哭から目を背けるように再び窓辺に寄り、空を見上げた。


「エイリーについてだけじゃない。君に重責を負わせて長い苦しみを与えることも、私には正しさが分からないんだ。こんなことが、これから先も連綿と続くのだね……。だとしたら、生きながらに耐えられる気がしない。正気を保ってなどいられるものか」


 ぽつぽつと、休憩を終えて畑に出る者が増えてきた。黙々と種をまく者、屈託なく談笑する者。この何気ない光景を見れるのも、あと何度なのだろうか。


「こんな感覚が、感情が、あるのだな。真意も分からない仕組みに流されて、小さく散っていく。これが生きて死ぬということか。エイリー……私はとことん弱くなった」 


『弱そうなババァだな。図に乗ってるって聞いて面を見に来てやったよ』


 変な子供に吐かれた暴言が蘇った。姿形は十二、三歳。言動とは裏腹に世にも美しい髪をしていた。武器はおろか荷物の一つも持たず、徒手空拳で乗り込んできた不埒者。下手な獣よりも攻撃的な目をしていた。


 そよ吹くような風を自慢げに振るい、何がしたいのか分からぬ内に青ざめて大慌てしていた顔を思い出すと今でも懐かしい笑いがこみ上げる。


 ひとしきり世間の広さを教えてやったが、泣きながら、自棄になりながら、泡を吹きながらでさえ、諦めることなく向かってきた。その荒ぶる心、強さを求めて燃えあがる未熟な炎のなかに、ノルンは確かに正しさの光を見た。不器用であっても、嫌というほどに未来を照らしつけてくれるような灯の火種を予感したのだ。   

  

『仕返しに来い。時は問わない』


 毎日どころか朝夕に来ては倒れ、そのままノルンの部屋に泊まらせている内に住み着くようになった。隙を見ては襲ってくるような時期も長かったが、無関係な者には危害を加えなかった。

 

 ネメロスとはとかく気が合わず、院内と繋がる〝庭〟で喧嘩のような訓練のような戦いをしては、実直に力を高めていく様子をいつも見守っていた。


 明確なタイミングもなく、いつの間にか家族の一員だった。『私の神官になれ』と言えば『そんなダサいものが着れるか』とくるのでまたネメロスと喧嘩になり、出会いから一年を勝手に祝して贈った望遠鏡は『アンタを殴るのに丁度いい』と振り回すばかりで一度も本来の使い方をしてくれない。


 そんな、変わった娘の成長が、距離の縮まりが、楽しみになっている自分がいた。同時に、ゆくゆくは力を借りることになるかも知れないと考える、自らの打算に嫌気が増す日々でもあった。


 今や打算は現実となり、自分はなにも出来ない。安全な場所からなけなしの力だけを貸し、待つのみという始末だ。


「こんな情けない私を、無責任な神を、どうか許して欲しい……。そして、無事に戻ってきてくれ。未来ある君達で、未来を造ってくれ。ここで終わりゆくしかない私に代わって」

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