第二十六話
フーリンは颯爽と飛び上がっていき、すぐに見えなくなった。
城塞は篝火もなく静かである。もぬけの殻かと疑うほどに。迎撃への警戒はまったく無駄となり、拍子抜けの体で前衛塔を通り過ぎてすぐにぶつかった水堀は、そこらの都市外周のものなど比較にならない幅だ。
石橋に足を踏み入れた。遙か先に城門塔は、やはり跳ね橋は下りている。
聞こえるのは自分の足音のみ。柄を握る手が汗ばんだ。
ひたすら何事も起きない。本当にここが決戦の地か。
長い石橋が終わった。眼前にそびえる城門と、左右に広がる幕壁。適当なものを斬って粉砕してやろうかと懐を探りつつ、跳ね橋を踏んだ。
石から木へと、変質する足音、軋み。木材特有の柔らかさ。僅かばかりの暖かみ――
一歩を境に、網膜を焦がされた。橙に燃えさかる城壁は、地上にある夕焼けのようだ。
「……!」
眩む視界。一歩前までとは空間が変わったのを肌が理解する。明らかに絶無だった敵の気配、呼吸が、幕壁の内側に満ち満ちていた。石橋から見ていたときと、城塞のスケール感がまるで違う。ここだけでも超大国の雄大さがあった。
左右には果てがなく、首を垂直にしても見上げるのがやっとな幕壁に、星の数ほど設けられた狭間。兵種に応じた多様な穴から漏れだす光は、火矢の先や種々の〝手〟だろう。
万、下手をすれば十万単位の殺気が、たった一人の男に向けられているのだった。
明るさに目が慣れてくると、もはや上空と呼べる高さにある胸壁に居ならぶ者達がどうにか視認できる。遠目にも伝わってくる段違いな力。純然たる強さ。エイリーが向かう『これから』の戦いに加わる資格を有するのだろうか。
この戦力差、果たして闘争と言えるのか。敵は構えを解かず不気味に沈黙。こちらとて多くの問答は不要。巨象の群れに、蟻が言った。
「どうした、手でも震えるのか? だが狙いを定める必要はない。いくら腕が悪くとも、どうせ誰かさんのが当たるだろ。これだけ雁首そろえといて心配性も何もないもんだ……さっさと射ってこい!」
返ってきた怒号、第一射の津波たるや、幕壁がそのまま倒れてきたかのようだった。
まずは火矢の大群。逆扇形に狭まってくる脅威を前に、ダインは足下の跳ね橋を長剣で斬りつけた。
敵からすれば特殊な防御壁でも張ったかに見えただろう。一定範囲の火矢はことごとく両断され、勢いが死んで落下していく。
幕壁には縦横無尽な斬撃が走りまわり、最上にまで達した。災害じみた轟音で崩落すると、内側の歩廊に隠れていた神官達が大量に溢れでてくる。蟻塚でも壊したかのようだ。
斬られなかった者は翼を出して飛ぼうとするが、とんでもない質量の石材が降ってくるので殆どが撃墜されている。
――やはり、縦にばかり伸びるか
つまりはフーリンが今も上空にいるのだ。斬撃の指向からして、ほぼ真上に。
横手からの火矢は処理しきれておらず、依然せまっている。ダインはそのとき、サイコロ状になった跳ね橋から、水堀の対岸へ飛びうつる最中であった。
虚空に身があり、手近には斬れるものがない。加えて全ての矢が神器なのだろう。ならばと、こちらも神器であるナイフを抜いた。せいぜい刃渡り二十センチ。ふんばりの利かぬ状態で一閃し、こめかみに刺さりかけた最も近い矢を斬ってみせた。
反射的な手業に我ながら興奮を覚える。腐るまえの自分が完全に戻ってきたと。
再びの滅多斬りの連鎖。矢は一本の例外なく輪切りとなり、幕壁に対しては右方へ偏った破壊が広がる。相棒は目まぐるしく動いているらしい。
受け身をとって対岸に着地。同時に地面にナイフを刺す。第二射として放たれていた法力の混沌が、多股に分かれてダインを避けていった。
とにかく内部への侵攻を目指す。長剣を引き擦り、地面に刃創の線を描きながら走る。長く続けて斬ることでの効果は甚大であり、もう敵の攻撃はダインに対しての影響を持たなかった。矢も法力も通じず、理不尽に討たれるのみ。フーリンもかなり無軌道に動くようで、それに合わせて幕壁も神官達も満遍なく消えていった。
いつまでも崩れ終わらない瓦礫が何度も細分化され、登れるほど低くなった頃には砂山と化していた。夥しい遺体や兵装の数々が、足の踏み場もなく埋まっている。
敵方、ひとまず完黙だ。内部の下中庭へはどの程度の被害を出せているか、残存勢力はいかほどか。ここから窺うことは出来ない。
長剣もナイフも納めず、慎重に砂山を登ろうとしたときだった。全盛期を超えた勘が刺激をうけ、強化された脚力で水堀の際まで飛び退いた。
突如、頭上に浮かびあがる白銀の紋。ディーロのそれを遙かに凌駕する規模であり、逆巻く風の軌跡のようなものを象っている。
――あれが動力神の紋なのか?
連綿とつづく砂の山脈が、宝物のように煌めきだす。
例えでなく、瞬きをする瞼の開閉動作の間に、幕壁や敵兵は全くの元通りになっていたのだった。まやかしかと勘ぐったが、伝わってくる敵の息づかいは本物だ。矢尻の火にいたるまでが元通りに、狭間から狙いをつけていた。
治癒とは呼びがたい。完全で、あまりに迅速な回復。この感じには覚えがある。
この中に使い手がいるのだ。法力こそメアリに比肩するが、似ても似つかぬ禍々しい戦意を放つ者が。
「案外と、面白い連中だな……!」
歯噛みし、長剣の柄をぱきりと鳴らす。ここまで腹が立つとは想定外だった。たかが、同じような〝手〟を有するだけだ。分かっていても、理性の外の自分が吠える。血反吐と生にみなぎっていた過去を、見知らぬ相手に穢されたと不条理に怒るのだ。
「知ってるか? 死にながら戦うと、世界が灰色に見えるんだ」
地面を足ですくい、蹴り上げる。脚部に付加された風によって、大量に山積していた矢の残骸が半径十数メートル範囲で舞い飛んだ。追いかけるようにダインも跳躍。
見上げていた胸壁がすぐ眼前に迫るまで、一呼吸よりも早かった。凸の小壁体に片足など乗せ、泰然と構えていた神官達の間抜け顔と対面する。遙か高みより見下ろしていた筈の相手が、消えたかと思えば長剣の間合いにいるのだから当然だ。
ダインの周りには、共に跳んできた無数の矢屑。振るいまくったナイフがどれかに当たり、ブツ切りし放題が再開された。
今度の斬撃連鎖は大きく左に偏り、壁体を跡形もなくしてしまう。肉片の嵐のなか、崩れゆく胸壁を超えた。内側に作られた、戦闘員配置のための木組みの歩廊までが馬鹿に広い。そこもすぐに崩れたが、ダインが走り出すほうが先であった。
どこまでも続く歩廊を、被害の軽微な右方へ進む。白と黒の神官共が、命を投げうってかかってくる。対するダインは長剣を納め、ナイフの一本で迎え撃つ。
下階の歩廊からも飛んでくる者、駆け上がってくる者が大挙する。見たことのない武器の雨あられ。ダインは自分の毛髪を抜いてまき散らし、裂帛の気合いを入れて斬った。
視界を埋めていた敵の攻撃、届く直前だった投擲武具の数々は雲散霧消した。分厚い敵の層が、手前から順に彼方まで爆ぜていく。それでも手を止めず、舞っている髪を精密に斬り続けた。上下左右が、斬撃の濁流に呑まれていく。
耳鳴り、万燭の光。動力神の紋の中にいると知ったとき、既に敵勢力は回復されていた。これまでの攻防を無にし、息を吹きかえす大軍。
上等だと吠えては歩廊を斬り、珍妙な槍を斬り、蠅の機動の矢を斬り、巨岩の如き槌を斬り、拳を斬り、少年を斬り、剣士を斬り、翼を斬り、自らの肌を斬る。
虐殺の暴風が、天体をも斬り墜とさんばかりだ。幕壁が砂となり幕壁となり、肉片が神官に、神官が肉片になる間隔が果てしなく短くなり、死体と生体の姿が重なってぼやけて見えた。
――あの野郎か
城塔の先端に、天を仰ぐ男がある。ヒキガエルにそっくりな醜い顔貌、肥え太っただらしのない体つき。そして極めて不運なことに、脂ぎって伸び放題な長髪が、銀色にギラついていたのだ。
反射による見間違いでも関係ない。十分な罪科だった。『存在が罪』と額に書いて、こちらを小馬鹿にしているに等しい。ダインは獰悪な異族も逃げ出す形相となり、並みいる神官を薙ぎ払いながら城塔を駆け登る。
不運な神官はダインを相手取るための要たる存在だけあって、猛獣のような盾兵に堅守されていた。しかし野菜同然にカットされ、消え失せるのみ。
目の前に来てもヒキガエルは気付かない。味方を信じ、天に差し出した紺碧の〝手〟に全神経を集中させていた。息切れが激しく、もうじき余力が尽きようとしている。
背後にまわり、首筋にナイフを押し当てると神官達の攻撃がやんだ。どこからか「奴なら大丈夫だ! いいから射て!」と上官らしき者の号令が飛ぶ。
「好かれてるな」
振りあげたナイフを広いつむじに根元まで突き刺し、頭内を掻き混ぜる。脳を奪われながらも生死を往復し、手足をばたつかる様子がまた醜く、感情を逆なでされた。
そして最後の瞬間の、振り絞るような足掻き。「ググ」と呻き、身体の芯をぴんと伸ばして静かになった。無論だが他の者は挽肉であり、二度と刃向かいはしない。泡を吹くヒキガエルを小脇に抱えて飛び降りる。歩廊と壁が沈んでいく音を聞きながら下中庭に立ち、周囲を警戒。
整然と並んでいただろう何棟もの厩舎や納屋、騎士館などが見る影もなく潰れていた。土壌そのもののように堆積する死体。ろくに状況も分からず、自らの死因も知らぬまま巻き込まれて逝ったであろう犠牲者達が、どこを見ても転がっている。
丘のふもとを囲う盾壁と、丘上周りにそびえる盾壁にまで多少の損傷を与えたことを確認。フーリンはもうじき城塞の反対側まで回りこむと思って良いだろう。
敵影がないことを今一度確かめてから、ヒキガエルの心結晶の摘出を試みる。背面側の割創が激しかったので、ナイフも使わずに割り開くことができた。そのまま手を突っこんで筋肉を分け入り、骨の隙間を指で押しとおり、硬化したものを掴んだ。
思い切り引っこ抜いた心結晶はやはり紺碧で、持ち主とは不釣り合いに美しい。〝手〟を持つ者がこれを胸にかざし、適合すれば能力を得る。ダインには無用の長物であるも、フーリンに与えれば味方ながら恐ろしい存在になるだろう。
風の力との相克が不明だが、上手くすれば極めて強力な武器だ。少なくとも他の敵兵に渡らせる訳にはいかない。
しかし、背嚢に放り込もうとした心結晶はたちまち色を失い、水のように溶解してしまった。敵なりの簒奪防止措置か、あるいは力を使い果たしていたかである。
さっと興味を失い、主塔へ向かう。滅茶苦茶になった大規模な菜園を横切り、根っこからばらけた葉菜を踏みしだいていく。途中、奇跡的に無傷な井戸を見つけて喉の渇きに気付いた。
滑車を手繰り、上がってきた桶には澄みきった水がなみなみと。口をつけ、渇望のままに飲み下そうとし、そもまま脊椎反射的に投げ捨てた。反射の引き金は、水のなかに嗅ぎ取った一粟の異臭。
濡れた口まわりを拭って唾を吐く。唇が軽微に麻痺し、動かしにくかった。
「賢い獣だな。ダイン・フィング」
どこかで聞いた声だった。やたらと階高のある穀物庫の、剥き出しになった主柱に寄りかかっていたのは、脱出直後にダインを追い詰めた色黒の神官である。あのときに持っていた、長槍に牛を刺したようなとち狂った武器は見当たらない。何より、エイリーの神官たる象徴であろう氷雪色の鎧が、今度は黒鎧に深紅のマントという装いへ変わっていた。
兜は外しており、短く刈られた白髪が窺えた。穏やかな表情に反して、馬と見紛うほどに太々しい首が異常な戦力を示唆している。
「おっさん、さっき斬ったのは分体か」
「あぁ。実に男らしい所業だった」
「昔から士道だけは尊ぶんでね。ところで冬服に衣替えか? 筋肉ダルマのわりには先を見る目があるじゃねーか。これからは〝本格的に寒くなっていく〟」
男が目元だけで笑った。
「二つの神が共存すれば、どちらの内情にも通じる者が必要だ。双方に属する調整役がな」「そうかい」と気のない返事をし、ダインが地面に長剣を刺した。しかし、柔らかに耕されていた畑土は、火花を散らして刃を弾いたのだった。
「ラルタル黒豹騎士団団長代理、ダヴィッド。今からお前の手足を轢きつぶす男の名だ」
無手のままこちらへ来る。寄りかかっていた主柱は背中から離れず、何故か倒れるでもなく共に迫ってきた。
「優男の時間は終わりって顔だな」
「あぁ、厳しく躾けてやる。二度と冬が来ない世界では、お前の世話役も務めるからな」
背に付いてきた主柱――巨人専用としか思えない、鉛色のランスを右手に収めた。破城槌にしても大袈裟な代物だ。
「星でも採ろうってのか……」
ダヴィッドの左手首から、垂直に伸びた赤錆色の〝手〟は初めて見るものだった。
ナイフで自らの腕などを斬ろうとしても、いつの間にか表皮が力場で被覆されていて刃が通らない。
「硬質化の法力だ。今この場にある全てのものは尋常な攻撃では傷一つつかない。仲間と己を護り、生き残るための力だが、お前にとっては相性最悪だろう」
「俺のことは知り尽くしてるって顔だな」
「あれだけ暴れれば当然だと思うが。嫌でも分析ができる」
違い無ぇ、と余裕をかましても確かに状況が悪い。
「しかし困ったな。ここには非力な人間と、見かけ倒しなリバーシブル野郎しかいない。決着よりも時間稼ぎが目的か?」
「言ったろう。手足を轢きつぶすと」
ダヴィッドの背から純白のものが顕現した。四対の仰々しい翼は、残像のみを残して持ち主を連れ去った。どこを見ても姿を捉えられない。炸裂する衝撃波と、鼓膜を打つ風切り音だけが飛翔速度の甚だしさを認識させた。




