第二十四話
「どうしてだ、フィーナ」
「聞き覚えのある声だと思ったら、やっぱり気のせいじゃなかった。ダイン……。ダイン・フィングなんだね?」
「……そうだ」
返事をしたときには、投げつけられた鎌が迫ってきていた。素人技ではない速度。背のフーリンに当たらないことを計算して躱すが、どこに隠し持っていたのか次から次へと唸りをあげて鎌が飛んできた。
しかし所詮は人間技。全てを靴で打ち返しながら尋ねる。
「俺と何の因縁がある!」
「このためだったんだ! 仲間を護りながら満足に戦えない病み上がり! 殺人犯を英雄呼ばわりする、狂ったロアナート民からの非難を受けない異国の密室! なんて、なんておあつらえ向きな! やっぱり私はここで生きるべくして生きていたんだ! 何があってもここで仕事を続けたのは、最高の状況でアンタと出会うため!」
「ロアナートだと? お前は一体」
連投の回転が速まってきた。ベッドを蹴り起こして盾とする。
「ははは、流石は英雄様! 私ら下民の命なんて眼中になし!」
しばらく鎌を防いでいたベッドが浮き上がり、天井に貼りついた。
フィーナの左手から内側に枝分かれした、靄のような掌が浮遊の〝手〟。要介助者の補助や、重篤患者の搬送時などのため、医療に携わるものはこれを有する場合が多い。
――両利きだったか
舌打ちをする間に、遮蔽物になり得るものはことごとく天井に吸着されてしまった。ダインとフーリンも離ればなれに浮かされ、うつ伏せで漂う。こうなると自由な移動はできない。
「ダイン、本当に覚えていない? たったの七年前だよ……。街を歩いていただけで無残に殺された……ばらばらに斬り分けられた、罪なき市民のことを」
脳の奥に波長高いノイズが走ったのを感じる。
「私には見ていることしか出来なかった。声を出すことも、動くことも、泣くことさえも。ついさっきまで普段通りに暮らしていた人々……。見知らぬ通行人、露天商、職人の集団、そして私の両親だったものを見ていただけ。あの気持ちって、どう表せば良いんだろうね」
返答に窮するダインに対し、決定打らしい単語をゆっくりと言い聞かせるように続けた。
「『シチュー』だよ、英雄さん」
「……シチュー。まさか……」
「阿鼻叫喚の現場に、真っ先に飛んできたのはアンタだった。食べ始めたばかりのシチューを残してね」
牢の中でフーリンに語った過去。シチューの具をスプーンで割っただけで通行人を斬ってしまった事件。
七年前。破壊神との戦いを終えてロアナートに帰還してから数日。国からの褒美を断り、周囲の賞賛から逃れ、幽鬼のようにただ歩いた。
足が棒になり、旅人しか寄りつかない宿屋で食事をとろうとした。帰ってから初めて、水以外のものを腹に入れようとした。廃人に近い精神が、ぎりぎり保っていた生存本能。
「あの時の……子供か」
「恐怖の坩堝となった場を鎮めようと、英雄が来たのかと思った。だけど、誰よりも取り乱していたのは英雄本人だった。そして発狂して叫んだの。俺がやった。俺が殺したんだ。メアリのように、ってね」
英雄と呼ぶことで、己の憎しみを増長させているようだった。
フィーナが髪を搔き分けると、両頬に切り傷があった。死ぬまで消えないだろう深さ。
忘れるべくもない。血だまりの中の少女。黒い肌。切りひらかれ、表情を失った顔。
生き証人がここにいた。ダインは、国に帰ってから大勢を殺害したのだ。いくら自らの過失を訴えても相手にされず、ついには戦いの心的外傷による心神喪失だと見なされた。
そこでハルト村長に助けられ、長い療養生活が始まったのだ。
「私だってね、質の悪い異族の仕業かと思ってたよ。英雄はおかしくなっちゃったってね。だけど他に宛てもないからさ、アンタの事件前後の動向を調べたり、家の近くまで行って生活を観察したりしていたの。たまーに亡霊みたく外に出てきたかと思えば、薪を割っただけで家が壊れて、建て直した直後に草を刈っただけで、何故かまた家が崩れて……。何度も何度も馬鹿みたいに繰り返してた。それで分かったんだ。アンタの自白は事実だったんだって」
ダインは、うなだれて話を聞くことしかできない。
「私は不可思議ながらに理解した。アンタもまた、誰かからロクでもない運命を背負わされた被害者の一人。哀れに過ぎる男なんだってことを」
フィーナの面持ちに憐憫が差し、すぐに消えた。鎌を光らせ近寄ってくると、ダインの耳に唇が触れそうな距離で大声を張りあげた。
「だからって許されると思うなよ! お前は自分だけが不幸なつもりで、私達のことなんて今の今まで忘れていたんだろう!」
「そんなことはない。俺はずっと……」
「私の気持ちが分かるか! 他人の庇護の元で自分に酔っていただけの呑んだくれに、いきなり家族を失った幼子の苦しみが想像できるのか!」
耳を引っぱり、耳孔に声を注ぎ込んでくる。
「身勝手な頭で考えてみろ。私達は刑吏の一家として、手ひどく差別されながらも幸せに暮らしていた。仕事に誇りを持ち、全力の情熱を傾け、誰よりも優れた技術をもった両親は裏では認められていたんだ。だけど、立派な親を失った七歳の子供は、ただの何も出来ない賤民。それが英雄と持て囃される男の自宅周りで、不審な動きをしたと見とがめられて……。一体、どんな目に遭わされたと思う?」
いくら仕事ぶりを認められていても、刑吏とはやはり忌むべき者。市民と言葉を交わすことは禁じられ、店で酒を飲むにも先客全員の許可を要する。死んでなお、自殺者用の墓に入れられる存在だ。そんな彼らの遺児など、人間の扱いを受けよう筈がない。
「……俺には想像もできない」
耳を掴む力が強まった。外耳が千切れてしまいそうだ。
「そうだろう、こんな屑には分からないだろうね!」
鎌の峰で側頭部を殴られ、噴いた血がフィーナの服にかかった。刑吏は都市ごとに服の色まで規制される。ラルタルの場合は緑なのだろう。
「誰も助けてくれない被虐の日々に耐えかねて、私は命がけでロアナートを出た。盗んだ僅かな食料だけを持って――」
大変な身の上なだけに、刑吏同士には固い結束が芽生えるものだ。ロアナートの刑吏はいくらか知っているが、ダインの知る限りは例に漏れず助け合っていた。
眉をひそめたことに気付かず、フィーナの語りは淀みない。
「――でも、数キロと歩かず街道で野盗に襲われてさ。……今思い出しても震えるよ。あぁ、どっかに売られるか殺されるか、なんにしても終わり。私に逃げ場はなかったんだって。でも自分の運命を諦めきれなくて、抵抗した結果うばわれたのが両目の光よ……!」
鎌の峰が、今度は脳天に打ち落とされた。何度も繰りかえし、フィーナは返り血を浴びながら問いかける。
「ねぇ教えてよ。あの世でパパとママに会った時にさ、私は二人の顔が見れるのかなぁ? 目は見えるようになってるのかな? 顔の大きな傷はちゃんと消えてる? 産んでもらったままの綺麗な顔で会える? どうなの? 答えてよ」
盲いた眼から溢れる涙。ダインの身体から、すっかり力が抜けてしまっていた。
「俺からの確かな返事は、お前に殺されても文句はないってことだけだ。いくら言葉を尽くしても、他に贖罪の方法は有りえない」
ぶちりと、血管の切れる音が聞こえた。フィーナは何歩か退がり、泣きながらけたけた笑う。もう喜怒哀楽の区別もなさそうだ。
「潔いじゃん。下手な言い訳はしないから、さっさと殺せって? 流石は英雄様。消し炭同然の廃人だったのに、どこでそんな大層な男気を拾ってきたんだろう……まぁいいや。アンタを殺しても両親は戻ってこないし、喜びもしないと思う。だけど、ラルタルでの孤独な生に意味を持たせることができる。仇を討った実感を杖に、私はやっと前に歩けるんだ。……ダイン・フィング! 父と母を殺しておいて、のうのうと生きながらえていた悪魔! 今すぐここで死ねえぇ!」
怨恨の乗った白刃が、頸動脈を刈ろうと迫ってくる。ダインは目を瞑った。
――世界を救っても、俺が消したこいつの世界は二度と戻ってこない。俺の過去と同じように
走馬灯か否か、写像の連なり。ほとんど全てのコマで、うるさい女がこちらに向けて怒鳴っている。
皮に潜りかけた刃が、停止した。
無意識にフィーナの腕を掴んでいたダインが瞼をひらき、濁った瞳の奥の奥までを見つめて願った。
「もう少しだけ待ってくれ。この国でやるべきことを終えたら、俺は必ず戻ってくる。その時にはこの首を差し出そう」
覚悟を決めきった迫真に、少しばかり気圧されたようだ。だが、
「ふざけんな! アンタの願いなんて」
「ここで俺が死んだら、フィーナの未来もなくなってしまう」
「訳の分からないことを……。いいから離せっ!」
引っ張られるままに腕を離すと、勢いで数歩後退したフィーナは鎌を構えなおす。呼吸荒く、ダインの言葉に動揺していると見える。
刑吏は、被告人から自白を引き出すための拷問も請け負う。ダインは知る由もないことだが、フィーナは盲目ゆえの研ぎ澄まされた感覚で、相手の嘘や誤魔化しを看破する能力に長けていた。
だからこそダインの発言が真実だと確信してしまい、混乱もひとしおなのだろう。
あまりに荒唐無稽にも関わらず、その場しのぎの狂言ではないのだ。
「どうして……。アンタを殺せば私も終わるっていうの?」
「その通りだ。だから今しばらく、俺に命をくれないか」
この男は約束を守る。そして、なにか大勢の命にも関わる極めて重要な責務の最中であることも、完全に分かってしまったフィーナは、振り上げた鎌を静かにおろした。断たんばかりに噛みしめた唇から、悔しさの分だけ血が垂れおちる。
「必ずだ……ダイン・フィング。全てを片付けたら、私のところに来い」
「あぁ。俺は、然るべき死から逃げることはない」
「格好つけるな。大量殺人犯が」
強ばりの緩んだ声を聞いて、ひとまず安心した。エイリーを討ち、ここを死に場所とする決意を固める。
「すまないな……」
「黙って」
フィーナが法力操作で、二人を床に下ろそうとした。しかし、十数秒たっても浮遊が解かれない。
沈黙。フィーナは顔を伏せ、微動だにせず呼びかけにも反応しない。
「おい、どうしたんだ」
返事の代わりに、逆の手でナイフをも取りだし、ダインに切っ先を向けた。そして緩慢に表情筋が動いていき、人が変わったような奇天烈な笑顔が形成された。背筋が寒くなる面相だ。
「ごめーん、気が変わった。親の敵はやっぱり許せない」
「フィーナ……!」
まるで誰かに操られているようだった。これまでの会話を無に帰する心変わりでもって、フィーナは両手の凶器を高々と掲げる。
「それじゃ、さようならー!」
同一人物とは思いがたい俊敏さで躍りかかってきた。さっきのように腕を掴んで止めるのは、ダインでも不可能な速さだ。ナイフで頭を、鎌で首筋を狙った襲撃。致命傷を防ぐために腕での防御に徹するほかない。
――何故だ
身を固めて激痛に備えたとき、フィーナの痩躯は吹き飛んだ。部屋奥の壁に大の字で叩きつけられ、そのまま動かなくなる。途端に地に足がつき、背後にも誰かが着地する音があった。
「大事ないですか、ダインさん」
目覚めていたフーリンは、まだ少し辛そうにしながらも立っていた。フィーナの安否を確かめに行こうとしたダインを「彼女は無傷です。すぐに目覚めるでしょう」と引き止める。風の緩衝材を敷いていたようだ。
「ようやく起きたか。いつからだ」
風力に背中を押され、フーリンの元まで歩かされた。ぶつかりそうな距離まで来ると、胸に飛んできた小さな拳がつっかえ棒になった。
「一瞬だけ、また死のうとしましたね」
「……見られてたのか。でも、今度のパンチは優しいんだな」
フーリンが決まり悪そうに頬を搔いた。
「寝ている間、随分と世話をかけたようですからね。顔を見れば分かります。牢獄からここまで来るのにも、ぎりぎりの修羅場をかいくぐったのでしょう。私を護りながら」
しおらしさに、かえって口ごもってしまった。
「それに、馬鹿をやって死にかけたのは私も同じです」
「そうだったな。喉に手を突っ込んで声を殺されちゃあ、弩で射たれようとした奴もびっくりだ」
「えぇ、違いないですね」寂しげな目は、どこか過去のダインと同じ景色を見るようだった。「死ぬことに慣れているのも、困り者です」
判定神院の〝庭〟でのことだろうか。仲間と共に、命を落としたこともあると言っていた。何かの例え話ではなかったのか。
「あぁ。俺達は、二人揃って困り者だ」
「らしいですね」
静かな会話は、縦揺れの地震によって終わりを告げた。一部に走った亀裂が壁や天井に伝わり、今にでも崩落の恐れがある。
滑車に繋がる縄を大慌てで引きに行き、落とし扉を上げた。
「ダインさん、急いで下さい」
「待ってくれ。フィーナを置いていく訳にはいかない!」
フーリンは首を横にふり、風でダインを持ち上げて力尽くで外に連れ出そうとする。
「駄目です。彼女は危険ですから」
断言する表情は、まさに鉄面皮だ。対面する者に異論の無意味さを分からせる硬質さ。しかし譲れない。
「ここで死なせれば約束を守れなくなる。俺はフィーナを裏切らな――」
両肩に手を乗せられ、黙ってしまう。初めて会った日と同じように、間近にあるプラチナグレーの光彩に息を呑む。
「大丈夫です。事情は分かっていますから」フィーナの体表に、もはや視認し得るほどの作用力の渦が生じた。「私の命に代えても、彼女は死なせません。信用して下さい」
フーリンがそう言っている。ならば十分であった。一切の迷いは無くなり、振り返りもせず邸宅を後にした。
次なる行動を模索しつつ、先程のフィーナの急変を訝しむ。あの不自然さは、ハーノイルで見たメアリの義父を思い起こさせる。まるで誰かの意志が乗り移ったような面妖さだった。
思考は回らず、地震は続いている。堂々たる豪邸の並びは全潰していて見る影もない。
揺れのリズムが早まってきた。もと来た道を振り返ると。見晴らしの良くなった牢獄方面より迫る五つの山、ディーロが数多の蔓をうねり回し、街を踏みしめるごとに地盤を跳ね上がらせている。接近するにつれて互いが肉薄し、同化し、最後には一つとなった。分体が本体に収束したのだとダインも理解できた。
迷わずこちらへ向かってくる。ピリミ大海の中心まで届くらしい微細な蔓繊維で、今も居場所を感知しているのだろう。追っ手がいないあたり、内郭で交戦していた市民や神官は全滅したか。そうであれば時間稼ぎの手段は残されていない。一時しのぎの逃走も無駄だ。
「ノルンの手先共よ! 次は仕留めさせてもらう!」
どこから出しているのか、街を一掃せんばかりの声量だった。音波に弾かれた細かなものが飛んでくる。
耳を塞ぐダインをよそに、険しい顔で頭上へ意識をやっているフーリン。〝手〟を出して物を掴み寄せる動作を繰りかえすと、ほどなくして背嚢が一つ落ちてきた。
「私が気を失っている間、風の制御が乱れて荷物は散り散りに……。ある程度の範囲を探しましたが、いま見つかったのはこれだけです」
急いで中を確認する。携帯食、地図、小瓶に詰めた酒、それに……。
かつてない縦揺れで、二人は半ば宙に放られたくらいだ。目前まで到達したディーロは、島種に準ずるほどの巨体に変貌を遂げている。改めて、最初に遭ったのと同じ相手とは思えない。幾百の蔓は幾千となり、恐るべき手数が容易に想像される。
感覚が狂いがちだが、彼我の距離五十メートル前後。
「見つけたぞ虫けらがぁ! もう逃げる元気も――」
恫喝の途中に放たれたのは、フーリンの放出した風塊。ディーロは器用に身体を変形させ、難なく避けてしまう。図体の割に反応速度はむしろ上がっているようだ。
フーリンがとにかく射ちまくる。攻撃には明らかな恨みがこもっていた。こうなればディーロも口上無用と動く。
高みより降り注ぐ、蔓。あらゆる戦場で見た、いかなる矢ぶすまよりも濃密で、速く、広く、そして莫大すぎる総重量だった。