第二十五話
攻撃と呼ぶのも憚られる、天変地異の襲来だ。蔓ぶすまとも言うべき緑の天蓋が地に達すると、それは爆雷の嘶きをもって地中に潜没していく。街だった筈の風景が、瞬く間に青臭いジャングルと化してしまった。
この只中にあれば粉微塵になること必定。ディーロでなくとも勝ちを確信しただろうが、果たして二人は無事であった。不可視にして不可侵の風幕に護られ、平然そのもの。人間の修練では到達できない域の法力。
敵もさる者であり、放った以上の速さで蔓を引っこめた。瞬時に消えるジャングル。
単純な物理的衝突を取りやめ、次なる一手は水責めだ。虚空より出でし水が、区画すべてを包む規模でもって半球を形成。
そして地に空いた穴からも黒く濁った地下水が噴き、ウミヘビの魂をもったように泳ぎ出すのだった。
いわば、今の二人は水槽の底に沈む泡。割れろ割れろとウミヘビに体当たりを受け、万事休すの様相だ。
「困りましたね。私の風もいつまで保つか」
フーリンは無から有を生成するのではなく、あくまでも周囲の風を利用している。故に水中では新たな風を味方につけることができない。この状況で相手が攻撃の手を強め続ければ、限界を迎えるのは時間の問題だろうか。
『用済みだ』
耳で聞いたわけではない、声ならざる声を感じた気がした。
凄まじい地震のなかで目覚めたフィーナは、混濁する記憶を引きずって起き上がろうとしたが微動だにできない。怪我が原因ではなく、大勢に押さえつけられているような圧迫のせいだ。
盲いた暗闇のなか、えも言われぬ恐怖。声もあげられない。用済みとは何だろうか。額を打つ雨粒のような宣告だった。
壁が軋り、天井が歪み、家を構成する石材が破砕して落下しかける音を聞いた。
誰の仕業なのか。知る気にもならず最期を受け入れた。ダインを殺し損ねた心残りも、この運命を知った後ならどうでも良い。ダインを殺せば前に進めると口走ったが、実際のところは未来を変える術など持たなかったのだから。異国で差別され続け、独りで死ぬだけだ。
「私の味方は貴方だけでした……」
聞き手のいない遺言が室内にのぼる。
「私を野盗から救うばかりか、ラルタルの参事会にかけあって両親と同じ刑吏にしてくださった。そればかりか、こんな復讐の機会まで……」
フィーナには見えるべくもないが、明確な殺意をもった大石が落下位置を微調整しながら降ってくる。
「本当に……本当に有り難うございました。……ベルナルドさん」
数人を潰して余りある大石が、見えない隔たりとの接触によって砂利のように砕けた。次から次に、露骨な悪意で軌道を変更して落ちてくるものが、返り討ちにあって爆ぜる。
聴覚のみでも、何かに護られていることは知覚できた。
もし盲目でなければ、ベルは未知の現象を見ただろう。人間界の常識では有り得ない緊密さによって、はっきりと象牙色を帯びるまでとなった風の防御層が。
〝手〟の主の意識から離れてなお、人外の持続性と威力。これほどの業を成すのは――
「――なぁ、フーリン」深くうつむき、遠目では泣いているように見える。「お前の風を何度も浴びてきた俺には分かる。そろそろ良いだろ?」
問いかけられ、顔を上げたフーリン。今まで見たことのない、快感の絶頂のように抑制を失った表情。その皮膚の赤らみ、悦楽爛漫たる破顔からは、平生の澄ました人格がすっかり飛んでいる。
「これは失礼ぇ……だけど、ようやく馴染んできた……。体液の中で……神が沸き立っている……」
水のドームが浮上し、ディーロの顔の高さで静止した。湖かという水量を通して、星空が忙しなく屈折している。
そして半球は球になり、ざわついたかと思えば鳥の姿をなした。ディーロを掴んで持って行きそうな大怪鳥だ。
「虫けら女、何をした」という困惑は、水が誰の支配下にあるかを示していた。
大怪鳥は羽毛の一枚一枚、脚の質感に眼光の鋭さまでが精緻に、不必要なまでに再現された生ける彫刻のようだった。しきりに羽ばたいては高度を保ち、抜け落ちる羽までがゆらりと舞う始末。
そんな代物を、風のみで創造し操る者。フーリンは溢れ出る力に酔いしれ、前後不覚の体で〝手〟の輝度を激しいものとした。
大怪鳥が猛攻を開始。体表にこの世ならざる風力の奔流があり、触れるだけでもディーロが押されていく。鉤爪やクチバシが閃くと、引き裂かれた蔓が汁を撒きながら飛ぶ。
「調子に乗るなぁ!」
激怒するディーロが顔前に顕現させたのは、内郭でも見せた輝く球体。相互に赤色光線を渡し合うことで象られた、隻眼の豹が睨みを利かす。低く余韻を残す咆哮。獲物を喰らうべく全開にした口から、紅の水流束が放射された。
空を駆け抜ける直線は飛びまわる怪鳥を蒸発させ、隣の星まで届けよとばかりに消えていった。ディーロが体内で精製した水は、人間界の空気との微かな摩擦によって高温となり、石などは雪のように溶解させる。
盛大な一発であるが、フーリンが直前で法力を解いていたので肩透かしだ。既に制御を失っていた水が驟雨となって降りしきり、ディーロを嘲笑うようだった。
馬鹿にされたことは、射った者が一番わかっている。言葉も出ないほど怒り心頭のようで、唸る豹をこちらへ向け直した。すぐに二発目が放たれるだろう。
敵の破壊力は甚大。されど二人は正面から歩み寄っていった。フーリンが数歩前を行く。
豹が吠えたてる。口内でとぐろを巻く紅の水流。
「フーリン、いいか」
「いつでも」
放射された特大の攻撃。それよりも、ダインの動きが速かった。
訪れた静音。大気中にある雨粒の針が、一本残らず断ち斬られていく。
真っ直ぐに到達する筈だった水流は、紅の軌跡を八方に分けて発散されるにとどまった。
刹那の間を置き、ディーロの肉体が崩壊。網を通した果実のように、草汁の洪水を垂れ流しながら高さを失っていく巨体。
悠々と空に身を置いていた二人は、洪水がやむとディーロの傍に降り立った。蔓を剥がされた、小さく醜い男の元へ。
水死体を彷彿とさせる最奥の本体は、顔のほとんどを占める眼球を破裂させながらも息があった。
「おい失敗作野郎、一つばかり答えろ」
見下ろして言うが、聞いてはいない。迫る死期と、予期せぬ敗北に震えている。
「馬鹿な……何故だ……お前は今、魔剣を持っていない筈だ……」
ダインの爪先が、赤ん坊のような腹を蹴り潰した。ディーロは転がり、眼の亀裂から液体を噴く。
「ないんだよ……魔剣なんざ、どこにもな。これは俺自身の呪い。どうしようもなくクソったれた授かり物だ」
ダインが手にしているのは、背嚢にあった小振りなナイフ。金に縁取られた象牙質の柄が、気まぐれな微風のような曲線をなす刃渡りと相まって、実に優美な神器。旅に出て間もなく、フーリンから贈られたものだ。
ディーロが自嘲気味に息をつく。
「成る程、そうだったのか。あのノルンが遣わした神殺しの剣を甘く見ていた間抜けは、妙な気を起こせばこうなる運命だったって訳だ……。これもまた、大いなる流れの一部なのかもな」
「生意気に感傷に浸るんじゃねえ。次は俺の質問だ」短軀を片手で拾いあげ、ナイフを突き出した。「さっきも聞いたが、俺達を捕らえた時に殺さなかった理由を言え。どうして今更、エイリーを裏切ってまで襲ってきたんだ」
「奴は我々の主神ではないが、今は亡きトュール様の盟友だったが故に助けてやっていたに過ぎない。それだけだというのに、奴は大役を果たしたこの俺をゴミ同然に扱い続ける。だからまずはお前らを殺し、奴の思惑を潰してやろうと……」
恨み節を続けようとした矢先、短い手足が唐突にへし折れ、捻じ切れた。絶叫して泣き叫ぶ白ダルマの頭を鷲掴みにしたのは、またもや見たことのない面様をしたフーリンだった。喜色から一変、今は悪鬼の相が貼りついている。
「トュールというと、軍神トュールですか。奴はエイリーと共謀した末、死んだと……?」
五指を狭めると、ディーロの頭蓋が軋む。
「やめっ、やめろ……! そ、そうだ! トュール様は……ノルンとの戦いで――」
言い終わるより早く、根菜を踏んだような音。首から上が紙の薄さになり、それきり喚くことはなかった。
「ノルン様……」最後の雨粒が、天を仰ぐフーリンの頬に落ちた。「そうでしたか。ようやく顛末が知れました」
胸に手を当てたのは、今やその体内に残るのみとなった温もりの実在を確かめるためか。
寂寥に窄まりそうな肩に、ダインが手を置いた。
「直接の仇が死んじまっても、そもそもの元凶はすぐ近くにいる。そうだろ」
「えぇ、仰る通りです。さんざん目立ちましたし、大胆に行きましょう」
感情を抑え、逸らし、それでも漏れ出てやまない激情に骨が震えていた。きっと、一人でいれば獣のように吠えていたのだろう。
細長い物が二本、ゆっくりと落ちてきた。長剣と望遠鏡だ。それぞれの得物を手に取り、二人は音もなく空の者になる。先程も感じたが、これまでの風とは違う。全身を包む柔らかみは、薄もやの白さも手伝って極上の羽毛のようであった。余計な風が顔にかかることもなく、完璧な制御がなされているのが分かる。
感嘆する間に、想定外の高度に達していた。ラルタルどころかベリア公国をも見下ろそうかという上空に関わらず、気圧や気温の変化さえ感じない。
あまりの高さと上昇速度に面食らったダインをよそに、フーリンは足下の一点に当たりをつけて急降下を開始。海にでも飛び込むように頭から地表へ突っ込んでいく。
ダインも同じ格好を強いられ、流石に恐怖を感じる。抗いがたい本能的な恐怖だ。
フーリンはお構いなしに加速。また加速。そして捨て鉢気味な鬨の声をあげ、最後の舞台への到着を告げた。
「動力神エイリー・ケイオス!〝覚悟しろ〟 !」
地面との衝撃なき衝突。逓減された墜落音がぼんやりと聞こえ、風の白さが消えたときに初めて、自分達がエイリーの居城を目前にしていると知った。
目前といっても、正確には運用補助城庭内。城塞の下中庭を囲う膜壁から外側に丸く飛び出した一帯の中であり、市街地との隔たりの役目も兼ねる雄大な家畜用放牧場が広がっている。しかし、今はどこにも家畜の姿は見当たらない。
約一キロ東より、滑車の軋る音。フーリンが目を凝らす。
「前衛塔らしきものがありますね」
「視力まで上がったのか」
前衛塔があるならば、そこから下中庭へ通じる城門までの跳ね橋があるのだろう。案の定、降りきった跳ね橋が石造り橋と繋がる音が続いた。
要するに敵がやってくるのだ。だが、慎重さなど捨て去ったフーリンは、迷うことなくその方向へ歩みを進める。いからせた肩に望遠鏡を乗せ、実に好戦的な感があった。
後を追おうとしたとき、既に多数の気配が立ちはだかっていた。無から産まれたような現れ方は敵ながら感嘆に値する。
松明、否、低出力な火の法力による人魂のような浮遊火に照らされた。佇む敵影は逆光となり、おおよその数さえ闇に隠蔽されている。連なるシルエットはいずれも体格に優れ、またそれぞれが異様とも言える個性を放つのが輪郭だけで分かる。
にわかに浮遊火が落ち、牧草に引火した。広くは延焼せず、彼我のみを囲い込む。露わになった敵は五人。組まれた隊でも、雑な寄せ集めでもない。戦いを求めて目的地を同じくした猛者達であると、面構えが物語っている。
彼らは黒鎧と紅の外套のみが共通している。異質な個性の決め手である各々の武器は、人間の発想では生まれ得ぬ物々しさ。機能性が想像しがたい構造。
どれが頭目でも無さそうだ。合図なき不統一な動きで、しかし自然な連携をとりながらこちらを窺っている。
「トュールって奴の神官共か?」
「……ディーロをやったのは貴様らか」
質問を返された。機動に幻惑され、誰の問いかが分からない。
「あぁ、ちなみに遺言を預かってる。エイリーは盟友の神官をゴミ同然に思っているとな」
「否、弱き者を無価値と断じているに過ぎない。その考えには如何なる場合でも賛同する立場だ。そして我々も、もはやここまで。エイリーの『これからの戦い』に添い遂げる資格を持たなかった」
「さっきの奴も似たようなことを言ってたが、話に付き合う気はない。これから先のことは、ここにいるフーリンが担うんだ。だから余計な心配をせず、さっさと失せろ」
その通りです、とフーリンが望遠鏡を突きつける。
「主神を失ったからとて、死に急ぐことはありません」
「貴様が言うか。実に皮肉だな」
「極めて不本意ですが、あなた方には同情する部分があります。なので黙って道を空けてくれさえすれば見逃しましょう。そして私が動力神となった暁には、正しく移ろう世界にて平穏に暮らしなさい」
無論、毛ほども本心ではない挑発だ。場の空気が重さを増した。
「平穏に暮らせ……だと? 武力にて天界を調停せし我々に……!」
フーリンが目を細める。憎しみと哀れみの相だ。
「調停すべき天界になど、もう戻れはしないのです。分かっているでしょう。トュールの命令もなしに、希望なき未来に命を投げうつ必要はありません。蛮勇に酔って無駄な犠牲の一つになるより、私を信じて寝支度でもしなさい」
もう、言葉は届いていない。フーリン一流の挑発は思った以上に利いたらしい。
無言の戦闘準備が始まった。敵の面妖な武器が、思い思いの変容を遂げていく。
ある者が担いでいた樽状の物は、かつら剥きに解けきって宙を遊泳。
戦いで剣身が折れ、柄だけを手にしているかに思えた者は、それを心臓に深々と接続。全身が軋みをあげて四足獣の骨格となり、皮膚の質感が金属味を帯び、自身が刃になったが如し。
半透明の拳大の球を指先で回していた者は、こちらの瞬きの度に球を増やし、宙のあらゆる箇所に配置していくのだ。
炎が色味を薄めたので他二名の装備は詳らかでないが、体格が何倍にも膨張しており、本来の姿に戻ったらしいことは分かる。
フーリンが髪をかき上げた。
「利口にはなれないようで」
「我々の……最後の戦だ」誰かが呟き、闘気が最高潮になり、今度は全員が声を揃えて絶叫した。「平穏など笑止! 軍神なき無為な世に、全霊の刃を!」
五方向からの特攻は、丘をも揺るがすものに相違なかった。しかし、非情なる気流の鉄壁が戦士達を弾きかえす。二の手はおろか、風圧の余波だけで立ってさえいられない力量差。
結末を悟っただろう敵は、それでも戦意を曲げずにいる。たった一度の接触で武器は砕け、指や耳目が欠損し、しまいには断末魔の代わりに拳を振りあげた。もう法力も尽きていたようだ。
「まことに残念。ですが、お見事です」
気流の鉄壁が細っていき、すぐに縄のようになった。死に物狂いで暴れる五人を一緒くたに縛り上げると、原型も残すまいと圧殺した。
依然もえつづける放牧地に散布されたのは、数秒前までは意気軒昂だった者達の成れの果て。泥団子とも鉄塊ともつかず、家畜の糞に混ざるのみ。
フーリンは、やや悄然とする。
「天界にあれば、揚々と戦場を駆けていた軍神が眷属……。実の存在意義にそぐわぬ地に放擲され、抗えぬ流れに主神を奪われ、それでも最後まで武をふるって残酷に死ぬことを選んだのです」
炎が吹き消えると、続けて一人ごちた。
「『我々の最後の戦』と、そう言っていました。つまり彼らは自らの敗北を分かりきっていた。元の姿にもどる余力があった者も、たったの二名。動力停滞による憔悴状態でなおも死に場所へ集い、誇りを抱いて果てた。大いなる流れに乗せられた上での行動だったとしても、彼らはまさしく戦士でした」
黙祷するフーリンを見て、ダインは考える。道中に屠ってきた敵はいずれも、問答無用で仕掛けてくるか、人に害をなすか、あまりに多勢に無勢であるかであった。
今回はどれにも該当しないが、だからとてここまで同情的になるのも解しがたい話だ。第一、そこまで言うなら一時的な無力化に留めても良さそうである。相手の覚悟に応じたのは分かるが、随分と惨く撃破したものだ。
元より、酷薄さと慈悲深さが同居している印象ではあった。しかし、ディーロを屠った激しさから一転、逃げる隙を与えるような悠長な挑発。そして容赦のない返り討ち。これほどの情感の不安定には、フーリンの内に起きている生命体としての変遷を読み取らずにいられない。
ノルンの力への完全な順応によるものか。案外、神とはこういった調子なのかと思わされる。
二人の四肢に、白い渦がまとわりついた。フーリンが改めて城塞を見据える。
「無念を背負い、今は突き進みましょう。これ以上の緩慢さは許されません」
四肢に沿って動作に追随する風は、飛行時のものと質が異なる。筋出力に風力を付加し、そして触れる者あらば撥ねのける外骨格だ。
長剣が綿のように軽くなったのを確かめ、
「すぐに二陣がくるぞ。どうする」
「視認できませんが、ここから先には小さな気配の集合を感じます。そうなればダインさんは単独の方が全力を出しやすいと思われます。私は城塞の背後に回りこむので、後ほど主塔で落ち合いましょう。奴はきっと、逃げも隠れもせず最上階にいるでしょうから」
「分かった。死ぬんじゃねーぞ」
「そちらこそ」
フーリンは颯爽と飛び上がり、すぐに見えなくなった。