第三十話
勝敗以前に、戦うことが許される相手なのか。そのような疑問を払拭する気にもならなくなってしまう。
「どうした、やり合うんじゃなかったのかい。心配するな。今の僕はほんの指先ほどの動力を取り戻しだだけだからね」
悠然と指招きされると、かえってたじろぐ。このまま武器を下ろしてしまいそうに、隠しようもなく恐怖していた。
放っておけばば発狂か窒息かという、言い様もない力量差がそこにあるように見て取れる……などと、いやに冷静にエイリーの睫毛の長さや爪の艶までを観察するダインがあった。
圧力をうけていながら、血が冷えて凍りそうな落ち着きを懐かしむ自分がいる。気付け薬のように、また七年前を思い出す。あの時に比べてどうだ、とほくそ笑みさえした。
「おいフーリン、なにをビビってんだ。神には慣れてるくせに気を当てられてんじゃねえよ」
気楽な口調に不意をつかれ、フーリンは遠い場所から戻ってきたように息を吹きかえし、肩で呼吸しながら首を振った。
「だ、誰が……こんな悪神ごときに……!」
「ならさっさと始めるぞ。まさか忘れたか? お前が腑抜けてたら、俺は剣を振れないんだ。一歩間違えれば、またあの頃に戻っちまう」
言い終えたときには、フーリンに精悍さが宿っていた。面差しには若干の赤みが差す。
「礼を言います。流石はノルン様に見込まれた男。危機に瀕すればこそ切れ味を増す剣士……。改めて、あなたと来れて良かった」
「しおらしくなるのは後だ。今はこの彫像野郎をたたっ斬る」
二人の気構えが整うと、エイリーが愉悦をもらす。
「良いものだね。本当の強者が互いを補いあう様は」満足そうに一人で首肯する。「さぁ、おいで。やはり何事も自分の肌で直にたしかめなければなるまい。君達がどれほどの戦力になるかを示してくれ」
丸腰で諸手をひろげた。
「勝手をぬかしやがって。いくぞ、フーリン」
相棒の返事も待たず、ナイフと長剣で地面を斬った。いつもの斬撃の嵐が広範囲を席巻するさなか、これまで聞いたことのない金属の擦過音が、しゅらと耳を掠めたような気がした。
フーリンは敵の背後へ滑りこみ、斬撃を遮蔽しながら後ろ首を刺そうとする。しかし、虚無から渦巻いた空間の歪みに阻まれて、前後からの攻めは殺傷力をまったく減衰させられてしまったのだ。
どんな手品なのか、分からないので考えるより先に波状攻撃の隙を狭めていく。常にエイリーを間に挟むかたちで地面を斬り、風の白刃を振りまわす。されど、どうにも通用しないのだった。
必死な二人へ嘆息が浴びせられる。
「本気を出して僕からの評価を上げておかないと、後で困るのは自分だよ? この戦いは君達の今後の立ち位置を左右するかも知れないんだから」
本心から気にかけるような顔をしながら、背後から斬りかかってきたフーリンを見もせず蹴り飛ばした。血反吐を撒き、冗談のように地平線まで消えていく様に、危うく冷静さを奪われかける。
「大概にしろ。俺達はお前と共闘するつもりはない」
「誰が了承を得たいと言った? さぁ、純粋な剣技も見せてくれ」
いつ顕したのか、細身でしなやかな両手剣を悪戯っぽく構えてみせた。身長以上の長物だ。
「ほざくな。忌々しい」
ナイフで自らの腕を斬ろうとすると、両手剣の切っ先に肌をカバーされた。長剣で地面を刺そうとしても、刃の腹で受け止められてしまう。または動きを先読みした鋭い一振りによって防御に徹しざるを得ない局面も多く、呪いの力の発動条件を成すことができない。長大な得物をここまで器用に扱う者を初めてみた。
純粋な剣技とやらを確かめるためか、単に動力不足なのか、いまのエイリーの周りにはあの空間の歪みがない。
自らや地面を斬ろうとしつつ、防戦一方のダイン。
ダインの自傷行為や地面への刺突を止めながらも、斬りつけるエイリー。
妙といえば妙な駆け引きが加速度を増すなか、ダインは何者かの息づかいを聞いた。自分でもエイリーでも、ましてやフーリンでもない。嘔吐を堪える獣畜の苦悶ともとれる。
「ダイン、君は〝それ〟に頼りすぎだ」
肩口に刃をうけ、呻いたときにはナイフを弾き飛ばされていた。
「俺の力を、呪いを、どこまで知っているんだ」
「知ってるも何もね……」失笑したエイリーに、柄頭で額を打たれた。首がほとんど直角に倒れ、地面を跳ねながら転がってしまう。「お似合いではあると思うけど」
「お似合いだぁ……?」
加減に加減を重ねた一撃だと、敢えて分からせる力加減だった。それでもやっと立ち上がったダインは、割れた額からの流血に別のものが混じるのを感じた。鼻からの透明な液体がとまらない。頭部損傷による脳脊髄液の漏出に相違なかった。
やや狭窄した視界。傍に落ちていたナイフを拾い、長剣を杖にして立ち上がる。そして戦闘の構えを取り直すのをゆっくり待ってから、何かに気付いたらしいエイリーは事もなげに口を開く。
「あぁ、そうか。人間の目とは不自由なものだ」
「何が言いたい」
「面白い余興を見せてあげよう」
エイリーの目が不穏な光をたたえ、しかしすぐに何かを察して顔を後ろに向けた。
反撃の機ともとれたが、数多の重い足音にダインも警戒をいだく。遠くが明るい。ちょうどフーリンが蹴り飛ばされた方角だ。
こちらへ向かって来ていたのは、白き獣の群れであった。一口で数十人は丸呑みにしそうな巨なる異形達は体表に雷を走らせ、地を踏み揺らしながら猛然と突進してくる。
フーリンが作り出した風の像なのは明らかなるも、このままでは巻き込まれてしまう。かなり感情的になっているようだ。
逃げ場もないので覚悟をきめ、エイリーに背後から躍りかかったが獣群の到達が早かった。接近されると、思った以上の物量に圧倒される。獣の造形は、ディーロとの戦いで戯れに形成した芸術作品とは程遠い不揃いさで、胴も顔もない刺々しい輪郭と大小の多足を備える。俊敏性と攻撃力のみを求めている上に、巻きあげた塵芥同士の摩擦によって火山雷の要領で発雷しているのだ。
たまらず踵を返して逃げるダインをよそに、エイリーは超然としたものだった。呼吸も直立もままならない大地震のなかで諸手を広げている。歓迎だとでも言わんばかりに。
どうするのかと思えば、真っ正面から受けて立ってみせた。荒ぶる角や牙を剣技でいなし、体当たりには拳を見舞う。落雷に身を焼かれるのも意に介さず、そこらの強力な異族より遙かに上位であろう相手を斬り伏せ続ける立ちまわりは、敵ながらまさに神であった。
見惚れたと認めても良い。剣捌きに連動してせめぎ合う、大きな背なの筋骨にふと頼りたくなるような、護られたいような、生命としての依存本能に敗北しそうな自分がいる。どちらが敵で味方で、善で悪だったのかを自問させらているのは錯覚か。
――あの両手剣はエイリーに付き従っている。喜んで共にあろうとしている。振られるたびに嬉し泣きが聞こえてきそうだ……
何某かの衝動に足が進んだ。構えをとらず得物を垂らしたままで戦渦に巻き込まれに行く。自覚は皆無だ。混乱した心を置き去りに、しょせん人間である身体が抵抗を解いてしまった。あの美しい存在の傍にありたいとの迷妄が、不覚にも先んじた。
殺陣の音楽。この世ならぬリズミカルさに足が速まる。急ぐべきなのだ。神もこちらを必要としている。
「くたばりなさいエイリイイィィ!」
正気へと叩き戻されたダイン。
数えるくらいになった雷獣の腹を突きやぶり、狙いに狙い澄ましたタイミングでフーリンが飛び出してきた。
ちょうど一体を斬り終え、すかさず次を相手取ろうとした針の穴にも満たぬ隙。そこを狂いなく突いた風の白刃。後頭部への急襲。
しかし、またあの渦だった。空間の歪みが逆巻き、狂おしく踊っては神と人間とを断絶してしまう。ほぼ不可視の障壁に触れた雷獣は、真夏の氷も同然にしぼんで消えた。すんでのところで危機に勘づいたフーリンは姿をくらまし、発破音を残したかと思えばダインの隣で唇を噛みしめていた。
二人が言葉を失おうとも、やはりエイリーは鷹揚で、憩いの風情だ。
「今のは良かった。剣だけで応じようと思ったんだけど」
優雅にのたまう健康的な顔を、是が非でも殴ろうと気色ばむフーリンの望遠鏡を、エイリーが指さした。
「え……」
永い年月をかけて弱風に削られる岩の様子を、数秒に短縮したかのような損壊。神器たる望遠鏡は煙よりも細かく分解され、影も残さず天へ運ばれていった。
フーリンは黒く汚れた手を見つめながら自失の体だ。ノルンから譲られた形見であり、かけがえのない相棒だった物を奪い去られたのだから。
ショックのほどを知ってか知らずか、エイリーは楽しげだ。
「君にはすまないが、戦いにそぐわぬ玩具を片付けさせてもらったよ」
ダインは改めて生来の習い性に従い、したり顔の神への憎しみやフーリンの心情などを頭から追い出し、つぶさに周りを確認する。
この空間へ連れてこられたときは、一つまみの緑もない土色の園だった。それが今は若干の緑を取り戻している。苔とも呼びがたい薄さであっても、さっきまで確かに存在しなかったものだ。
かと思えば薄苔が枯れくさっている箇所も多く散見される。
「気をつけろフーリン。奴が出している渦は恐らく、局所的な動力の操作領域だ。触れた部分の時間やら生命力やらを好き勝手にされちまう」
攻撃を無力化した歪みの壁も同質だろう。そこまでまくし立てても、望遠鏡だった黒砂を見るばかりで返事がない。代わりとばかりにエイリーが鼻を鳴らした。
「今頃気付いたのかい。休んでないでかかってこい」
動力の奔流である渦は数を増やし、規模を大きくして暴れ馬のごとく駆けずり回る。
「斬るぞフーリン。構えろ」
信頼ゆえに返答を待たずに地面を斬った。フーリンが消え、エイリーの衣服が裂け散る。しかし肉体への損傷は与えられなかった。全ての斬撃が見えていると殊更に分からせるような目配せなど交えながら、決して目では追えぬ体捌き、微なる動きの連環によって布一枚のところで躱してみせたのだ。
いくらやっても無駄なようだが、どうやら渦をだす間には護りが張れないらしい。とはいえ不気味な唸りをあげて疾走する渦はダインを追い回し、気まぐれにそこらを荒らしては不規則に迫ってくるので厄介だ。
致命的なものを避け続けながら諦めずに地面を斬る。エイリーがその気になれば、頭上でなおも膨張を続ける天体から半無限に動力を引き出し、瞬く間に勝敗は明らかになるだろう。
勝ち筋を見いだせるとすれば、この戦いを採用試験とでも考えている慢心に付けいるのみだ。つまりは全力を維持してこちらの利用価値を示し、失望させぬうちに策を講じなくてはならない。
分かってはいても相変わらず攻撃が通用しないのだ。あらゆる相手を微塵にしてきた呪いの斬撃は確かにいつも通り発動している。周りにあった建造物の基礎跡や瓦礫などは影も残らず刻まれ、まっさらになった地は長剣やナイフを振るたびに深い刃創でもって掘削され、乱雑な堀のように巡り交差していた。
そんな斬撃と動力渦の地獄をかいくぐり、フーリンの攻撃らしき残像が時折エイリーを掠めていく。
「ご自慢の一手が、何故にこうも当たらないのか。命より大切な得物がどうして破壊されたのか。単なる実力差なのか、動力操作によるものなのか。自分はいま、本当はどんな思いで立っているのか。分からなくなっているかい? そんな筈はないよね。これから大いなる流れに逆らおうとする者が、こんなところで僕の審美眼に躓くわけがない。大多数の弱者みたいに、自分が死ぬ理由すら分からずに消えていくわけがないんだ。そうだろう?」
エイリーは気遣わし気に眉間にしわを寄せ、闇雲としか思えぬ剣の振り方をした。すると高速機動中だったフーリンがばたつきながら墜落し、叫んで藻掻き苦しみだした。
「どうした! フーリ――」
あの飛行速度を捉えた芸当に吃驚し、駆け寄ろうとすると足下に黒いものが落ちてきた。
皮鎧に包まれた脚部。根元から切断された細い片脚であった。
苦痛とショックから立ち直れないフーリンに、容赦なしの凶刃が降りかかった。なんとしても阻止すべく斬りかかったが、完全に動きを予見されていた。
手元に衝撃。エイリーの投げた両手剣が、ブーメランのように飛来してダインの長剣を打ち砕いた。腕ごと持っていかれそうな勢いに冷や汗が吹き出したのも束の間、視界の外からやってきた動力の渦に右腕を捕らわれてしまったのだ。
痛みも何もない。だが、太く逞しかった利き腕は無残に縮みあがり、肩から先が脱落した――否、感覚はある。実に弱々しいが動かすこともできる。しかし酷く矮小なそれは、生まれたての赤子に戻されてしまったのだと理解した。
中身を失った布鎧の袖が風になびく。身体の一部が急変したことで血行が狂い、目眩どころではないグラつきと吐き気が実に猛烈だった。
「どうしたんだい? その程度でへこたれてちゃ、これから先やっていけないよ」
エイリーは無邪気に戦意を煽ろうとする。
「大丈夫だって。これが終わったら武器も身体も元通りにしてあげるから」
「黙りやがれ……!」
強がってみても力の差は歴然だった。打つ手のないダインは膝をつき、いまだ地に伏せるフーリンは大腿の切断面を風で縛っての止血に命がけで、息も絶え絶えである。これほどの様になるとは。
「心底わからないな。どんな致命傷を負っても後で治すと言っているんだよ? つまりは、にっくき僕に心ゆくまで捨て身でかかってこられる。どんな手でも試すといい。恥ずべき卑怯な手段でも、全てを賭した奥の手でも使い放題だ。見せてくれよ。強者たる君達の手腕の真価をもっと見せて欲しいんだ」
ここまでコケにされ、二人は意地と気力で立ち上がるが向かってゆけない。動力の渦は揃って遠巻きを駆け、ハゲワシのように瀕死の獲物を見守っている。
動きあぐねていると、エイリーは素敵なことでも思いついたのか快活に指をならす。悪戯っぽい笑みも浮かべて、
「気が乗らないか。だったら良いものを見せて元気づけてあげよう」
わざとらしく意味深にダインの頭上を眺めては、そこに両掌を差し向けた。
まるで〝手〟を用いるような所作を見て、いつだったかエイルーシャに聞いた話を思い出した。神に〝手〟はない。神自体が世の恩恵の具現であり、肉体が法力と同質だからだ。故に意識するだけで行使は思うがまま。人間や神官のように構えなど必要ないのだと。
ではエイリーの意図するところは分かり易い。眼差しや掌に誘導されていく視線の先、こちらの脳天の真上に見せたいものがあるのだろう。
「ダインさん! 駄目です!」
悲痛な金切り声。肩を上下させるフーリンが、目線も上下させている。ダインの顔と何かを見比べては唇を噛みしめ、「駄目です」とやるせない面持ちで繰り返した。
「駄目なもんか」
エイリーが首をすくめると、途端にダインは目が見えなくなった。




